君懸Record 0 追悼回想編
-シド-

第6話 Stone Head Machinist

 -石頭の整備士-

 古代帝国の亡霊が世界を席巻してからどれほど時が流れたろう。これは炎神の憐れみによって産声を上げ、剣神の嘆きによって命尽きた機械文明の恩恵にあやかるシド・ソフィアが敏腕整備士として新暦七二二年の王都に暮らしていた頃の話である。  魔導を礎とする超文明は滅亡から数千年経った今も各地に生きた証をありありと刻み、かの営みが決して幻ではなかったと語り継いでいる。それら知識の大半はニフルハイム帝国へ吸収されはしたが、広く考古学者や技師達の手を借りてルシス王国の発展へも一役買ってきた。  かくて先達の知恵を整備に特化したシドは、王家の丘、別名「クルクスの丘」へ大量の機材を積み込んだ大型車を留めて、ある一点を凝視していた。 「入り口が狭いから車じゃ進めねえよな。俺に持って入れってか?」  ことの始まりは一週間ほど前、結界補助装置が故障したとかで真夜中に叩き起こされた日まで遡る。深酒に昏々と寝入っていたあの日、レギスからの電話を無視し、ウィスカムが鳴らす呼び鈴もやり過ごして、妻の安らかな寝顔を眺める平穏な朝を迎えるはずだった。  しかし魔法障壁の向こうに頂く夏空が仄白く染まるより早くクレイラスがソフィア家の愛の巣へ突入して来たことで王都整備士の目論見は水泡へ帰したのだった。  以来、金髪の男は遅々として進まぬ修理作業のために史桜メモリアが暮らす隠れ屋敷へ足繁く通っている。けれども一向にこの仕事から解放される様子はなかった。なにせ素材が珍しすぎて容易に手に入らない。立ち入りを許される人間は限られて大した人手もない、と八方塞がりなのだ。 「そんな状態で今すぐ直せだ? んな簡単に出来たら苦労しねえってんだ」  文句の一つくらい零したくなるものだ。 「ま、素材はレギスの奴に何とか調達させたけどよ……俺一人で森中の機器を直して回れってか。けっ。ソルハイムの魔導機械をレガリアと一緒にしてんじゃねえ」  誰もいないのを良いことに言いたい放題罵る。その折りだった。近くに何かの気配があった。尾を引く淡い花の香。甘いような塩辛いような食欲を刺激する匂いだ。それから砂利を踏みつける音。どんな機械の異常音も聞き逃さぬシドの耳は肉食獣を彷彿とするしなやかな足取りをしかと捉えた。  ――忍び足ってことは警備隊じゃねえな。  一種の犯罪者のような綿密さで辺りを窺うのは身の丈ある精悍な少年だった。肩幅は広く、骨太の手足は仔獅子が優れた身体能力を持つとあきらかにしている。だのに首から上に乗っているのは未だ女の蜜も知らぬ稚らしい顔だった。その不思議な混淆はシドの興味を引いたばかりか王家へ寄り添う彼女と近しい義理堅さを見出した。 「こんなところで何やってんだ、悪戯坊主」  茶色の髪を湿った風にくゆらせて禁足地を彷徨う背中へ声を張り上げる。すると少年は息を呑んで飛び上がった。踵を返すなり両拳を固めて顔の近くに構える。だが相手が警備隊でも親衛隊でもなく、黄色い作業着を身に付けた一般市民と認めるや鼻で笑った。 「整備士か。別に」 「別にってこたぁねえだろ。ここは立ち入り禁止の場所だぞ。禁足地って意味知ってるか」 「馬鹿にするな」  仮にも目上に向かってなんという態度か。問答無用にハンマーで躾けてやろうかとついシドの脳裏を過ぎるが場違いな子供への好奇心が勝った。 「用事ないならとっとと帰れ。不法侵入の件は見逃してやっからよ」 「なら、あんたは何の用事でここに居る」  忖度抜きの鋭い指摘を受けてシドは返答に窮した。野球帽を弄りながら何と返すべきか思案する。限られた人間しかこの先にあるものを知らないからこそ、禁足地で何の仕事だと問われでもすれば尚更困ったことになる。 「別に何してたって構わんだろが」 「説明出来る理由がないのか。じゃあ俺も何してたって構わないな」  鼻っ柱の強い子供だ。年若いと侮っていれば存外頭が回るようで、礼儀を弁えぬ小僧にシドは己のこめかみが青筋立つのが分かった。とは言え真っ直ぐな面構えはいっそ気持ちが好くもある。 「小僧、よっぽど通報されたいようだな、え? 俺が大声で警備隊を呼べばお前なんて即お縄に掛かるんだぞ」 「呼ぶなら呼べ。子供一人見落とす程度のやつらには捕まらないし、俺は目的を果たすまで帰らない」  にべもない。さても彼の言葉で敏腕整備士は先程からずっと喉元を漂っていた違和感の正体へ行き当たった。少年の物言いは向こう側に「何か」があると知っている。警備を搔い潜って来たことを鑑みてもここが立入禁止地区であることさえ理解している。その上で「忘我の森」の入り口に最も近い場所を物色しているとはおかしな偶然だ。 「ははあ……分かったぜ。お前、ウィスカムの言っていた子供か。野獣に襲われて散々な目に遭ったってぇのにまた一体何の用だよ」  森の番人達と一悶着起こした子供を調べてみればクレイラスが見初めた幹部候補生だったとかで、入隊前から彼が頭を抱えていたのを面白可笑しく思い起こされる。史桜の説得が功を奏して少年へのお咎めはなかったらしいが性懲りも無くまた侵入するとはなかなか気骨があるようだ。  シドが指摘するなり育ち盛りの子供は瞠目し「俺を知っているのか」と空色の瞳を凝らした。 「番人と派手にやりやったんだってな? ここのクァールは正規の手続きをせず侵入した人間を確実に殺すよう躾られている。よく命があったもんだぜ」  帝国のスパイすら敵わぬエルダー・クァールを相手に無防備のまま生き残るとは。流石は警護隊から直接声が掛かる訳だ。そう、心からの賞賛を送る整備士。  「名乗ってなかったな。俺はシドってんだ。つっても、どうせもう会わねえんだから覚えなくて良いぞ」  投げやりに追い払う仕草を見せれば仏頂面のまま少年は片眉をぴくりと動かした。 「俺一人の力で逃げ延びた訳じゃない。武器があれば可能だったが」  この話題は禁句だったようだ。不機嫌そうな彼へ、なおさら今日は何の用だと問い掛ければ、コルは居心地悪そうに唇をへの字に曲げた。 「服を返しに来た。それとお袋が、入隊までこれ以上粗相してくれるなと」と潰れた紙袋を差し出した。  中には綺麗に洗濯された衣服と香ばしい菓子がきちんきちんと並んで鎮座している。季節外れの花の香がすると思えば手製の茶菓子を持参していたのか。少年は心にわだかまる物憂いものをひとつずつ拾って吐き出すように、 「あの後……。治療するとかで眠らされて、目が覚めてみれば、俺は自分の家に居た。記憶を消されてるのかと思ったが、白いクァール、史桜やウィスカムってやつに出会ったことは凡てはっきり憶えていた」  あんなに酷かった怪我は跡形も無く完治していた。ならば悪い夢だったのかと安堵したのも束の間、ボロボロだった服が真新しいものへ変わっていた。次いで両親からは、お前は崖から落ちた――だが幸い怪我はなく軽い脳震盪だけで済んだため、様子を見て近くの者が送り届けた――という話を聞かされて、昨夜の事件を口外するのはまかりならんと理解した。  ところが息子を送ってきた浅黒い男が高級車に乗っていたこと、その人物は随分と洗練された立ち振る舞いだったこと、運動神経に優れた自分の子供がそんなヘマをするとは俄に信じられないことから、名乗るに支障あるほどの何処ぞの上流階級へ迷惑を掛けたに違いないと家族も悟ったらしい。  なんとかして謝罪しに行かねばと今度は両親が息子を問い詰める番だった。だが頑として口を割らない。ならば自分自身で礼を尽くして来いと家を追い出される体でここへ来たのだ。 「ふん。そんで、中に入る方法を探してたら俺に捕まったって訳かよ」  四十路半ば、同じく子を持つ親としてシドは焦る両親の気持ちが分からないでもなかった。合点のいった男は弾かれたように腹を抱えた。 「面白ぇ奴だな。面倒起こすなって言われてんのにまた禁足地に忍び込もうとしてんのか。お前のこと気に入りそうだぜ」  家族へことの仔細は伝えていないらしい。それはそうだ。冬明けに王宮務めが決まっている息子が、わざわざ王家の土地へ忍び込み大怪我をして帰ってきたなど口が裂けても伝えられまい。 「仕方ないだろ。渡さずに帰ったらどやされる」  それに、まだ史桜達へ礼を言ってないから――少年の素直な裡から紡がれた言葉を聞いてシドは目尻の皺を深くした。つまるところこの少年は真っ直ぐ過ぎるのだ。馬鹿正直に尽きて眩しいほど前しか見ていない。日に灼けた顔には不法侵入という罪に対する気後れもなく、ただただ己の裡から出た行いが正しいと信じ切る、青臭い放恣に充ちていた。  それは蓋し原動力でもあり無鉄砲な危うさにもなり得たが、重たい楔を燃やし尽くす炎のまなこは、魔法障壁へ囚われてニフルハイムとルシス間に渦巻く欺瞞に板挟まれた「彼女」へ安寧を与える予感があった。ここに思い至ると柄にもなく少年の願いを叶えてやりたいという気持ちがシドの内側へ広がっていく。 「あいつらはこの地を守るために必要なことをしただけだ。服やら菓子やら構いもしないだろうけどな。でもそれじゃお前さんの気が済まねえんだろう。だから、どうしてもって言うなら条件次第では入れてやる」  男は肩辺りまで無造作に伸ばした金髪を靡かせて、唐突に閃いた妙案を胸に、 「ちょっくら人手が必要なんでな。へっ。お前、ぶっ壊れた装置に感謝しろよ」とほくそ笑んだ。 「機材を運ぶ手伝いしやがれ。それでも良いってんなら中に入れてやるよ。それが嫌だってんならとっとと帰れ。んで二度と来んじゃねえ。大人しくかーちゃんの説教でも食らってな」  ――クソ長い道を何往復もするけどよ。  そう心の中で付け加えて、王都整備士は山積みの機材を顎で差し示した。 *  良い塩梅に助っ人を見つけた整備士は鼻歌混じりに車と森への往復を繰り返していた。これで七往復目だったか。木陰伝いに数歩後ろを歩く子供はさして疲れた様子もなく大人しく機材運搬を手伝っている。クレイラスから得た情報によれば十二歳前後だったが、上背もあり逞しい骨格を持つコルは既に十五、六と言っても差し支えなそうだった。  ふと近くに肉を食らったばかりの野獣の匂いがした。胃は充ちていても彼らの狩りに腹の虫は関係ない。ゆめゆめ挑発してくれるなと自制心を促せば「誰がするか」と迷いなく否む少年。  ――お前は怪しいから言ってんだろうがよ。  少年の沸点の低さはこれまでの会話からも察することができる。己の選択は間違いだったかとシドの眉間に絶えず神経質な皺が浮かんでは消えた。だが森に入った途端、それまで愛想笑い一つしなかった少年の面差しが幾らか明るくなったのを認めてしまうとこれも年長者の務めかと絆されていくのだ。 「俺も歳取ったもんだな」 「一人で何言ってる」 「いちいち突っかかってくんな、坊主」  辺りにはまんべんなく金襴の光が射し込めて、落葉樹の連なりが作る木漏れ日に神域と見まごう輝きを添える。古く「忘我の森」と呼ばれたこの森は非常に長い歴史があり、始まりは初代夜叉王までも遡ると言われていた。それらを覆い隠すべく作られた王家の丘はソルハイム時代の技術に魔法が組み合わされて、二千年もの間、王都の隙間に存在し続けている。  惜しむらくはこの仕組みがルシス王国黎明期に作られたものであることか。そのため具体的な仕様はシドにも分かっていない。だが魔導コア以外の箇所、外れた配線を直すやら痛みそうな部品を新しいものに変えるやらは王都の技術でも可能であるため、シドは度々呼び出されていた。  折節、黒々とした煌めきが視界を横切った。 「シド? いらしてたんですか」 「お、おお、史桜か。びっくりさせんなよ、クァールが飛び出して来たかと思ったじゃねえか」 「とんでもない。あの子達は貴方には害を為しませんよ」 「普段ならそうだがな。なんせ今回は俺一人じゃねえもんでよ」  史桜が小首を傾げれば淑とした装いは花弁に溜まった雨雫に似て軽やかな洋琴の音を響かせていく。イオス人らしからぬ楚々とした目元は白い釣鐘草の影を連想させるも、その薄羽かげろうは時の止まった女を忘れ去られた時代へ魂ごと縫い止めんとしていた。 「丁度良い。お前に紹介してえやつがいてな。おいコル、こっちこい。……ほれ二人にしてやるから言いたいこと伝えてこい」とシドは少年の背を軽く押し出した。女は見憶えある水色の瞳を認めるや「コル」と瞠目、それから温んだ微笑みを口辺に浮かべて、 「また来てくださった、ということは……この前のことを忘れていなかったんですね。あれからお変わりないですか」 「そのことで来た。傷はすっかり治った。だから……感謝を、伝えようと思って」  病魔の断末魔にも似た史桜の暗い御髪はどこまでも陽の光を吸い込んで、古樹の陰が及ぶところへ音もなく溶け合っていた。 「あの時あいつらを止めに来てくれて感謝してる。ありがとう、史桜」 「礼なんて。どう致しまして。すっかり快復したようでほっとしました」  命の際に迫る経験を共有したせいか。二人の間には云い知れぬ含羞が滲んでいた。彼らの世界には身分差も年齢差も存在していないように見えたが、その実、史桜と他者の間には旧友モルス国王でさえ埋めることの出来ない大きな断絶が存在するのだとシド自身よく理解していた。だがこの少年ならば粗削りな気骨を以てその隔たりを破壊せしめるのではないかと、あどけない精神へどこか期待を掛ける自分もいた。  コルは身の置き所がなさそうに紙袋を差し出す。 「お袋から。洗濯した服と茶菓子だ。菓子はあっちの王女の口に合うかは分からないが、作る時に俺も手伝ったから味は保証する」 「わざわざありがとうございます。こちらの服は……ああ、ウィスカムが用意したものですね。お菓子もこんなに沢山嬉しいです。今度メモリアと分けて――え?」  みるみる史桜の頬が引きつった。 「お、王女? いつから知って……」  瑞々しい肌が狐火のような青白さを伴って薄ら日の中で憂愁を含んだものとなる。俯いた白い項に暮夏のやつれた日差しが届けられるなり、つまづいたように早い動悸が闇夜のごとき眼差しから伝わってきた。それまで部外者に徹し、黙って伺っていたシドだったが、怱々と息を呑む女に見かねて助け船を出した。 「お前ら、こいつが起きてる前でぺらぺら喋ったんだろよ。あの日の記憶が残ってるなら気付いて当然だ、阿呆」 「あー……ええ、そうでした……はい、そうですよね……」  ぐうの音も出ない。クレイラスに長々と説教受けたばかりで耳が痛い史桜はしょぼくれて虚ろな目を宙へと投げた。 「ごめんなさい、コル。ここの事情に貴方を巻き込むつもりはなかったのです。本当に申し訳ないことをしました」  すると少年は眉の辺りに怪訝そうな色を浮かべた。 「なぜ史桜が謝る。その必要はない。先に侵入したのは俺だ」  この瞬間、シドはますます少年に興味が湧いた。己の行いが発端だと言う自覚はあるのだ。 「その件だけどよ。坊主、そもそも何だって禁足地へ来ようと思ったんだよ、え?」 「さっき話した通りだ。ここに化け物が出る噂があって――」 「それだけじゃねえだろ。お前とはさっきからの短い付き合いだが、王家所縁の地をわざわざ汚す浅はかなガキじゃねえことは分かる。もっと理由があるはずだろが」 「本当にそれだけだと言ってるだろう」とすげなく一蹴するコル。 「そっぽ向くなっての、おい。けっ、強情なやつが」  どうしても白状する気はないらしい。とは言え、いずれクレイラスに絞られて肝胆を開くことになるだろう。此処で包み隠さず話すつもりがないのなら、凡てをつまびらかにする役目は未来の師へ任せようとシドは追求を諦めて、別の方向からもう一押し試みた。 「ただな、コルの坊主。この土地が複雑な事情を抱えていることには変わりない。これも何かの縁だ、望むなら今後も連れてきてはやるが、深く首を突っ込むなよ。関係者だと勘違いされて命狙われても俺ァ知らねえぞ」  強めに脅しても色よい返事は返らない。押し黙る少年の貌へ浮かんでいるのは読めない表情だけだった。折に触れて彼らのやりとりを見守っていた史桜がついぞその場に似つかわしくない台詞を放った。 「ああそうです。みなさん、頂いたお菓子でお茶でもしませんか」 「……茶?」  呆け声を漏らしたのはシドだったのだろうか。否、隣からも聞こえた気がした。ところが女は先程までの狼狽はいずこに、袋から漂う香りを嗅いで頬を綻ばせている。 「重い機材を沢山運んだならお疲れでしょう。んん……桜餅の良い香りがします。お腹が空いてきますね」  ご両親に何かお返しをしなければ、と関係ないことまで口走る女。場を和ませる為なのか、はたまた切り替えが早いだけなのか、肩透かしを食らったシドの裡にいよいよ苛立ちが募ってくる。 「おい。……おい、史桜、聞いてんのか」 「はい。どうしました、シド?」 「お前ぇ、もっぺんクレイラスのやつに叱られて来たほうが良いんじゃねえか。ちっとも反省してねえんだろ」 「やですね、クレイラスに絞られるのは一度で十分です」 「なら俺がしごいてやる。整備士でもそれなりに戦えはするんだぜ」 「そ、それはご勘弁を……」  男の言い草にショックを受けた風でもない。そそくさとその場を離れた史桜は茶会の用意をすべく森の奥へ消えていった。逃げ足の速いことだ。あれで彼より歳上なぞ到底信じられるだろうか。 「なあおいコル。俺はな、今日分かったことがあるぜ。あの図太さ、お前らはお似合いだよ」 「……それが褒め言葉じゃないのは俺にも分かった」  愛想はなけれど些少のユーモアは持ち合わせているらしい。あけすけに切り返すこの少年とて一筋縄では行かなさそうだった。今日はまだ少しも仕事に手を付けていないのにシドは心底疲れを覚えて力なく被りを振る。 「歳を取れないからこそ、ああなのかもしれないけどよ」  身体が記憶を留めているだったか、肉体が何かを忘れて年月を刻まないだったか。レギス王子から受けた説明は抽象的過ぎてからきし理解できなかった。それでも定めて明白なのは、この地は他の誰でもなく――形式上の所有者である王女メモリアでもなく――世間の目から史桜を守るためにあると言うこと。  夏の夥しい湿気をものともせぬ少年が何の話だと瞳で問うていた。だが折り目正しく答えてやる義理はなかった。 「俺はいま腹の虫が悪いんだ、ほれ、さっさと屋敷に行くぞ。修理終わるまでこれから毎日こき使ってやるから覚悟しておくんだな」 「毎日? 話が違わないか」  今日だけの話じゃないのかと抗議を受けれど、今のシドには取り付く島もなく。入隊前の警護隊訓練はどうするのか。今年はまだ学校の宿題もある。そう畳み掛ける少年の異論をすげなく一笑に付しては、止めの一言を浴びせかけた。 「訓練終わった後に来れば良いじゃねえか。宿題は持ってこい、見てやる。……いいか、二千年に一度、経験出来るかも分からん貴重な大規模修理を見学させてやるって言ってんだ。分かったら明日もここに面出せよ、コルの坊主」  シドは気付いていた。楽しげに身を捩って森の奥へ消えた彼女の目には、しかし何らの色もなかったことを。そして、それが己の抱く苛立ちの正体でもあることを。けれどもこの土地を――かつてクリスタルの御前で殺せと命じられた史桜を――取り巻く世情へ今はまだ無垢な少年を引きずり込みたくはなかった。  だからシドは無意識に素知らぬふりをしたのだ。少年と彼女との間柄に身勝手な期待を寄せたとしても、イオス中に渦巻く破滅の暗礁が、ヴァーサタイル某という研究者を渦中にして膨れあがっていく様を、純真な少年時代を謳歌する資格のある者へ見せつけるのは罪深いことだとして。  世界のどこかには神代の者しか触れられぬ忘我の川があると云う。底には不透明な水が弛んでいる。それは澱んでいる訳でも汚れている訳でもなく、水そのものは抜けるように澄んで幾らも見渡すことが出来る。しかし史桜の瞳を、唇を、胸元をひとたび通れば、それらはたちどころに朧を宿し、いかなる賢人も気怠い盲と化していった。

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参考 FFXV OST Volume 2/2 Disc2
'Party Around the World'

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