君懸Record 0 追悼回想編
-史桜-
第4話 The God Killer
-神を殺す者-
史桜一行がレスタルムへ滑り込んだ日から季節は急速に雪解けへ向かっていた。あれほど凍て付いていた銀世界は見る間に融解して、春の兆しを催す暮冬の様相を呈している。それでも時折、視界を曇らせる瑞花がちらつくが、帝国領ウェルエタム地方を乱吹く白魔の侘しさはなく、生温い芽生えの陰に忘れ去られた歴史が名残っているだけだった。 「着替えたかい?」 王子の声で史桜は我に返った。鏡の中には白襟で縁取った黒ワンピースへライムグリーンの靴を合わせた女が映っていた。腰周りを固める太いベルトはふくよかな胸部と円みある臀部を隔絶せしめている。なのに病魔さえも毒する異界の魂はその体躯を無尽に往き来して、変哲もない女をひとかたならぬ存在へ堕とさんとしていた。 「なんてレトロな服……」 「すまない、よく聞こえないのだが」 「いえいえ。何でもありません」 裾へ向かって軽やかな広がりを見せるスカートは蜂鳥をあやす花弁のよう。黒の中に押し込めた身体は足元へ向かってやがて肌理細やかさを伴い、ガーターベルトを越えるや、鮮やかな萌黄色のパンプスで閉じられた。史桜の流行感覚で眺めればどれも随分と古めかしいデザインだ。しかしイオスでは先端を行く服装なのだと説明を受けては、本当に故郷と異なる場所なのだと得心する。 ――ここは私の知らない星、イオス。 瞼を降ろせば自室の、実家の、家族の匂いがありありと蘇った。これほどつぶさに我が故郷を追想出来るのになぜ帰ることが出来ないのだろうと何度も考えた。その度に、ちらとも零れぬ涙に違和感を持つ。別離の悲しみは遠き世に色褪せて史桜の心から抜け落ちてしまっていた。 「お待たせしました、王子」 若き研究者に貰った服は人相書きへ出回っている。オルティシエの青い羽織りはカエムに残した隊員の傷口を塞ぐために裂いてしまった。そこで体裁を整えるべく新しい外套を買おうと王子が言い出したのが始まりだった。 ところが商店街へ足を踏み入れた途端、モルスはあれやこれやを代わる代わる着せてきた。楽しげな彼を前に史桜が怪訝そうな視線を向けると「ルシス領内を移動するならばルシスの服を着なければ目立ってしまうだろう?」と御手柔らかに言いくるめられて現在へ至る。 試着室を出た彼女を見るや、モルスはかんばせを綻ばせた。 「うんうん。やはり似合うな。リトルブラックドレスは上品だが地味すぎなくて好い。かと言って悪目立ちすることも無く他の色を一層引き立てながら女性生来の気品を高めつ甘やかさを残して全体的に引き締まった美しさを演」 「モルス、その服が好きなのは分かった。早く車に乗ってくれないか」 盾と名乗った大柄な男が能弁極める王子の話を遮った。互いに慣れたやり取りであるらしく「我が友ながら酷いものだよ」と戯れを込めた笑みを寄こしたモルス。そのまま王子と盾に挟まれる形に後部座席へ押し込まれると、研究所まで史桜を迎えに来た件の隊員が涼しい顔で助手席へ収まっている。名はサンギスだったか。カエムからスチリフまでの戦いで死線を越えた男の傷は癒やし魔法によって既に塞がり、任務続行を求めて同乗していた。 彼は女へ一瞥を呉れて、 「見事に殿下のご趣味で固めましたね」と唇の上に薄い笑みらしきものを浮かべた。 「黒はルシス王家の色、旅の共には相応しい服装だと思わないか。なによりこのデザインは」 「あーもしもし、殿下、服について語るなら耳栓しますから。事前に言ってくださいね」 研究所を発って概ねひと月、追手の勢いは予想通り緩んでいた。されども問題はシガイである。帝国領やアコルドではそこかしこに強い光が照っていたから分からなかったが、ルシス領は街から街への距離が長い。必然、郊外には仄かな電灯しか設置されておらず、大量のシガイを蹴散らせるほどの灯りを有する地区は数える程しかなかった。 「さて諸君、旅の計画だが、標で夜を明かすのはなんとしても避けたい。昨夜の状況を見たところ史桜はシガイに好かれるらしい――食らうべき対象として、だが――ならば陽が沈む前までに確実に光のある場所へ到着している必要がある」と王子が一息に述べるとアミティシア家の子息が話を噛み砕く。 「完全に日が照っている時間しか旅が出来ないのか。なら急いでも仕方ない」 着実なルートを選んで帰ろうと誰かのぼやいた言葉が、クレイン地方とダスカ地方を結ぶ湖面へ瑞々しく反響した。有明の天は燦然と白んで、身体を包む羅紗が冬の日溜りに温もりを得ていく。なのに史桜の心はちっとも暖かさを感じられない。研究所からここまで守り続けてくれた隊員達へ我知らず危険を差し向けていたのだと理解した刹那、只々暗さを増す罪深さに彼女の心は霧中をさ迷った。 「(どうしてあの化け物は私に誘き寄せられて来るのだろう)」 史桜は研究所を出てから絶えずシガイに追われていた。だからそういうものだと思っていた。この世界はよほど病魔に侵された世界なのだと。しかし彼女さえ居なければ隊員や王子が危険な目に遭うことはなかったようだ。 「光の強い場所ならコルニクスが妥当であろうか」 「流石に大丈夫と思いたいがな。確か各支店にはレスタルムから電力を得ている大電灯があるだろ?」 「お二方、お忘れなく。俺達は灯台があるカエムですら襲われました」 「……どこに泊まるのであろうと見張りは要るでしょうな」 何れが誰の発言かも分からない。口疾に飛び交う会話へ混じれぬ史桜は中央の座席へ居様良く坐し直した。隣で白熱した議論を続けるモルスを盗み見ると端正な顔立ちがそこにあった。均等に配置された目鼻立ちには統治者に相応しき気品が備わって、近々、王位継承を控えている話もあながち嘘ではなさそうだ。 折に触れて彼は史桜の視線に気づいた。碧眼を細めて形良く並んだ歯をすらりと見せれば鼻翼に微かな皺が寄る。喩えるなら春風のような優しさに紛れた芯の強さ、目的のために多少の犠牲も止む無しとする果断の心。それらが青い瞳の裡に見え隠れして、時に冷徹に仕事を成し遂げんとする覚悟が慈悲深さの中で混ぜ合わさって、モルス・ルシス・チェラムという人間を象っていた。 王子が持つ利発さと冷淡さの結びつきは思い掛けず若き研究者へ通じていた。そうと認めるや史桜の心は簡素な研究室へと馳せていく。彼女を呼び止めた青年はどうしているのだろう。あの日、この世界で最初に刻んだ記憶は女を手元へ留めおこうとする男の傲慢さだった――だのに藍色の眼差しが脳裏にちらつく度に不思議と過ぎるのは、ルシスの民へは片鱗も見せようとしなかった敬愛の瞬きだ。 惜しむらくは研究所が襲われた日より以前の記憶が史桜にないことか。この身を浸すのは故郷の思い出だけ、己がどうやってこの地を訪れたも定かでなく、たしかな五感に意識が充ちたのは、彼と袂を分かったまさにあの日だった。 青年と別れた日に宿った胸の痛みを自覚して、史桜は彼方に霞むケルバスの野を一望した。すると不意にかの親衛隊員が後部座席へひとつの提案を放り投げた。 「殿下、あなた方だけなら今日中に王都へ戻れるのでは」 缶コーヒーを飲み干しながら、わざわざ史桜の任務に同道する必要はない。国王陛下に王宮を空ける旨を伝えていないなら急いで帰られるべきではないか。と説得する。それでも王子はけんもほろろに、 「手紙は書いてきた。問題ないよ」と聞く耳持たない。 「本当にそうお思いじゃないんでしょう。オルティシエ滞在中、陛下の容態が芳しくないと小耳に挟みました。万が一の時に殿下が王宮にいらっしゃらなければ大騒ぎになるのは重々ご承知なはず」 史桜はラジオの前で隊員達が額を突き合わせていた姿を覚えていた。現国王の容態は日に日に悪化し入退院を繰り返している、次に意識を失えば覚悟が要ると。情報統制が可能な中で公衆にここまで情報を流すのだからいよいよ危ないのだろうと、半月前は他人事に眺めていたものだった。 「サンギス、滅多なことを言うべきではないよ。だがそなたの指摘通りいつ即位してもおかしくない状態ではある――それと同時に、私にとってはこれが最後の青春時代になるかもしれないのだ。ほんの束の間、同席させてもらったって構わないだろう?」 素敵な貴婦人と旅を出来るなど滅多にないことだ。この身が許される限り協力させてもらうよ。とモルスは疑懼の念を孕んだ微笑みを眼尻の襞に畳んだ。 * リード地方へ入って間もない時分のこと。シガイを防ぐ魔法障壁はもはや目前、じっくり二日間掛けて旅を続けた五人がキカトリーク高級市街地の郊外で一夜明かそうと話し合っていた折りだった。市街地の方より黒尽くめの女性がひたぶるに駆けて来た。 「おいモルス、あれは親衛隊じゃないか?」 十中八九、王宮を出奔したモルス王子を探していたに違いない。皆が同じ結論に辿り着くも、しかし様子に不吉な予感がある。常に冷静であるべき精鋭兵士にあるまじき度を失った態度なのだ。ただならぬ気色に異常事態が発生したのだと察した親衛隊隊長は走行速度を落とした。 「王子よく戻られました! お探しに参ろうと考えていたところです!」 「何があった、報告しろ」 「隊長! はい、その、陛下が……」と彼女は王宮関係者ではない史桜を認めて僅かに躊躇した。しかし二の足を踏む時間すら惜しいと語気を強めて、 「国王陛下がご危篤であらせられます。王子、私と共に今すぐ王宮へご帰還ください」 微かな瞠目。暗い報せにモルスが最初に見せたのは鴉の抜け羽のような諦念だった。 「……そうか、分かった。そなたに従おう」 曇りなき眼で世情を読みながら先手を打つモルス。この王子ならば凡て見通していたのかもしれない。突然の報せに狼狽する隊員や友人の前で、おさおさ怠りなく、彼は淀みない指示を飛ばした。 「すまない、我々三人はここで離脱だ。史桜、サンギス、また王都で」 新たな護衛が到着するまで待つこと、くれぐれも二人だけで旅を続けようとしないことを厳命してモルスは泥水の跳ねた外用車を降りた。ところが、扉を閉めるべく把手へ指を掛けた刹那に何かを逡巡したように見えた。史桜が尋ねるのが早いか、王子はロングコートを翻して面々へ向き直った。 「出立前に確認しなければならぬ事柄がある」 男の横顔には冷たい矜りが閃いていた。そして霜を頂く護衛隊長を慇懃に手招く王子。 「史桜に関する此度の任務内容を教えてくれまいか。彼女も私も知る権利がある」 死期が近いならばそれだけ重要な事柄を後継者へ引き継がなければならない。例え「指輪」を通して伝えられるとしても、神々が直接命じられた任務の内容を知らぬまま玉座に就くなど継承者としての矜持が許さないと食い下がった。 対する国王の右腕も頑として屈さず。隊長格の男は史桜をちらと打ち見ては、 「その任務は極秘のうちに下された国王陛下の勅命です。次期継承者のモルス王子とて詳しい内容はお教えできません」 「いいや、そなたは私に話さなければならない。私はまもなく次期国王となる。隊員達の慌てようを見ても揺るがない事実だ。だとすれば聞く権利はある。……それとも、指輪がなければ私をそうと認められないか?」 親衛隊隊長は後ろ手のまま黙して佇んでいた。睨み合いはいつまでも続くかと思われたが、やおら白髪男は重く息衝き、 「承知致しました。凡てお話いたします。しかし私は、これをお話した後に隊長職を辞任いたします。国王陛下の容態が持ち直そうと否と、関係ありません」 いきおい異議を申し立てんとする面々へ制止を掛けて「それほどまでの内容なのだと心得てください」と王より授かった勅命の真意を白日の下につまびらかにした。 「陛下は、こう仰られました――神殺しの女を帝国から奪い返せと」 かつて神を殺した女が敵国の手へ落ちれば御神に守られしルシス・チェラムは陥落する。神に寄り添うクリスタルとて何時まで無事か分からない。なればこそいち早く彼女を保護して水晶の御前へ差し出せ。 「彼女の采配は凡て神々が行う、とのことでした」 国王の言葉をそっくり繰り返す親衛隊隊長が、この話へ懐疑的な見解を抱いているのは火を見るより明らかだった。それでも神より指輪を賜りし王族しか視えぬ世界がある。だからこそ口を差し挟むことなくサンギス隊員へ任務を与えたのだろう。 「――神、殺し?」 矯めつ眇めつ部下を凝視するモルス。片や、隊長の口元は固く結ばれていた。語るべきことは言い尽くしたと言わんばかりだ。その様子にこれ以上は有益な情報が出てこないと悟ったか、王子は気怠げに空を仰いだ。 「なるほどな。話してくれたことに感謝する。無理を言ってすまなかった。……しかし次は私が話さなければならない番だな」 凜とした青い瞳は部下以上に何かを知っていると如実に物語っていた。王子は乾いた唇を舐め、苦虫を噛み潰すような面持ちで言葉の接ぎ穂を探した。 一呼吸置いて王の盾が「何か知っているのか」と訝しめば王子は自嘲するように口辺を歪めた。 「ああ、皮肉にもね。あれは私が成人する少し前の話だ。古代遺跡に関する調査中に神殺しという単語を何度か耳にした。テルパの爪痕だ」 テルパの爪痕。レスタルム付近の地域を指すのだったと史桜は覚えたての知識をまさぐった。モルスはそぞろに乾いた音を立ててイオス全土図を広げた。 「この地域、御伽話の域を出ないが、興味深い口伝があったのだ」と爪で弾くはクレイン地方中部周辺だった。 「テルパには昔ながらの生活を営む少数民族が幾つか居てね。集落ごとに古代帝国に関する様々な口伝を受け継いでいた」 点在する石版が僅かにある程度、神代に関する文書は在りし日に風化して役目を果たさない。したがって文字無くして受け継がれる口伝こそ、現代の研究者が唯一認識できる記録だった。その中で一等目を引く奇妙な童話があったと言う。それは、神を殺した女の物語。 「人々は彼女に助けを請い額ずいた。罪無きソルハイムの民草を神の断罪から救ってくれとな。作品の題名は古い言葉だったから私では発音出来ない。だがテルパの民は『忘れじの川の物語』と呼んでいたと思う」 突拍子もない内容だったので誰も童話の中身に信を置かなかった。とは言えルシス王家が担う選ばれし王の伝承とて市井にとり眉唾物に等しい。ならばその童話にも何かしら真実が紛れているのではないか。そう考えた王子は秘密裡に調書を取っていた。 「だったら今からテルパに誰か送ってもっと詳しく調べさせるか?」と王の盾が提案するも、モルスは酷く悔やまれる面持ちで肩を落とした。 「いいや無理であろう。残念ながらこの口伝を受け継ぐ集落は一人残らず民が死んだ。帝国兵の放った炎による火事だったよ。今にしてみれば……あれは口封じだったのかもしれない」 当時は帝国によるクレイン地方の侵略行為が活発だった。戦いの余韻で建物や街が焼けるのは決して珍しいことではなく、少数民族の村が全焼した事件も一連の流れの不幸な出来事だと見なしていた。しかし帝国の研究者達がその口伝を盲信し、ルシス側の人間に知られたくないと思ったなら――痕跡を消すべく村を焼くなど造作もないだろう。 「神による人の断罪……」 意図を図りかねた史桜は小首を傾げた。 「モルス王子、神々はなぜ人間を殺そうとしたのですか」 「そうか、そなたは魔大戦の話を知らないのだったね。六神についてはどこまで知っている?」 神が実在するらしい、と言うことは朧気に理解している。オルティシエで言葉を交わした鎧男も人の身ではなかったろう。しかし彼女の世界では神も悪霊も英霊も空想上の存在だ。惑う心を隠せぬまま史桜はゆるりと被りを振った。 「分かった。では剣神の語る創星記から抜粋して説明しよう。創星記にはこう書いてある。かつてイオスには六人の神がいたと」 その一人、炎神イフリートは暗闇に生きる人間へ火と文明を与えた。知恵を得た彼らは炎神を太陽の化身として崇め、ソルハイム帝国と名付けて栄華を極めた。しかしある時突然イフリートが乱心した。彼が人間を凡て焼き払おうとした際、星を守る神々が人間側とイフリート側とに分断され諍い合う魔大戦が勃発した。 「どれくらい続いたのか、どのような戦いだったのか仔細に伝えるものは何一つ残っていない。意図的に消されたと思えるほどだ。だが、テルパに住む少数民族は、口伝の中にのみ、ある人物の存在を記憶していた」 それが所謂「神殺し」と呼ばれた女の物語だった。 「彼女は皆の目の前で神を消して見せたらしい。明確に表現されているのは、その一点のみだ」 神殺し――粛正されし炎神を殺す力を持った人物なのか。推して知るべし、と王の盾が独りごちたのが聞こえた。すると友の囁きを耳聡く聞き取ったモルスは柳眉を顰める。 「偽書にも載らぬこの伝承を誰も信じなかった理由は幾つかあってね。最も肝要なのはまさにその点なのだよ、我が友。六神の中で唯一死した炎神イフリートは、人ではなく、恋人の氷神シヴァによって討たれたと伝わる。かの亡骸もラバティオ火山の中に残っている上、史実通りならば彼以外に命を落とした神は存在しないのだ」 消したとは殺したの意であるか。それすら分からず、ただただ物語の文言にそぐわぬ事実だけが在る。イオスの現状と辻褄が合わないのだから虚飾と捉えられても致し方ないだろうと。そう締めくくったモルスへ、王の盾が欠けた歯車を合わせる。 「お伽噺だと断言するのはそういう訳か。だが目下、六神や国王陛下は神殺しの話が真実だと考えていて、ここに居る彼女がその女だと思われている……ということだな」 信じていなくば敵陣へ乗り込んで史桜を保護せよと命じるはずがない。彼女にしてみれば盛大な勘違いに疑惑の花を脳裏に咲かせるしかないが。けれども真実だと言う証拠がないのと同様、嘘であると示す物証もなく。イオスについて無知な史桜は己を糧にした命題を何一つ解き明かすことが出来なかった。 「でも君島が神を殺せるように見えますか。シガイにさえ殺され掛けているのに。俺が付いて居なけりゃ、今頃、野垂れ死んでいたでしょう」 正論をぶつけたのは件の隊員だった。するとモルスは押し黙る隊長を横目で眺めつ、 「それだよ。シガイが史桜だけを執拗に追う理由が分からない。……しかしだ。その点だけでも、神々が彼女を特別視するに値しまいか?」 ここまで語っておきながらも、モルスはかの童話は眉唾だと言い切った。しかし夜に照らう花燭の尖端が、先へ往くほど闇に融けて不分明になるがごとく、白黒瞭かならぬ物事の曖昧さが女の首元をゆっくりと締め上げていくのを感じた。 ――そなたは、どう思う? 王子の瞳がしじまに問うている。よしんば返答するまでもないと史桜は思った。己に特別な力が宿っていないことはこの旅でよくよく身に染みている。もし何某かの力があれば死に息だった護衛を助けるために使ったろう。なにより、史桜は未だ六神が実在すると認めていない――その目で直に見るまでは。 「(存在しないと思っている相手をどうやって殺せるのだろう)」 ――私を喚ぶ「彼女」なら何かを知っているのだろうか。 「(この世界が何であるかも分からないのに?)」 ――そう、私はこの土地に来たばかりだ。 否、そうであって欲しいと、願う。蓋しそれが己を納得させる為の方便であることも悟っていた。記憶がないことはやっておらぬことの証左にはならない。空白の歴史はそれを伝えるべき記録がないだけで、誰も生きて居なかった証明にはならないと、同じように。 陽の光へ身を伸ばした枯れ木が剥き出しの幹に煌々と太陽を浴びていた。遺跡へ置き去りにして来たはずの冴え返る朔風が高級市街地を駆け抜けて、大河を臨む女を居竦ませていく。 「ああ……史桜、顔を上げたまえ。共に旅をした数日、私はずっとそなたを観察していたよ。だからこそ分かる。そなたの中には他者を傷付けんとする意志を見い出せない。ましてや我らが星を愛せし神を屠ろうなど、何かの間違いだろう。無実の者を裁かぬよう可能な限り私が説得してみせよう――だから必ず、無事に王都に来てくれ」 富裕街を囲む荒涼とした砂地、大切に閉じ込めた追憶を硝子ごと砕き割った音に史桜が思わず顔を背ければ、年若い次期国王が厳かに跪いた。そして面伏せな女の瞳を下から覗き込めば、仄かな恋情、死の間際まで続く友情の始まりに手を取り合い、生涯良き友となることを無言の裡に誓っていた。 これは史桜が未だ世界の全容を知らず、神々への斟酌からも遠ざかって、己の自由を己が為に浪費することを許されていた時代の話である。
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'Choosing Hope 〜光の街〜'