虎落笛Lost 2 柳暗花明編

第九鳴 世迷子

 張遼は只一条の小路を登る。雪代に溶けた泥が新調した靴を汚した。青装束に身を包む逞しい武将――黒と赤を脱ぎ捨てた男を彼女は軽蔑するだろうか。足元に這わせた視線を上げると、日の光で木々の輪郭は次第に白く、淡くなった。  史桜と生き別れて幾月。張遼は魏将として新たな生を得、許昌に居を構えている。ちょうど近くの切り株で昼餉を済ましたばかり、男は心地良いまどろみに身を任せて乾いた草むらへ横臥した。  世迷子。猛禽にそう呼ばれた女はあれきり消息を絶った。死体は出ていない。曹操がくまなく捜索したというから確かだろう。 「しかし驚いた。曹操様が彼女に興味を持っていたなど」  曹魏に降った後、彼は驚くべき事実を知った。ひとえに魏将らは史桜の存在を知っていたのだ。尾ひれのついた噂はろくな内容ではなかったが曹操の執着は本物である。死体がないと分かった後も秘密裏に行方を追っていた。それでも依然見つからぬのだ。誰かに囚われたのではないか。のたれ死んでないか。同じ年頃の女を見かける度、とりとめない考えが浮かぶ。 「私も存外愚かなのだな」  逃がしたのは張遼自身なのに。だがあのまま呂布軍にいたとて命の危険はなかったろう。曹操の臣下になるまでもなく、あの男は無駄な殺生をしない人間だと知っていた。  ――ならばなぜ逃した?  分かっていたはずだ。自分の下から離せばそれだけ危険が増す。史桜は孤独のまま荒れ果てた中原を生きなければならないのだから。なのに選ばせてしまった。つまらぬ意地で曹操から遠ざかる道を。 「戦鬼も惑うか」  やぶらかぼうに冷淡な声が降り落ちる。張遼は眉をしかめた。聞き覚えある声だが、なぜこいつが自分に付きまとうか理解出来ない。胸を圧迫するずしりとした重みに瞼を押し上げるとまばゆい金色が薫風と戯れていた。またあの鳥だ。獣のくせして人語を解する面妖なそれに、彼は息衝いた。 「……またそなたか。私に何用だ。ここに史桜殿はおらぬぞ」 「知っている。お前が逃がしたからな」  漆黒の体躯に浮いた黄金の羽根先。沈黙を守る輝きの傍らで巨大なトサカが楽しげに痙攣した。すべて知っているぞ。そんな含み笑いである。張遼は得体の知れぬ鳥を鬱陶しく思う反面、邪険に追い払うことも出来なかった。秘密の共有。知らぬ間に出来あがった男同士の絆は厄介な代物だ。猛き鳳凰は鼻先まで顔を寄せ、張遼の瞳を覗き込んだ。 「大方、たいしたことない理由で逃がしたのだろう」 「事実無根の噂を元に私の真意を憶測するのはやめて頂きたい」  流布された噂に肝を冷やしたのは一度や二度ではない。根も葉もない、といえば大嘘だが、呂布軍の話になるたび冷やかされたり憐れまれるのには辟易していた。 「ああ。なんだったか、あの噂」  すると、したり顔で喉を鳴らす鳥。墓穴を掘った。張遼は分り易く渋面して獣を追い払おうとした。 「用がないのなら去られよ。私は屋敷に戻る」 「世迷子と違って愛想のない男だ」  やつは素直に張遼の腹から降りたが「それ」特有の粘着質な問い掛けは止まぬ。 「丸腰で戦場に乗り込んだ愚かな女。逃げ足だけは異常に速い変な女。戦鬼と呼ばれる張遼がたいそう執心する女……だったか」 「……」  猛禽はみなまで言い切った。厄介な噂である。曹操は前者二つの噂に食指が疼いたらしいが、魏の将兵らが関心を示す噂といえば最後のひとつ。張遼にとっては決まり悪い内容だ。魏に降ったばかりでは仕方ないが、噂越しに評価されるのは心外である――否、断じて史桜を嫌っている訳ではない。むしろ愛らしく思っている。それが恋慕か定かでないが、人として死なせたくない存在なのは疑念の余地がないだろう。  彼が心外だと思ったのは別のこと。史桜を下心で助けていたと周囲に認知されることだ。他人の目にどう映ろうと、彼は単なる「女」として史桜を扱っていた訳ではない。彼女はさして取り柄があるわけでもないのに、それだけで終らせてはいけない、何かがあった。 「鳥よ。そなたは史桜殿を世迷子と呼ぶが、何か特別な意味があるのか」 「お前はどんな意味だと思う」  問われたものの、てんで予測がつかない。彼女は異国出身だ。しかもどうやって中原へ参ったか分からぬという。それらを考え合わせ、おのずとある答えが浮かんだ。 「文明違えし地から迷い込んだ異国の人間、ということだろうか」 「ふむ。文明、か」  その言い方が癪に障った。的外れな答えを導いた張遼を鼻で笑うかのように、それはそれは上機嫌な声色だった。次第に大きくなる哄笑に苛立ち男は鋭く眼孔を細める。そのさまを愉快げに見詰めていた凶鳥は、次の刹那、憐憫の情をもって囁いた。 「当たらずも遠からず、か」  なにげない一言に深い哀れが潜む。やつは誰を憐れんだのか。その言葉を理解できぬ張遼か。それとも世迷子か。妖獣はあるかなきの眉を下げて微笑んだ。 「あれは遙か彼方の国。否、異界から迷い込んだ女だ。たまたま呂布軍が拾ったから良いものの、お前たちがおらねば迷子になって命尽きていよう。だから我は、世迷子と呼ぶ」  泣いている。虎が。龍が。鳳凰が。張遼は血の気が失せて目頭を押さえた。そんな世迷い言、誰が信じられよう。だが彼の中に納得する己がいた。史桜の言動、出会った頃の様子、馴染まぬ振る舞い――全てがそうと指し示していた。なのに気付かなかったのはなぜか。答えは明瞭である。あり得ぬと決め込んでいたからだ。 「……己の無知が恐ろしいと思ったことはあるまい」 「これを無知と呼ぶか。面白い男だ」  そうでなくば盲目だ。両目をかっ開いて昼夜眺め尽くしても何一つ見えておらぬ盲者だ。唾を飲むと身体の奥で脈打つ音が鼓膜を震わせる。胎動するそれに行方知らずの女の顔が飲み込まれた。 「私は史桜殿を見知らぬ世界へ放り捨てたも同然なのだな」  文字通り、彼女は行く宛てのない世迷子なのだ。だのに張遼は残酷な決断を下した。女好きな今の主君に彼女を奪われるかもしれない。そんな愚かな思考にとりつかれて。だが娘の望みどおり、共に曹操の決断を待ってやれば良かったのやもしれぬ。 「違う世界から迷い込んだ人間は他にもいるのだろうか。その……よくあること、なのか?」  張遼はその問いに一縷の望みを掛けた。気休め程度だが、他にも同じ境遇の人間が居れば史桜の心も安んじられよう。されど鳥は「さあな」とほくそ笑んだきり瞑目した。それから白雲が太陽を覆い、傍らの子狐が大儀そうにあくびを放ち、張遼が帰ろうと三回ほど考えた後。やつは地の底から響く声で嗤った。 「張遼といったか。くだらぬ私情で手元から離したのは愚かな選択だった。あれは曹操の元に降れば穏やかに暮らせた。お前の選択は世迷子からひとときの安寧を奪ったのだ」  目覚めるなり耳の痛い説教である。いちいち指摘されるまでもなかった。そうだ、先に自覚した通り張遼は選択を間違ったのだ。さもなくばこれほど史桜の生死について思い悩むはずがない。けれど意外なことに、猛禽はにんまり顔で彼を褒めそやした。 「しかし上々。お前の所業に敬意を示そう」 「一体何の話だ」  恭しく垂れた鳥のこうべは丸い。トサカに覆われておらぬ部分の肌はつるりとして、天鵞絨のようだ。その内を金縞が縦横に走り身体全体を網羅する。佇んだまま耳を澄ます張遼は、巨体を彩る金文様が鳥を縛り上げる鎖に見えて仕方なかった。 「世迷子が世迷子たるゆえん。お前があれを逃がしたのが良き証拠。張遼よ、くれぐれも引き戻そうなどと考えるな。世迷子が曹操の下で居場所を見出したとて、所詮ひとときの安寧に過ぎぬ」  この鳥は人語を解すが、他人の話を聞く能力が欠けているのでは。そう心配になるほど会話が成り立たぬ。やおら金羽根を抱く猛獣は羽ばたき、低い灌木に柔らかく降りると張遼と同じ視線で囁いた。 「張遼よ。他に世迷子がいるかと訊いたな」 「うむ。聞き申した」 「おるまいよ。世迷子の存在は乱世を深めるどころか、世界そのものの均衡を破壊する。他に居てたまるものか」 「ならば……! なぜ史桜殿はこちらに参った。彼女が乱世を深める存在と言うならば、わざわざこちらへ参る必要はなかろう」  史桜の正体を知ってから疑問だった。異国、否、異界からおとなった平凡な人――それは本人と接すれば十二分に理解できる。当初は馴染みない言葉や考えを平然と言い放つ姿に肝を潰したものだ。しかし幾らここへ来た手段を尋ねても、史桜は首を傾げるばかり。郷愁に憂う女の後ろ姿は今でも鮮烈に蘇る。  さりとて鳥は「はて、偶々矛先を向けられたのかもしれぬな。不幸なやつだ」と冷然と言い捨てた。 「どちらにせよ。世迷子は払うべき対価を払うべくして払った。我らにはそれだけで十分」 「我ら? 矛先とやらを向けたのは誰だ。史桜殿は何を払った」 「答える義理はない。なるべくしてなる結末。それを静かに待て」  口を利かぬ亀の瞳孔がすうと細まった。大きな眼球にひげ男が映り込む。  ――熱い。  男は不意に肌が焼ける感覚を覚えた。数年前の竹林へ引き戻される。焼けただれる痛みに狼狽していると黒鳥のまなこに史桜の後ろ姿が浮かび上がった。幻惑の中、か細い双肩が戦慄した。亡霊のごとく希薄な背中はまっさらな巻物に囲まれていた。  またなの。そう零した女の唇が恐怖に青ざめた。さだめて白紙の巻物は史桜の手から滑り落ちる。さながら逃げ去るように。しかし命宿るそれは、史桜がもう一度触れた途端、千々に破れ去った。ああそうか。そういうことだったのか。張遼は合点する。あの時燃えさかる竹林で女が立ち尽くしていた理由。それをようやく理解したのだ。 「この光景は史桜殿と何の関係があるのだ……」 「哀れなるかな。それは歴史であって歴史でない。史実でなければならぬ理由もない」 「いい加減、奇怪な問答はやめて頂きたい」  さしもの張遼もすげない態度には慣れた。見る間に鳥の金縞が薄れ真っ黒な翼と化す。優美に揺れる尾は太陽と一体化し、かつて無口だった生き物は微かな咆哮を残して溶けるように姿を消した。  ――ああ、先ほどまでの熱気が嘘のようだ。  一陣、爽快な風が駆け抜ける。太陽は西寄りに落ちていた。いつのまに正午を過ぎたのか。張遼は戦後のような疲労感に包まれ、珍しく酒に呑まれるべく市場へ寄った。

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