虎落笛Lost 2 柳暗花明編

第十一鳴 遙かを呼ぶ声

 いきり立つ肩骨は峰々の遙か遠く熱帯林の息吹が女の御手を撫で去る。幻妖な色を纏った霊山の広き裾野を尻目に史桜たち三人は肥沃な大地を踏みしめた。枯れ野を焼き払った末黒野を通り過ぎると田植えの準備に追われる水田が所狭しと並んでいる。春だというのに花雨は生暖かい。この季節、きんと冴返る北方では相まみえぬ光景へ史桜は昂揚していた。 「豊かな地ですね。目につく植物も変わってきています」 「おい。ここのところ安全だからと言って油断するなよ」 「分かってます。今は馬超の代わりに気を抜いてるんです」 「……なんだそれは」  桂陽というところは音に聞くより温帯なようだ。降り注ぐ慈雨を受けて木の芽時を迎える樹木、ぬかるみに生える毒々しい茸。かと思えば、仄白い雨の沙羅越しにけぶったような薄日が顔を出す。さながら安定せぬ世情を体現したような天気である。 「あ。狐の嫁入り」  そう呟いた女に黒髪の道連れが反応する。 「昼には太守に挨拶できるはずだ。準備はいいかい」 「ええ」  さしもの徐庶も湿気にうだり、お決まりの頭巾を脱いでいる。最初の頃は風邪を引かぬか心配になったものだがここは大気全体が暖かい。体調を崩すことなく安定して旅を続けられた。女は朝靄に濡れる馬を撫で涼州の草原へ思いを馳せる。視界の端に広がる大自然はさして相違ないが、決定的なもの――肺を満たす草原の清凉な空気が欠けていると思った。 「それにしても……暑すぎません?」  史桜が湿気った大気に熱い息を吐いた。と、すかさず馬超が肯う。 「ああ、俺も初めて桂陽に来た時は駄目かと思ったぞ。慣れないうちは大変だろう。だが、今日はとりわけ暑い気がする」  桂陽は南といえど交州との間またがる山脈が亜熱帯風を遮っている。まして初春だ。うだるほど暑いなど稀である。ひょっとして、南方の風神が史桜の顔を見におとなったのかもしれない。徐庶はそう考えてひとしきり笑った。 「徐庶、何か面白いことでもあったか」 「いや、なんでもないんだ」  徐庶曰く。桂陽の太守は趙範。副官に韓当という猛者がおり、その下に軍師見習いがいる。現在副官が遠征で不在のため、城の雑事を切り盛りしているのは軍師見習いの陸遜らしい。他にも何人か高名な武将が所属しているが、多くの雑事を数名でこなしているのだから大変である。人材問題は予想以上に切迫していた。  また聞くところによると桂陽はことさら頭脳派が多くその穴を埋めるべく武に秀でた将を欲しているらしい。が、彼女はそちらの方面で役立つ予定などさらさらない。せいぜい馬を使った荷物運びや伝令だろうと高をくくり、芳醇を予感させる森の香りを吸い込んだ。  川から水を引いた稲田、縁に坐しお喋りへ興じている農民を史桜は一瞥した。農民は強い日差しに晒されて真っ黒であった。異民族の血も混じっているのか。漢民族らしからぬ目鼻立ちのはっきりした人々も見受けられる。そんな光景を眺めていると乱世が遠い出来事に思えていくる。残念ながら北方ではとうていこうはいかぬ。寒さに追い立てられるように忙しなく行き交う人々、都心には着飾った上層階級がいるが城壁を越えれば行き倒れた民がわんさといる。戦火や物取りが生きる糧を奪い去ったのだ。呂布に拾われなかったら史桜もその一人だったかと思うと背筋が凍った。  かくて娘が率直な感想を述べると徐庶は困ったように渋面した。 「危機感がないだけなんだ。まだ大規模な侵略戦を経験していないから。だけどいずれ、曹操に立ち向かわなければならない時が来る」  だけど、と女は反論を飲み込む。彼女は曹操も正しいと感じていた。たとえ愛した理を粉々に壊されようとも、権力闘争に酔いしれる群雄が混迷を深めるなら武力で鉄槌を下すことも必要である。史桜は乱世の先を見ぬ輩の支配下で幸せに生活している自分など想像出来なかった。 「乱世を終えるためには曹操みたいな人も必要なんですよね」 「ふむ……。それじゃあ君は覇道を肯定するのかい」  徐庶の口調に責める気配はなかった。ただ純然たる驚きが浮かんでいた。帰るべき場所を滅ぼされた女が仇を肯定する台詞を放ったからだ。意図を察して物憂げに瞼を伏せたのは誰であろう。史桜は考えた。自分が願うものは何かと。乱世の収束か、民の安寧か。否、そんなことちっぽけな史桜がどうこう出来る問題ではない。民だとか世界だとか、大それたことを考える前に、まず彼女自身がどんな生活を送りたいか。それを考える方が身の丈に合っていた。 「いいえ、苛烈な戦いは悲しみしか生みません。でも確実に納得できるのは、覇道もひとつのあり方だということで。……ああごめんなさい、政治の分からない私にはやはり曹操について語る資格はありませんね」 「そんなことはない。真実、その地で暮らすのは君たちなのだから。じゃあ質問を変えようか。君は自分が民ならどんな支配者と共に暮らしたいと思うかい」 「私が、民なら……?」  僅かな逡巡ののち、彼女は「劉備のような優しい人が好ましい」と零した。不思議とその答えはすぐに脳裏に浮かんだ。しかし目先の安寧ばかり追っては混乱が長引くだけ。乱世は人々が作り上げた理をすました顔で破壊し、大きな傷跡を残していく。しかるに真の安全を望むなら迅速な収束が必要だとも悲劇を通して彼女は実感していた。  となれば苛烈な戦いは避けられぬ――。どれも正しい気がする、と史桜は再び首を振った。  「曹操もただ、この乱世を早く終らせようとしているだけのような気がして」  呂布軍越しに見た人物像は正しいと限らぬ。しかし己が武を世界に示そうとした呂布よりも、彼のほうがより良い中原を実現してくれそうだと。かつて恩人を尻目に潜思したのは秘密だ。するとすかさず反発したのは馬超である。 「だが史桜よ。双方の在り方が並立するのはあり得ないぞ。それならお前はどちらを選ぶ?」 「取捨選択でなければいけない理由はないと思います」 「どちらも選ばぬということか?」 「どっちも合わせてしまえばいいのでは……なんて」 「おい真面目に答えろ」  男達には途方もない考えに聞こえた。劉備の噂はかねがね聞いている。しかし彼は王道を行く者だ。曹操と最も相容れぬ男である。ならばこの女はただの日和見主義者か、既存の枠を飛び出す大物なのか。真実を見定めるには材料が足りな過ぎた。とんでもない娘を拾ったかもしれない――男たちは顔を見合わせた。 「君は本当にそんなこと実現出来ると思っているのかい」 「実現できるとは言ってません。ただそうなったらもっと良い世界が出来るだろうなって。希望的観測を述べただけなのです」  完璧な考えなど存在しない。どのような道でも改良の余地がある。少し面を上げるだけで世界は広がるのだ。されど彼らは知っていた。ひどく些細なことに見えて、それがどんなに難しい行為かを。だからこそ娘の爛漫さには開いた口がふさがらなかった。それは世界の理から外れた者、異物だからこそ出来る振舞いとは知らずに。  史桜は居心地悪そうに目を逸らした。みんなちゃんと生きてるかな。そう独りごちた娘は誰を思い出しているのか。徐庶は何も言えず神妙に目元を覆った。同門たちの言葉が誰ともなく響く。乱世の先を見据える人間でなければ混沌を越えることは出来ない――天才と称される男たちと語り合った日々、雲間から射し染める幾筋の陽光を認め、我知らず武者震いをした。 「あ。徐庶、馬超、晴れてきましたよ」  にわか雨もようやく活動を止めたようである。女の緩く結わえた髪から雫が垂れた。一粒。蹄に踏まれることなく水たまりへ一直線に落下したそれは波紋を作る寸前で微かな光を放った。徐庶は思わず目を擦る。太陽が反射しただけだろうと再度見下ろした刹那。農民の金切り声が天をつんざいた。 「おおおお! 大変だ! 街が! 街が燃えてるぞお!」  三人は弾かれたように農民が指し示した方角を仰いだ。彼らの目指す街から黒煙が海蛇のように幾筋立ちのぼっていた。静穏な情景が瞬く間に乱れ、水田地帯は騒然となる。徐庶は不安を押し隠してささめいた。 「馬超殿、街が火事らしい」 「いや。ただの火事にしてはおかしいだろう。雨が降っていたのにあんなに燃え広がるなんて。だが敵襲にしてはどうも……雨で火薬が駄目になるはずだから、外から大砲を撃つなんて出来ないのではないか?」  雨中に燃え広がる炎。滅多にある状況ではない。必然、史桜の記憶は以前の森火事へ巻戻る。ひどく嫌な予感がした。鉤爪に引き裂かれる悪夢の続きを見ている気分だった。さもあれど男たちは蒼白な史桜を気にも留めず状況把握へ努める。徐庶は、あり得るとすれば屋内で大砲を使っている可能性だと語った。だが火薬と大砲を同時に設置できるほど大きな家屋は存在しない。ただひとつ。太守の住まう城を除いて。  さても趙範たちが城下を攻撃するなどあり得るだろうか。ならば残る可能性は限られる。城が乗っ取られたのだ。一体誰に? 分からない。しかし曹操軍が攻め来たにしては移動が速すぎる。徐庶はふと、先日馬超が仕入れて来た凶報を呼び起こした。 「馬超殿が言っていた呂布軍の残党だろうか」 「でもここってかなり下ヒから離れてませんか」 「馬鹿。離れているからこそ、だ。あちらの下ヒの地は今や曹操の足元。やつとの戦いに負けた残党がそんな近隣で活動するはずなかろう」  桂陽にほど近い南方、交州地域を夜盗が襲撃した知らせがもたらされたのはつい先日のこと。ただの夜盗にしては統制が取れており交州政府が苦汁を舐めさせられていると孫呉で小耳に挟んだ。しかるに彼らは急いで桂陽へ引き返したのだ。やつらはそのまま北上して長江付近を縄張りにするつもりだろう。桂陽はたまたま道中にあっただけのこと。 「それにしても、徐庶、ただの残党が城まで奪うか?」 「桂陽のお城が格好良くて惹かれたのかも」  ふざけているのか判断つかぬ娘をまるきり無視し、徐庶は獲物を取る。 「そうだな。なんだかきなくさい。馬超殿、史桜、急いで街に向かおう。城が奪われたなら取り返さなければ」 「……ねえ徐庶、いまさりげなく酷かった」  ぶうたれる女。だが一刻の猶予もない。敵襲があるかもしれないから離れるなといった割に、遠く、米粒程になった男二人を追って彼女も風を切った。  頭の奥が疼く。史桜は行く先々ですべて仕組まれているような――この世界に舞い降りたのが不可抗力だったように、預かり知らぬ場所で抗えぬ力を感じた。行ってはいけない。行かなければならない。無秩序な葛藤が喉元を締め上げる。導かれるように城壁を仰ぐと視界を過ぎるものがあった。千々に裂けたそれは赤黒く染まる。心の臓が飛び跳ねた。世界が瞬く間に反転した。  背後に浮かびたる一峯は半空を貫き、ひと足早く新季を向かえた青田を泰然と眺め降ろしていた。

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