虎落笛Lost 2 柳暗花明編
第八鳴 潜む反意
「それで、馬超殿。桂陽ってどこなのですか」 「……お前な。分かってて一緒に来ると言ったんじゃ」 宿の亭主に話しをつけて仮屋を出奔した夜半。賓客と轡を並べて夜陰に紛れる。北風が体温を奪う中、気さくに笑う女はとんでもない問いを投げかけた。馬超は道すがら速度を落とし、見返りざまに嘆息した。 「本気で言っているのか」 「だって何の説明もなかったので……」 「下ヒから一人で孫呉の領地まで来た女なら、ある程度地理を知ってるものだと思うだろう」 「馬超殿、それは思い込みと言うのですよ」 異国育ち、加えて北方ばかり流浪していたから南方とは疎遠なのだ――史桜がもっともらしく抗議する。ならば荊州は判るかと問うと怪訝な色が深まる。仄かな月明かりを頼りに中原講座が始まりそうだ。全権委任とばかりに無視を決め込む月夜に代わり、馬超は地図を渡した。 「徐庶、悪いが説明してやってくれないか」 「わかったよ。ええと、史桜。これは中原の地図だ。それで、いま俺が指し示している中央地域一帯を荊州と呼ぶ。要はへそ、ど真ん中の地域だ。対して、俺達が今いるのはここ」 そう言って徐庶は豫章〈よしゅう〉を指す。呉や会稽を含む四郡からなる江南。うち一つが豫章だ。陸家が大振り袖で支配する人口密集地でもあり、古来目覚ましい発展を遂げている土地である。出会って間もないのに史桜の保護者的立ち位置を占め始めた彼は紙面に指を滑らせ、荊州の最南で動きを止めた。 「桂陽は荊州の最南。俺はここに士官している。他にも何人か仲間がいるんだけど、向こうに着いたら紹介するよ」 現在の君主は趙範である。思慮深い人物で趙雲の親戚にあたる男だ。しかし武勇を誇る趙雲に無理矢理の嫂を嫁がせようと画策しているだとか、そのせいで趙雲と折り合いが悪くなっているだとかはまた別の話。 女は桂陽一帯を眺めて小首を傾げた。 「人は多いのでしょうか。洛陽みたいに」 「いいや、それはないな。荊州南部をあんな大都会と一緒にして考えないほうが良いと思う。董卓や曹操と比べるまでもなく小さいところだよ。経済力も武力も雀の涙程しかない弱い勢力だ」 「そんな小さなところがどうやって曹操に対抗出来ると?」 「うん……たぶん問題ないよ。時期を誤らなければ、おそらく」 史桜の顔に不安げが走った。分からなくもない。滅亡を経験した後で再び危ない橋を渡るのは抵抗があるはずだ。しかし連れて行くと決めた以上、絶壁に立たせる様な真似はしまい。馬超が傍らでそう宥めると女は納得し得ぬ面持ちで唇を結んだ。何を考えているのやら。二人にとり史桜は分り易いようで底が知れない存在だった。だが常に己を見極め、他人の言にも謙虚に耳を傾ける姿に大器の素養が垣間見える。徐庶はしばし女を見定めた。それから意を決し計画の中枢を仄めかしたのだった。 「俺達の太守は思慮深い人だけど意志の強い人だ。易々と曹操に負けるような真似はしないと思う。そうだな。旅の同志として君は聞く権利があるかもしれない。桂陽は人手が足りないから君もいずれ内情知る立場になるだろうし……なにより、これから長い旅だ。俺を信用してもらえるように」 僅かながら警戒を解かぬ女の態度を見抜いての言説だった。しかし出会って一日と経たぬ妖しげな男たちを心から信用しろというのも難しい話だ。徐庶は周辺地図を眺め、もう少し先に進んでから話すと約束して手綱をふるった。朝霧の晴れ行く荒原を越え、空風に湿った空気が混じる。意図を読めぬまま両人に付き従い、澄んだ河川のほとりに腰掛けた史桜はようやく先の真意を明かされることとなった。 「話を先延ばしにして悪かった。少しでも距離を稼いでおきたかったんだよ」 水面を啜る馬に並び、娘は用心深く左右を見回した。 「それでお二方。桂陽が曹操勢力に対抗出来る理由とは」 「ああ。ええと、そうだった……まずちょっと曹操視点から考えてみないか。桂陽はここ、荊州の最南だ。それで曹操は遙か北の許昌。そうすると、桂陽は地理的に遠すぎるんだ」 遠征するにしても莫大な資金が掛かる。それでも荊州は手に入れる価値が在るが、北方の周辺諸国を平定することが優先である。旧友の袁紹との小競り合いが絶えない曹操は桂陽まで手を伸ばす余裕はないであろう、と。また長江以南の荊州南部はさして大勢力が存在するわけでなし。切羽詰まって切り崩そうと思わぬはずだ。桂陽は確かに弱小国だが、鬼の居ぬ間に富国強兵を推し進め、密かに力を蓄える計画らしい。 「貧しい場所なのにどうやって富国強兵を?」 「史桜、お前の国がどうだったか知らないが、この地で貧しいというのは人口が少ないから経済が回っていないという意味だ。しかし中原広しといえど、荊州の肥沃さは驚くべきものがあるぞ」 第一に荊州は雨量に富み稲作に適した肥沃な大地である。食べ物が潤沢ならば人口増加に堪えられるし富んだ食料は遠征にも役立つ。第二に桂陽の更なる南方、山を隔てた交州である。この土地との貿易路を確立、あわよくば独占出来れば間違いなく国が潤う。なにせ未開発地域と思われがちな交州だが高い文化を誇る魏の貴婦人どもが喉から手が出るほど欲する貴重な珍品が多い。北の魔の手が届き難い桂陽の立地条件を二重三重に利用して、着々と準備が推し進められていた。 あとは太守や副官の手腕次第である。上手くいけば有り余る資源を元に富国強兵を計れるのだから意気も上がる。さだめて足りないのは有能な人材だけ――徐庶が各地を回っていたのも、呂布軍崩壊に便乗して国の支柱となるべき人物を拾ってこよと命じられたせいだった。されど予想以上に成果は芳しくなかった。所詮、残党は残党に過ぎない。 「だから俺は、君に会った時、もしかしてと思ったんだ」 「はあ。しかし私は……自分が国を支えられるような人間だと思えなくて」 「ああ……。そうだな、最初はそんなものなのかもしれない。俺も自分にどんな価値があるかと不安になるけど、太守殿や副官殿が信じてくれる。その恩に報いたいと思ったらいつのまにこんなところまで来ていたよ」 徐庶は純粋な人だ。自信過剰と対極にある二人は似ている部分も多々ある。が、史桜は徐庶ほど一途に国を思えぬだろう。それは愛国心を鼓舞し人を戦狂へ導くことに恐れを抱くからか。否。史桜の身へ染み込んだ匂いが徐庶の世界と異なるせいだ。どれほどその土地で長き歳月を過ごそうと、根底に眠る概念、人を突き動かし生きる意味を見出す理を真っ向から覆すなど無理なのだ。 そこへ馬超がまっとうな疑問を呈した。 「だが曹操軍は強いだろう。呂布でさえ敵わなかった。富国強兵だけで乗り切れるものか?」 「俺は大丈夫だと思っている。桂陽は単なる足がかりに過ぎない」 なにやら高度な会話が交わされる。女は瞳でどういうことか問うた。 「ええと。史桜、馬超殿。地図を見てくれ。荊州といえば、群雄が必ず手に入れたいと思う場所があるんだ。ここと、ここだ」 「……ほお。江夏郡と江陵か」指し示した地域の真ん中を走る巨大な河川。長江は江夏を南北に隔てる川だ。彼らが求めるのはその南側である。地理に敏な馬超はすぐさま理由を悟った。だが史桜は首を捻るだけだった。 「江陵の説明はいずれ本国で。それより江夏には、あるものが存在するんだ。乱世を乗り切るに必要不可欠なものが。史桜、君は乱世と聞いてまっさきに何を想像するかい」 「戦いでしょうか」 「では、戦いに必要なものは」 「武力や武将の方々だと思います」 「そうだね。だったら、武将が戦いで必ず持たなければならないものは何だろうか」 「必ず?」 良い調子だと褒めながら結論に迫る二人。辛抱強い徐庶は教鞭をとるに相応しい人物だ。 「食事でしょうか。お腹が空いては戦は出来ませんものね」 あ、私お腹が空きました。ご飯にいたしましょう。とついでを零す女に馬超が堪らず噴出した。 「そこで飯がでてくるのはお前くらいだ」 「……馬超殿の中で私はどんな印象なのですか」 文句の付けようのない師なのに、生徒に難があっては苦労する。そのままの印象だ、と好漢は闊達に返した。 「武将といえば武器だろうが。それを持たずして戦えん。それと身を守る鎧や籠手も必要だな。これらは戦に欠かせん。しかし武器や鎧を作るには金属が必要になる。しかも国が潤ってくれば銅銭を鋳造して富を国内に回さなければならない」 「――それで。ここまでくれば馬超殿の言いたいことわかるかな」 徐庶が気遣うように声を潜める。その時、ふいと黄色い蝶が視界を遮り、嘱目の美しさ、冷感名残る春の到来と、世界を越えても変わらぬ季節の移ろいに目を奪われた。軽く額を叩かれ、そぞろな意識は現実に還る。馬超が呆れ顔で「徐庶の説明を聞け」と唸った。 「ごめんなさい。な、なんのお話でしたっけ」 「江夏だ、あほう」 呆けていたのは事実だけに反論出来ぬ。娘はややむくれて徐庶の説明に聴き入った。講師は、ええと、と口を濁して冷戦を繰り広げる男女を伺い見る。 「その……続けていいかな。俺がさっき指した江夏南部には、大量の鉱山が眠る銅緑山が存在する。あたり一帯は大規模な工業地帯で多くの職人が住み込みで働いている場所なんだ」 やにわに息を飲んだ音がした。女は徐庶の言わんとすることを理解したらしい。史桜の瞳がかつてないほど爛々と輝いた。先ほどと段違いだ。不徳義なほど食いついた女に馬超は苦笑して感慨に耽った。 「桂陽、長沙、零陵、武陵。そして江夏を取り、更に力を蓄えて襄陽に挑む。それが桂陽の計画らしいな。さすが徐庶、諸葛亮と同門だけある。用意周到なことだ」 計画「らしい」――馬超の言い草に違和感を覚えた。そういえば桂陽の対曹操戦について真っ先に問うたのも彼だ。もの言いたげな視線に気が付いて、馬超は、ああ、と愁眉を開いた。 「なんだ。言ってなかったか? 俺は桂陽の人間ではないぞ。同盟のために短期間滞在しているだけだ。今の話も初めて聞いた」 俺の本拠は西涼だからな、と笑う涼州の男。どうりで似た匂いがするはずだ。されど同盟国とはいえ他国の人間にそんな話をしていいものか。史桜は目を瞠ったが、男共は平然とした顔だ。彼女は、西涼と桂陽はただならぬ関係なのだ、とだけ理解した。 「うーんと。つまり、他の場所はともかく、江夏郡を押さえれば全国の財布の紐を握ったようなもの。だから、その貴金属を他国相手に高く売りつけ……稼いだお金を軍につぎ込もう作戦ですか」 「端的に説明すればそうなると思う」 「にしても、もっと言い方ってもんがあるだろう、お前は」 彼女の要約は限りなく正解に近い。が、どうしたことか。まるで緊張感がない。それにも関わらず本人は至って真面目なのだ。娘はすぐに、質問がありますと挙手した。 「身も蓋もない問いかもしれませんが。桂陽から順々に北上するなんて回りくどいことしないで、一気に江夏を押さえてしまえば良いのではありませんか」 するともう一度、両人が嘆息。それは殊更深く、鉛のようだ。だが静澄な水面、雲間に覗く天のまなこ、今は大地の裏側へ姿を潜めた月影さえもが無知に対する寛容さをそっと説いていた。 「改めて聞くけど。史桜、ちゃんと地図は頭に入っている?」 「で……ですからこの国の世情には未だに疎くてですね」 ――地図なんか見てもわからないのです。 徐庶の顔にどっと疲労が広がった。観客に徹していた三馬が心労を労るように鼻息荒く首を振る。しかし筋は悪くない。戦略に関してまるきり無知な娘だが、教えれば教えるだけ先へ進もうとする姿に、かつて死にもの狂いで知識を貪った徐庶自身を垣間見た。史桜もまた武のみで中原を支配した呂布の下で苦汁を舐めた人間だからか。糸を縒り合わせ豪奢な布地を作る機織りのように史桜との遭遇は必然に思えた。 再度馬超に小突かれ叱られた娘は指南役が重たい口を開くのを待った。 「せっかく考えてくれたのに悪いけど、それは無謀な策だよ。江夏郡の隣には南陽郡、南郡が存在している。南陽郡は人口密集地で富が豊富だから、まず群雄たちはこぞってここを狙うはず。もし俺達がいますぐ江夏に拠点を構えれば、荊州北部を狙う曹操勢力と一戦交えるのも時間の問題だ」
「荊州北部はそんなに人が多いのですね」 「ああ。南部とは圧倒的な差があるんだ。江夏を本拠地にした場合、曹操の勢力は目と鼻の先だと先程話したろう? にも関わらず桂陽は未だ群雄に対抗し得る力を持っていない。しかも江夏と桂陽の間には長沙を支配する韓玄がいる。同盟次第だけど、あの江夏を狙うんだ。韓玄との戦いは避けられないはずだ」 つまり真っ先に江夏を目指したとて前後左右の恨みを買って挟撃、ついに奪われるのが落ちなのだ。だからこそ彼は曹操の手が及ばぬ桂陽で力を貯え、時期を見て江夏を手に入れるべきだと説いた。よどみない解説に感嘆するばかりである。徐庶は穏和な男だが敵に回せばそら恐ろしい。史桜は彼らに着いてきて正解だったと深々と頷いた。 なにはともあれ。桂陽は折りを見て周辺諸国を下し、趙範を太守に乱世平定へ名乗りを挙げるつもりだった。もっとも徐庶自身、他国に恨みがある訳ではない。が、拾われた恩がある。臣下は誰にも気取られず下準備を推し進めるだけだった。 「桂陽には俺よりずっと優れた軍師がいる。今は見習いだけど、切れ者だ。江夏までの計画は彼らと俺で進めている。あとは優れた武勇を誇る猛将と……殿にその器があるか、だ」 「そうだな。おそらくその点がもっとも重要だ」 殿という単語が指すはただひとつ。趙範である。含みある言葉を残して徐庶は思索に耽った。曹操に対抗すること。すなわち中原を覇する者に直結する。徐庶はその点だけ気がかりだった。秘密裏に計画を推し進めている仲間は信用に足る。されど国内は決して一枚岩と言えぬ。魏に降りおこぼれを欲する臣下も少なくないのだ。史桜に会う少し前、不穏な情報を仕入れた徐庶は我にもなく不透明な焦燥に駆られた。 「とりあえず俺が打ち明けられるのはこれくらいだな。あとは馬超殿や本国の仲間から聞くといい」 「話してくださり感謝いたします、徐庶殿。……じゃなくて、徐庶、馬超。これからはお二方をもっと信用いたしますね」 女は気恥ずかしそうに微笑んだ。 「ありがたい。俺もお前ともっと馬について語らいたいからな。警戒されたままではつまらん」 「ああ。俺も光栄だよ。骨折って話した甲斐があったんだな」 晴れやかに目元を細める二人。彼らが信用に足る人物なのは間違いない。桂陽の中でどんな計画があるにせよ、そしてそれにどんな穴があるにせよ。高い危険を冒して腹を割ったこの男には着いていく価値がある。徐庶はひとつの賭けに勝ったのだ。彼が信を置く馬超や、その仲間ならば言うまでもなかった。 山眠る氷原に南風が吹き渡る。縫うように駆け巡る熱帯林の名残。別れを抱いた冬国を離れて史桜は馬背に跨がる。旅はいまだ半ば――自由の可能性を秘めた荒野が世迷子の足音へ耳をそばだてていた。
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