虎落笛Lost 2 柳暗花明編
第十鳴 呑まれる
猛禽と奇妙な問答をした翌日、張遼は昼餉を抜いた。昼餉を食えば口賢しいそれが現われる――仕様もない迷信が彼の中に生まれつつあったのだ。しかし流石に腹が減る。騎馬隊の鍛錬を終えて所在なげに再び市場へ向かうと肉まんを一包み買った。されど普段着であってもいっとう小綺麗な格好をした彼は目立つらしい。頻繁に城下へ降りる夏侯惇でもなし、民は新参者の顔をじろじろと眺めて相手の身分を推し量ろうとした。 ただでさえ二日酔いが酷いのである。彼は居心地が悪くなり、逃げるように喧噪から遠ざかった。部屋に戻って包み紙を開くと、三つ、丸いものが並んでいる。美味そうだ。各地を転戦していた頃、農家に貰った肉まんを「こんなに美味しいもの食べたことがない」と感激していた史桜の姿がしみじみと思い出された。 ……やはりあの化け物と会うのはいけない。呂布と、貂蝉と、玲綺と、陳宮と――史桜と過ごした日々が懐かしくなる。 しかしそんなものは過ぎた泡沫にすぎぬ。今、張遼が願うのはだたひとつ。どうか無事でいてくれ。それだけだ。仮に彼女が死んだと分かった日には張遼は自分の喉をかっ斬る心積もりだった。 「む」 憂心に気を取られながらかぶりつくと噛合わせた箇所に異変を感じた。固い。明らかに肉と違う食感だった。埋もれた異物を歯で取り出すと親指程度の竹が顔を出す。内側にごく小さな墨字。掠れていたがわずかに読み取れた。 「『丘で待つ。申の刻』」 誰か宛ての手紙だろうか。竹簡の切れ端、という訳でもなさそうだった。だがなぜこれに入っていたのか。張遼は晴れ渡った外を一瞥した。あと少しで申の刻である。手紙に従って参るべきだろうか。逢引きの申し合わせならば気が引けるが、張遼はこれが自分宛ての手紙に思えて仕方なかった。 「昼餉を食うとろくなことがないようだ」 誰の差し金か知らないが回りくどい。苦笑するなり口角を上げたように見える嘴が過ぎった。張遼は居ても断ってもいられなくなり残りの肉まんを急いで頬張った。いつもあれのペースに巻き込まれてしまうが此度こそ先手を打たなければ。 「あの鳥……朱雀とでも呼ぶか。昨日の様子では史桜殿の行方について何か知っているようだったな」 今日こそ問い質す。そう決意して武将は自室を飛び出した。心が急き、徒歩でも行ける距離で馬を走らせる。前日の会合場所に馬を繋ぐと風切り羽根の音でもせぬかと周到に気配を探った。案の定誰もおらぬがもう少し待ってみようと腹を括った――その折りである。彼は意外な人物に出会った。 「楽進殿」 「張遼殿ですか? このような場所でどうしたのです」 林を抜けた先にいたのはかつての敵、そして現在は仲間の楽進である。曹操軍の一番槍は昨日張遼が昼餉を済ました切り株で肉まんを食んでいた。包み紙に先ほど買った店の印が押されている。 「あ、すみません。みっともない姿をお見せしました。それにしても張遼殿に私の名前を存じて頂き、恐縮です」 「なんの。貴公のことは戦場でよく存じておりますぞ」 妙な距離がある。それというのも呂布軍と曹操軍の戦いが原因だろう。先の戦いは熾烈を極めたため両者の間に残るわだかまりは未だ解消仕切れていなかった。恬然と佇む張遼に対して楽進は浮き足立つ。長くて短い、途方もない時間が流れて、曹操軍古参の将ははたと面を上げた。 「……あ。そうです。あなたにお伝えしなければならないことがあったのです。昨日まで覚えていたのにすっかり抜け落ちていました」 「なんでござろう」 「史桜殿のことです」 張遼は条件反射で踵を返しかけた。これまで散々あの噂でからかわれてきたのだ。安穏と出来る隠れ家で嫌な記憶を作るのは避けたい。けれど一番槍は「あ、違います! 噂のことでなく!」と大仰に制止を掛けた。 「劉備殿が史桜殿からの伝言を承ったと。恐縮ながら私が伝言を承りました」 「史桜殿と、劉備殿?」 思わぬ組み合わせに張遼はいささか大袈裟な反応を返してしまった。しかも伝言係が楽進ときている。彼らに一体何の関わりがあるのか。史桜の旧友は早鐘を打つ心臓を押し留めてことのあらましへ耳を傾けた。 「――それで。劉備殿、張飛殿、関羽殿は彼女が無事に包囲を突破されたのを見届けた、とのこと。後ほど劉備殿が調査されたところ、史桜殿は現在、呉郡付近で療養しているそうです」 「なんと……」 一人で突破するのは難しいだろうと危惧していたが、まさか連合軍が手を貸していたとは思わなんだ。力が抜け冷えた指先に感覚が戻る。彼女は生きている。かの玉の緒は御手柔らかな見えざる助けを借りて繋ぎ止められたのだ。張遼は肺の奥底から息を吐き出した。悶々と悩むうちに胸へたまった淀んだ空気が清々しく解消されていった。 「そうであったか。史桜殿は、無事に」 「はい。別れ際、彼女は張遼殿に再度礼を伝えて欲しいと」 「ありがたい。まこと、ありがたい。楽進殿も史桜殿を助けてくださったのだな……改めて礼を申し上げましょうぞ」 「い、いえ。礼など私は受けるに値しません。劉備殿がいなければこう上手く事は運ばなかったはずですから」 劉備。曹操が唯一認める英雄。いまは小勢力だが大器はいずれ乱世に飛翔しよう。張遼は抜き取られた身体中の血が色鮮やかに蘇った心地であった。孫呉の土地にいるならばひとまず安全だ。曹魏に属する彼もまた易々と迎えに行ける場所ではないが史桜へ味方した神に感謝した。 部下の一人を派遣しよう。そして史桜を安全な土地へ導こう。楽進から女の様子を垣間聞きながらめまぐるしく頭を回転させる。が、ふいと蘇った胡乱な瞳が不気味な警告を下した。 『世迷子が世迷子たるゆえん。張遼、お前があれを逃がしたのが良き証拠。くれぐれも引き戻そうなどと考えるな』 例の朱雀は史桜が曹操に降ることを良く思っていない気配だった。世迷子、均衡を崩す鬼門の存在。世迷子、突然紛れ込んだ希有なる存在。史桜はごく平凡な娘のはずが、百戦錬磨の男へ言いしれぬ不安を呼び起こす。女の潤みある瞳が鳥の眼孔から彼を見返した。傷ついた肢体を染めるはかつて仲間だった者らの血だろうか。雪に混じ入る細身を背後から感情任せにかき抱く誰かの姿が見えた。おぼろげな男。呆然とした彼女の顔だけが張遼を射貫く。 「……あれは誰であろうか」 「張遼殿?」 「いや。なんでもござらぬ」 呂布が拾ったこと、張遼が逃がしたこと、異なる世界へ降り落ちたこと。猛禽はすべての理由を知りつつ、史桜を利用せんと虎視眈々と機会を伺っている。そう思えてならなかった。張遼は慇懃に拱手し人の良い青年を見据えた。失礼すると一言。男はめまぐるしい思考を翻す。なるべくしてなる結末――眼前に広がる劫火の幻影をしかと踏みしめ、張遼は手綱を奮って丘陵を駆け下りた。
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