虎落笛Lost 2 柳暗花明編

第七鳴 名馬の導き

 冬空に冴え渡る太陽は真上を過ぎ悠々と水平線の彼方へ消えていった。見心地良いと言い難い曇った鏡面に胸から腰を描く曲線が幻映する。あれから史桜は古傷が痛むともっともらしい理由を付けて部屋に籠っていた。  目を凝らせば身体の縁取りがかろうじて認められる。居候の分際で貴重な鏡を求めるなど我が侭だがみなが水鏡を使いたくなる気持ちもわかるというもの。史桜は枕下へ潜ませた四角い物体を取り出した。極限まで磨き上げられた黒面、さながら漆器のような滑り良い平面に青白い顔が浮かび上がる。女は光失せた画面を鏡代わりに掲げた。本来バックライトが灯るはずのそれは暗い。だが、備え付けの鏡よりは遙かに見やすかろう。彼女は現代から共に参った文明の利器をたびたびかような目的で用いていた。  そうして身なりを整え終れば字の練習が待っている。本は難なく読めるのにいざ書くとなると一苦労だっだ。こちらに来てから騎馬一筋だったつけが回ってきたらしい。史桜は硯と手本書を見比べて微かな落胆を覚えた。 「ううん。難しい。もっと簡単な漢字なら上手く書けそうなのだけど」  育った世界でも漢字は使われていた。されどもっと簡略化されたものだった、史桜が綴る漢字は。対し今居る世で使用される文字は見るに美し、書くに難し。手紙一封したためるにしても道のりは長かろう。  小一時間ほど練習してから再利用すべく木板の表面を削っていたときだった。史桜は珍しく夕食時に呼ばれた。部屋に食事を運んで欲しいという要望を受けて手隙の居候が選ばれたらしい。いわゆるルームサービスである。街からほど近い山林の麓に構えるこの宿屋はときおり密談場所に利用されるため、公に顔を見せぬ客も珍しくないのだ。断わる理由もなかったので騒然と賑わう食堂を通って指定された部屋の扉を叩いた。しいんと静まり返っている。部屋を間違えたかと不安になり始めた頃、奥で何かが動く気配がした。 「お客さま、お食事をお持ちしました」 「ああ。わざわざごめん。ありがとう」  間髪明けず開いた扉。史桜は息を呑む。寝癖を付けた部屋の持ち主は厩で言葉を交わしたあの男だったからだ。手ずから盆を受け取った徐庶は寝ぼけ眼を擦った。昨夜は徹夜で駆けていたのか。彼の馬にも疲労が見えたしよっぽど急いでいるようだ。 「ごめん。ちょっと寝てたんだ。今夜すぐ発たなければならないから。それであの……良かったら入って寛いでくれないか」 「まだ仕事が残っておりまして」 「――少しでいい。お前に用がある」  頭上より威勢の良い声が降り落ちた。徐庶ではない。その声は悪鬼のせまる薄暮に凛然と光を放ち、蝕まれた藁しべの上で悠然と佇立していた。新たに現われた浅黒い腕が退路を阻む。鍛えられた腕、懐かしい草原の匂い。閑かな所作で振り返ると雄々しい瞳とかち合った。 「紹介が遅れたな。俺は馬超だ」 「馬超さま……。こちらで働いております可心と申します」 「ああ、知っている」  異民族風の顔立ちである。薄い髪色、目鼻立ちが明確な整った容貌――馬超という男は二人目の客人だろう。朝から一度も姿を見ていなかったが、今朝世話をした馬と同じ香りを纏っている。男は慎ましい挨拶にぞんざいな会釈を返し、本当に忙しいならば邪魔はせん、と譲歩した。  初対面に近い彼らと女が、この狭い部屋でどんな言葉を交わすものか。史桜は彼らの真意を見極めんとした。別段、横暴を疑っている訳ではない。人は見かけに寄らぬというが、理知的な徐庶が史桜に害為すとも思えぬ。馬超も気持ちの良い好漢に思える。されど不吉な予感がする。暴力よりもっと悪い、ひた隠しにしていたものを暴かれるような。史桜はちらりと部屋の中を見た。使い込んだ剣が立て掛けてある。読み古した分厚い兵法書が無造作に寝床に放り投げてある。のっぴきならぬ事態に陥る可能性もなくはないが、もうひとつの予感に賭けてみることにした。 「かしこまりました。少しの間だけで宜しければ」 「ええと。無理言ってごめん。とても助かるよ」  徐庶の部屋は史桜が間借りするそれより広く上質だった。馬超は机の上に、徐庶は寝床に腰掛けると、木椅子を勧めた。孫子と題する本は見覚えがある。かつて仲間だった陳宮が暇つぶしに貸してくれたものだが、こちらの世界に来たばかりの史桜は複雑な漢字に目を回して大笑いされた記憶があった。  史桜が座り終えぬうちに口を開いたのは徐庶だった。 「それで可心。君はどうして男性の振りなんてしているんだい」 「何かと物騒な世の中ですので」  ひょいと肩を竦める。宿屋夫婦への恩返しとして厩役をしているが、人気のない場所で女一人など不用心すぎる。それに見知った相手に出会えば厄介だ。呂布の旧敵だった日には命の保証はない。史桜の渋面から、暴漢対策はあくまで建前、ひとかたならぬ事情を見て取った徐庶は一息に茶を飲み干した。 「怒らないでくれると嬉しい。実は、君の話、宿の主人に詳しく聞いてみたんだ。その……本当に悪いと思っている、探るような真似をして。だけど君が気になって。それで聞いた話によると、君は怪我が酷く悪化して意識が朦朧としていたいたらしいな。なんでも――矢傷のような怪我だったとか」  徐庶の目が妖しく光った。内密だと約束したのにあの亭主はぺらぺらと触れ回ってくれたらしい。腰を浮かして逃げの体勢に入ると、馬超に手首を捕えられる。そのまま男は鋭く畳み掛けた。 「待て。まだ続きがある。聞くところによると、徐庶は今朝、お前に三つの質問を投げたそうだな。ひとつ、遠く離れた地からどうやって此処まで辿りついたか。ひとつ、お前にあんな名馬を与えた名将は誰なのか。ひとつ、どうしてそれほど位の高い人物と知り合えたのか。俺もお前の話を聞いたときからずっと疑問だった。だが……すべてはお前の傷跡で繋がった」  強い瞳が逃げるなと告げていた。緊張のあまり指先が痺れる。墓荒らし――そんな単語が脳裏を過ぎった。いまの史桜にとって、彼らは人知れずひた隠しにした亡骸を掘り起こす墓荒らしも同然だったのだ。にも関わらず物静かな青年は人差し指を立て、謎解きを始める。 「馬超殿が挙げた謎の解決は俺がしよう。一つ目の答えはこうだ。君は一人で西涼から来たのではない。何かの集団と共に移動して、護られていた。なぜそう思うか? その手は武器を持つ手ではないから。手というのは生活を現わすけど、手綱による傷はあれど、血豆どころか庶民のように荒れてもいない。体つきも、到底武人のそれではないよ」 「では二つ目は?」 「二つ目は三つ目とほぼ同じ答えだ。どこの将があれほどの名馬を与えたか。その答えは……呂布だと思うんだ」  目眩がした。侮れぬ男たちだ。馬超は力なくう打ち枝垂れた女の腕を放し、細く長い息を吐き出した。 「下ヒの戦い、だろうな。呂布という猛獣が討たれてから曹操に降らなかった将兵が周辺地域に流れ込んでいる。戦いの最中で怪我をしたか、もしくは逃げる時に怪我をしたのかもしれん。どちらにしろ亭主の話から鑑みるとお前は最近怪我したのではない。だからこそ俺達は、お前が呂布軍の人間だと断定した。時期が合いすぎているからな。しかも、やつと大変近しかったんじゃないか。でなければあれほど高価な馬を贈られはしない」  ふと、呂布との関係を誤解されている気がした。史桜は自分は愛人や妾ではないと潔白を説き、呂布という遠々しい呻きに耳を塞いだ。彼らはこの話をするために食事を部屋へ運ばせたのか。夕食時に暇そうな人間といえば史桜くらいだから。空白の時間が続けば続くほど、無言の肯定は確かな証拠へ変わっていく。 「徐庶殿、馬超殿は、私を捕えるおつもりなのですか……?」  辛うじて絞り出した己の台詞は存外弱々しかった。確かに。呂布軍の要人ならば、曹操に突き出せば喜ぼう。まことに要人ならば、だが。しかし生憎と史桜は名の在る将でも文官でもない。利用価値は皆無だ。そう説明すると徐庶は焦ったように首を振った。 「ああ、ちがうんだ。安心してくれていい。そんなことはしない。ただ……君は俺と似ている気がしたから、見知らぬ振りを出来なくて」 「似ていた?」 「ああ。いまは仕えるべき国があるけど、俺も昔は追われる身だった」  先に感じた既視感が虚無の隙間にかちりと填まった。彼も流浪の旅を経験している。どのような事情で放逐される日々を送る羽目になったか知らないが、むやみに彼を厭う理由はない。史桜は観念して睫を伏せた。 「徐庶殿には敵わないようです」 「そんなことないさ。俺なんてたかが知れている。だけど君は……女性だてらに西涼の猛馬を乗りこなす人が、いつまでもこんな場所で燻っているべきじゃないと思って」  乗馬姿を見たこともないのにどうして分かる。そう言いたげに口を結ぶと馬超は反論も予見済みと言わんばかりに、細めく櫛目に透かれた雲間のような、彼の豪快さからは想像もつかぬ繊細な笑みを浮かべた。 「お前も知っているだろう。涼州の馬は勇猛ゆえに扱いも難しい。手練れでなければ怪我人が下ヒからこんなところまで乗ってくるのは無理だな」  言い得て妙である。風巻きは優秀な愛馬だがあれを乗りこなすには何年も掛かったのも確かだ。彼女は男から無類の馬好きの匂いをかぎ取って微かな喜びを覚えた。 「けれど、徐庶殿は過大評価しています。私はそんな」  有能なはずがない。そう紡ごうとした矢先、両人に手で遮られた。 「おい可心。その先を言うまえに、もう一度よく考えろ。力に絶対的な価値を求めた呂布が無能な人間に物を与えると思うか?」  馬超の問いに対する答え限りなくひとつ。誰よりも馬を愛する呂布である。そんな勿体ない振る舞いはするまい。史桜より彼らのほうが呂布を理解しているのか。言い知れぬ悔しさと同時に、嬉しくもあった。呂布に、張遼に、貂蝉に近づけているのかと。淡泊な態度が薄れ始めた女を認めて徐庶は一層柔らかく微笑んだ。 「それで……さ。俺たちにひとつ提案があるんだ。その、良かったら一緒に来ないか。俺たちは桂陽へ戻る途中なんだ。北の生活が長い君にとって気候の変化は辛いかもしれない。でもあちらなら曹操の手も届きにくいし、仲間も受け入れてくれると思う。南方では、君のような優秀な騎馬は貴重な人材だから」  驚くべき提案だった。幸先に不安を抱えた史桜には願ってもない提案である。しかし信用できるのか。のこのこ付いて行って売られるなんてことは? のるかそるか。ここが正念場だった。恐れて行動しなければ何も為せまい。  すると沈思する女を見て渋っていると勘違いした馬超が更に念押しする。 「どちらにしろ、この宿屋に長居するな。流れ者のふるまいを見かねた孫呉が呂布軍残党狩りを決定したって話で呉郡はもちきりだぞ。そのうちここも危険になる。それに、これは訊いた俺たちが悪いが、お前の秘密をぺらぺらと喋る亭主だ。俺たちのような人間がいつ何時お前の身元を突き止めるか判らんぞ」  自覚があるだけ馬超は質が悪い。だがこれも運である。霧に覆われた眼前が瞬く間に晴れ渡り、かつて劉備の照らした道筋がくっきりと浮かび上がった。張遼と再会する絶好の機会かもしれぬ。仮に彼が生きているならば、必ず名将として名を馳せるはず――ならばこちらもそれに近い立ち位置で居なければ。  二対のまなざしを受けて史桜は居ずまいを正した。 「私の本名は史桜でございます。どうぞよろしくお願いします」  小さくはにかめば満足げな頷きが返る。いささか乱暴な馬超と理知的な徐庶。奇妙な組み合わせだが、不思議と上手くやっていけそうな予感を得た。

≪ PREV | 目録 | NEXT ≫

ページトップ