虎落笛Lost 2 柳暗花明編
第六鳴 気弱な賓客
右を見ても左を見てもなだらかな闇。この世界で孤独を感じるのは初めてだった。史桜は残党狩りを避け僅かな食料だけを持って馬を駆ける。孤独の恐ろしさを知ったいま、心残りは呂布の娘であった。怪我を押し隠す女主人を労るように、彼女の愛馬は北風を切り続けた。 * 史桜は燃えさかる竹林の夢を見た。彼女を探しに来た武将の凛々しい横顔が瞼の裏へ焼き付く。張遼――漲る双鉞は未だ戦歌を奏でているだろうか。史桜は瞼を押し上げ、固い寝床に横臥したまま煤けた天井を睨んだ。けたたましい蹄音である。二頭。人間が馬を降りて扉を叩く音に耳を澄ます。 まだ夜明け前だ。こんな時間にお客とは急ぎの用か。窓際から眺めると身なりのいい客の一人が宿屋の亭主と対峙していた。旅人はフードを目深に被っていたが体格から察するに若い男。緑と白の衣を纏う彼は細剣を帯び武人の佇まいだった。いかにも腕の立ちそうな身のこなしだ。宿泊することに決まったらしく、亭主に導かれるまま男の後ろ姿が店内へ消えた。 客人が来たということは史桜も働かねばならない。手早く包帯を取り替えるとほぼ完治済みの傷跡を眺めた。楽進から贈られた軟膏は驚くべき効果をもたらしたようだ。粗末な麻衣に着替えると男性風に髪を結わえ、厚手の布で鼻から下をすっぽり隠す。体格に不安はあるも、これならすぐさま身元を判じられることもあるまい。史桜が曹操の手から落ち延びてはや数ヶ月が経とうとしていた。 米を焚く薪の匂いと、窓外で朝霞のうちに淡紫の光を領する遠近の木々を横目に階段を下りていく。 「おお、可心。お客様方の馬を頼めるか」 「承知しました」 「上客だぞ。失礼のないようにな」 小声で釘を刺される。宿屋の亭主は久方ぶりの上客に鼻息を荒くしていた。部屋を出る間際に柱の影から伺うと先の男がいる。なるほど。簡素だがかなり上質な身なりだ。肩紐一つとっても精巧な刺繍が施され一介の店主などが買える代物ではない。どこぞの将であろう。彼らの身元が分からぬうちは用心すべしと首を引っ込めてそそくさと裏口へ回った。 ここは豫州。下ヒ南方にある孫呉の支配地域である。風の噂で、あれから間もなくして呂布が処刑されたと聞き及んでいる。二頭の馬を厩へ引っ張っていくと、隅で不満げに唸る体躯の良い一頭がいた。史桜の愛馬である。彼は怪我が悪化して倒れた女をこの地まで運んだ恩人であり流転の人生を共にした親友でもあった。葦毛の背を愛おしげに撫でるなり、大きな瞳が訴え来る。 「うんうん。そのうち力一杯走らせてあげる。いまは我慢してね」 いまは――それは、いつかここを出て行くということ。史桜はいつまで此処に居られるか、これからどうすべきか不安で仕方なかった。宿屋夫婦は身一つで転がり込んだ彼女を親切にもてなしてくれたが、延々と厄介になり続ける訳にもいかない。彼らと流浪していた頃はどんな状況でも不安で眠れぬ夜などなかったのに。呂布や張遼に遅れず付いていくこと。それこそ生きる糧だったけれど、馴染みなき広大な世界へ独り放り出された今、途方に暮れていた。 「またひとつ、帰る場所がなくなってしまった」 ひとつは元の世界。ひとつは呂布軍。生きる。その約束だけが宙ぶらりんのまま虚しく浮いていた。こちらに来てすぐさま拾われた史桜にとって世界とは呂布軍の「中」である。しかしその理が崩壊したいま心許せる友は愛馬だけ。かの馬は唯一の身内と称しても過言ではなかった。心細さを紛らわすように生暖かい鼻面を抱けば、背後から清廉な声が耳朶を打った。 「すごいな。素晴らしい葦毛だ」 「わ」 「あ、ご、ごめん」 声の主は例の賓客だった。気配を消して近寄ったのか。つゆほども気付かなかった。腰を抜かして藁山にひっくり返った史桜を見て彼は頭巾を取り払って頭を下げた。 「驚かせるつもりではなかったんだ。馬があんまり懐いているものだから、その、雰囲気を壊したくなくて」 十分驚きましたが。そんな命知らずな抗議は飲み込み、相手は客だと思いなして恭しく拱手する。 「こちらこそ騒ぎ立てて申し訳ありません。わたくしは可心と申します。あなたは今朝参られたお客人のお一人ですね。お名前は……」 「徐元直だ。徐庶と呼んでくれたら嬉しい」 穏和な気を纏う青年である。全身から滲み出るは武の誉れだが、陳宮や郭嘉に通じた理智を感じ取った。史桜は緩慢に上体を起こし「徐庶殿も良い馬をお持ちですね」と目尻を細めた。 「ああ。危険なところを何度助けられたか分からない。賢いやつだよ」 彼は頬を綻ばせた。史桜と徐庶。どこか似た境遇を感じ取る。これ以上の追求は諸刃の剣だと知りつつ、相づちを打って、髭に覆われた口元を見た。緩やかに弧を描く徐庶のそれ。男は随まで染みついた憂いを称え、呂布と似ても似つかぬ謙虚さと、張遼のような実直さを備えていた。 「それで。その馬は君個人の馬なのかい」 「はい、風巻き〈しまき〉と呼んでいます」 「しまき……激しく吹き荒れる風か。さぞや瞬足なんだろうな」 「ええ。代わりに気性も荒くて」 髭のせいでだいぶ大人びた印象の徐庶だが、時折、憂愁漂う横顔に若々しい快活さを垣間見せた。顔を輝かせて馬を語る姿はさながら少年のようだ。史桜が苦楽を共にした仲だと言葉少なに付け加えれば、 「よもや江南の地でこのような良馬をお目にかかれるとはな。君はもしかして、どこかの豪族の出なのかい」と息を弾ませた。 「あはは。そんなまさか」 ここは南方の地。馬より船のほうが盛んである。しかも良馬の生産に必要な広大な草原が存在しないため、豪族は高い金を積んで名馬を求める傾向が高かった。戦いに駿馬は欠かせぬからだ。その高貴な集団に自分も属しているなどいたく滑稽だった。人権や平等を掲げる世界から来た彼女にとって身分など在るか無きかの些細な制度に過ぎなかったが、さすがに違和感がある。 「しがない庶民でございます」 ただの庶民が呂布や張遼のような名だたる将と行動していたのもおかしな話なのだが。とはいえ、身元がばれた訳ではあるまい。そう安堵した折り、男は史桜の懐へさりげなく刃を切り込んだ。 「じゃあ別の土地から来たのか」 「ええと。どうして、そうお思いになるんですか」 「だって君は上層階級の邸宅一つ建つくらいの名馬を持っている。けれど豪族ではない。だったらそれしか思いつかないよ」 「……誰かから貰ったという選択肢は」 どちらも正解である。呂布から貰って、各地を流転して、ここに流れ着いた。すると徐庶は訝しむように史桜の口元を覆う厚布を眺めた。 「うん。そうだな、その選択肢も有りだ。けれど、どちらを選んでも疑問が残る。一つ目。遠く離れた土地――おそらく涼州だろう――から君のような女人一人でどうやって来たか。二つ目。君にこんな名馬を与えた高貴な人物は誰か。最後に、庶民と言い張る君がどうしてそんな位の高い人物と知り合えたのか」 指折り数えられて冷や汗が吹き出した。相手は低姿勢なのに、まるで尋問されている気分だ。いや、それより、彼は「女人」と称したか。一定期間この宿で働いていたが一発で見抜いた人間は初めてだった。陳宮並みに手強い男かもしれない。脳内で警鐘が鳴り響く。 「どうして私を女人と思うのでしょう。たしかにあなた様と比べればわたくしは華奢ではりありますが……」 「ええと、それは……失礼になったら悪いんだけど、身のこなしでわかったよ。それに、こちらに来る途中である噂を聞いたんだ。数ヶ月前に怪我をして流れ着いた女人がいたって」 つまり、彼は最初から情報を持っていたのだ。史桜の背に戦慄が走った。何しにきたのだろう、彼は。 「徐庶殿は知ってて私に近づいたと?」 「怒らないで欲しいけど……まあそうなるかな」 お客様、興味本位で身元をバラされては困ります、と史桜は拗ねた。と、肩を振わせる青年に気付いた。しまった、自ら白状したようなものだ。自分が愚かなのか徐庶が賢いのか――八割方前者だろう。会話したのが運の尽きと脱力し――これ以上は分が悪いと悟り、史桜は接客用の薄笑いを浮かべてそそくさと立ち去った。
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