虎落笛Lost 2 柳暗花明編
第十二鳴 彷徨う燕
晩節の八十八夜、寒の戻りと夏めく軽暑のへめぐる桂陽は禍事に見舞われていた。真夏と真冬が昼夜通して繰り返されるお陰で田植えに向け初春から苗を育てる農家はお手上げ状態。四国共同戦線――桂陽、長沙、武陵、零陵による対南中同盟がようやく実現したのだ――がなり、めまぐるしい事後処理に目を回していた陸遜は、国家存亡に関わる食料確保にも追われる羽目となった。 顔をあげれば女官の通り道に香煙が流れてゆく。甘ったるいそれを嗅ぐと肺を汚された心地がした。物憂い寂寞の底に沈んだ亡霊のような嫌悪感が陸遜を包み込んだ。 ――それが虫の知らせだったのだろう。事は唐突に起きた。今し方過ぎた女官の絶叫が天を切り裂いた。気付けば目と鼻の先に白刃が突きつけられていた。これはなんだ。陸遜は動転する。が、暇がかる間に理知が甦る。「彼ら」は物盗りの成りをしていた。 「陸遜だな。お命頂戴する!」 一瞬遅ければ陸遜の首は呆気なく飛んでいたろう。青年は素早く小椅子を蹴り上げならず者と間合いを取った。双剣を構えると冷静に乱れた息を整えた。 「何者です」 「通りすがりの賊ってやつさ」 男は特徴的な容貌をしていた。左の口角から耳にかけて大きく裂かれた跡がある。そのせいでうまく表情を作れず行き場のない春泥がぬるんでいた。 「通りすがりがどうやってこんなところまで入ってきたのです。ここは太守の城ですよ」 「しらねーな、俺は兄貴じゃねえんでな」 「分かりました。その兄貴とやらを捕まえてすべて吐かせましょう」 太守・趙範の無事が気がかりである。賊ごときに見劣りする殿ではないが、この男、かなりの手練れである。となれば他の面々も一筋縄ではいかぬだろう。いくら韓当の主力軍が不在だからとて煩瑣な監視の藪下、容易く警備をくぐり抜けた男共に苛立ちを感じた。陸遜は白刃に血判を刻まんとする一撃をひらりと躱し廊下へ転がり出た。見慣れた女官が血だまりに絶命していた。死期が近い人間は独特の香りを醸し出すというが先に襲った不快感はそれだったのか。切羽詰まった状況では憐れみも浮かばない。 行く先々に累々として屍が横たわっていた。抜き身の双剣は募る火勢に閃き、炎と黒煙の底に照り映える。陸遜は太守の仕事部屋へ急ぎ駆けつけた。が、もぬけの空であった。隠し通路を伝って上手く逃げおおせたか。当面の危機を回避したことを悟った青年は隠し通路が露見せぬようめくれた絨毯を直し、打開策を巡らせた。 こんな時、いの一番に浮かぶのは火計である。しかし火計を使えば城もろとも消し炭となろう。敵を一網打尽に出来る妙案であるが未だ物資の乏しい桂陽である。調子に乗って燃やしてしまえば城の再建に時間がかかるだろうし、城のない国など格好の標的だ。雑事を切り盛りする間に身についた節約精神が働いて陸遜は使い慣れた策の実行を踏み留まった。 「とはいえ大人しく城を明け渡すなんてまっぴらごめんです」 一旦外部へ出てしまえば城攻めは難しい。城とはそういうものだ。外部からの攻撃に耐える要塞として作られている。仮に韓当の帰還を待って城攻めするにしても我らが誇る巨大兵器が行く手を塞ごう。 「まさか自分の国の城攻めを画策することになるとは。しかし相手が大筒と城を保有する以上、武力では敵わない、か……」 情報を集めて弱点を探るしかあるまい。どうやってこの城に侵入したか。賊が口を滑らせた兄貴とは誰か。否、そもそもあれは本当に口を滑らせただけなのか――しかも、だ。先の人物は陸遜個人を狙ったような節がある。通常の物盗りにそぐわぬ行動が一々気に掛かった。陸遜は黒煙の糸を手繰り晴れやかな侮蔑を浮かべる城の深奥へ向かって踵を返した。 * 「……ああ、これは酷いな」 殺意の内にこそ至高美が潜んでいる――胡乱な思想をあたかも体現したような光景へ徐庶は目を覆った。数分おきに大筒が火を噴く。城内に設置された兵器は玄人の御業で寸分の狂いもなく桂陽軍を蹂躙した。残党のまま野放しにしておくのが勿体ない腕であるが、青ざめた史桜を一瞥、彼は斬剣を薙ぎ払った。 「史桜。気持ちは分かるけど呆けていては駄目だ」 「ごめんなさい」 四方に上る火の手は城の陥落を物語る。されど対南中同盟の戦線へ遠征している韓当・蔡文姫の主力部隊は未だ帰還せず。僅かな将兵を残して平穏を享受していた桂陽は電光石火の急襲に立ち直れずにいた。 徐庶は娘を守りながら我らが殿を探した。部屋で襲われたなら隠し通路を伝って現われるはずだが付近の民兵は誰も行方を知らぬ。と、馬超の槍が城外に置かれた大筒の一つを破壊した。数少ない資産なのに…と文句が脳裏を過ぎったが止めている余裕などなかろう。国を作るのは大筒でも城でもなく民なのだ。先んじて彼らを護らず、なんとする。 「しかしこの襲撃は妙じゃないか、馬超殿」 「奇遇だな。俺も同感だ」 思いあぐねれば思いあぐねるほど、である。なにせ手際が良すぎる。行きすがりの兵から仕入れた情報では襲撃はほんの小一時間ほど前。だのに既に城の奥まで攻め入られているのだ。 「なんというか……あの陸遜がそんなことを賊に許すと思えないんだ」 城を守るは完璧主義の青年である。普段は穏和なくせ、やると決めたら烈火の如き熱さを迸らせる男だ。兵が足りないからとてこう上手く裏をかけるものか。徐庶は内部の手引きがあったとしか思えなかった。だが何の為に賊と手を結ぶのか。曹操軍や他国の手引きをするなら分かる。されど暴れているのはならず者だ。彼らを従えて国を盗ったにしても厄介者が増えるだけである。 「おい徐庶、残党と曹操が繋がってる可能性はないのか」 馬超が胸の内を思ったまま呟くと、娘の顔が微かに引きつった。 「曹操? 残党がどうして?」 「あ、ええと、たぶんそれはないと……」 「おおーう、徐庶殿と馬超殿じゃ! おおーい! あっしはここじゃけー!」 徐庶の否定を遮って怒号が割り込む。狂騒の行く末で長い顎髭を結わえた巨漢が大立ち回りを演じていた。所構わず瓦礫を放り投げる指には軽い鬱血が認められる。逆巻く焔、踊り乱れる白刃――頼もしい味方の登場に鬱々とした気分も吹き飛びそうだ。徐庶はこの猛将が遠征隊に加わらなかったことを心配する日こそあれ安心する日が来るなど、昨日までならあり得なかったと苦笑した。 「鮑隆殿! あなたが残っていてくださって助かった!」 「おおう、あっしは無事ですとも。突然襲われて驚きましたがな」 お二人も半年前とお変わりなく。と鮑隆は手を打ち鳴らした。相変わらず濃い顔だと馬超をからかう老将は勇猛果敢、おそらく桂陽を支える重鎮なのだろう。史桜は徐庶の背後に隠れて新顔を伺った。 「ええと。それで趙範様は」 「おう。趙範様なら無事にお連れ申した。ありったけの兵を集めて警備しておるぞい。あっしがおれば馬超殿の手助けも要るまい」 「言ったな、虎殺しの鮑隆め。少し会わない間におじじ殿はぽっくりい逝ってしまったかと心配していたがそれを聞いて俺も安心したぞ」 黒々した広い胸板、豪快な異名を持つ老将は豪快にのけぞった。桂陽の猛者は彼を外して語れまい。その時、焔の音が耳裏を掠めた。思わず史桜が飛び跳ねると、壮年の武将は好奇の色を浮かべて女を見下ろす。新しい仲間です、と紹介を受けると女は面を伏せて拱手した。元漁師の男は事情も聞かずただ「応」と口角を釣り上げた。 「徐庶殿の恋人か? それとも馬超殿か?」 「おじじ。笑えない冗談を言うな」 「なんじゃけ。違うのか」 こんな状況でも軽口を叩く余裕があるらしい。失礼だな、と告げる馬超こそ失敬である。だが娘はそんな胸中をおくびも出さず聞き役に徹する。戦力外通知を受けていたからだ。それはいつかと同じ。戦えぬ女と武将を一緒にするなと叱られたあの日と何一つ変わっておらぬ。 史桜は降り止まぬ火の粉の幻惑、ごうと爆ぜる竹林を視た。黄色い蝶の羽根が燃え上がる。ほむらは虎になり、鳥になり、薄片となって四方八方へ弾け飛んだ。であるのに、どうしたことか。焼け付く肌は凍えるように冷たかった。彼女は水攻めの冬月と命焦がす竹林の狭間で路頭に迷い全身が粟立った。 ――醒めよ。早く。生きたいならば、一刻も早く夢から醒めよ! 逃げ惑う民の悲鳴に混じって自分の声が脳裏にこだました。同時に胸元へ潜ませた文明の利器が微かに振動した気がした。おいどうした。馬超に肩を揺さぶられ、身に覚えのない台詞はかき消える。焦点の定まらぬ目で男の姿を捕えると凍り付いた血が再び循環し始めた。 「女にはきつい光景だろうな。大丈夫か」 「いえ違うのです。大丈夫、私は平気です」 馬超の心遣いが温かい。戦場は見慣れているから構わないでくれと返せばいつの間にか徐庶と老人が額を付き合わせていた。陸遜、陳応。先日聞いた名前が漏れる。老将は、生き残った将兵は大方避難したが二人の行方が知れない、しかしやつらがこれくらいで死ぬと思えぬ、と苛立ちを滲ませていた。 その折りだ。斥候に放った伝令により新たな情報が舞い込む。 「伝令! 陸遜さまが城壁で孤立されています! 至急応援をお願いします!」 激しい動悸が胸を打った。夕照りのような火影が彼らの横顔をてらてらと照らす。陸遜の刻限を指折り数えるように城壁の一部が崩れ落ちた。土埃の向こう、多くの人影に混じって赤い燕尾が翻る。距離があってもそうと分かる程の美青年だった。彼の怒りは澄んだ水底に潜み烈火のごとき盤上で飛車の舞いを演じる。史桜はその軽やかさに目を奪われた。まだ年若い。されど敵が何人束になっても勝てぬだろうと思えた。双剣から迸る意志はそれだけ強く見えたのだ。 「城壁だと」 虎殺しの猛将が歯噛みする。 「城内にも入れぬというのにどうやってあそこまで行けというのじゃ。せめて陸遜殿が自ら飛び降りてくれれば……」 「いや、駄目だ。あの高さから飛び降りれば無事では済まされない」 徐庶の制止に二人の男は地団駄を踏んだ。 「では見殺しにしろというのか! 陸遜はお前らの仲間だろう!」 馬超が悲愴に叫ぶ。鮑隆が悔し紛れに敵を切り裂く。娘は眉根を寄せて思案する。されど徐庶にはひとつの光明が見えていた。玉のような青年を救う打開策が。だがそれを声高々に主張するのは躊躇われた。ええと、と言葉を絞り出した途端、三対の視線が突き刺さる。ひとつは鋭く、ひとつは茶目っ気溢れた、最後のひとつは漆黒に潤む瞳。あまりの注目度に徐庶は崩壊寸前の橋を渡る心地であった。されど一刻を争うのだ。彼は地面を這う葉虫を見詰めながら言の葉に乗せて紡いだのだった。 「案は……あるといえばあるんだ。けれどこんな状況だ。ひどく危険を伴う。特に史桜、君にだ。それでも、聞く覚悟はあるかい」
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