君懸Record 1 王宮寓話編
-レギス-
第9話 Not unlike Love
-似て非なる愛-
もし、もしも忘れ去られた神が朽ち果てるというのなら。二千年もの間、痕跡を遺さずルシスを守護する剣神は、既に死していることになるのだろうか。否、彼は確かに存在していた――英知を蓄積せし星の粋へ寄り添い、真の王の選定を待ち侘びながら。 ここは神に見初められしインソムニア。レギスの産まれ育った我が家であり、聖石を守護する国王のお膝元でもある。その御許、一際高く聳えるルシス王城を仰げば神々しさに目も眩み、世界がいずれ闇に包まれるなどつゆほど思わぬだろう。けれども王都を囲む城壁から一歩踏み出すと、荒んだ匂いに満ちた時ならぬ断末魔が死の気配を伴って爪を研いでいた。 「神を殺した女……か」 かつて聖石の御前に一人の女が差し出された。空白なる歴史の中、誰の記憶にも残らぬ咎を犯した罪で。されど実態を知る者は一人として居ない。本人はおろか、処刑を言い渡した神々さえ娘の冒した罪状をつぶさに述べることは出来なかった。 それでも神々の裡にあるのはあらわな憎悪――魂を倦む哀しみは数千年経た今も薄れず、陽炎に歪む刻の影を追い縋っては断罪を待つ女へ覆い被さった。そうして、喪ったものが何であったかも憶えていないのに、澱む川底へ瞭かならぬ古の原石を探しては糾弾せんとしたのだ。 レギスは寝物語に紡がれた童話を思い出しながら人気ない王宮植物園へ足を踏み入れた。時節は新暦七二四年の晩春、花の命は短く、都心を彩る桜並木が生き急いで儚く散りぬる。一方、天頂へ伸びた葉叢はぎらつきを増す春の光にかがようて、長き栄華を反照する像へ歴代王の偉業を讃えていた。 久方ぶりの空き時間を持て余した青年は誘われるよう石畳を踏みしめた。視線を落とせば懇ろに手入れされた草花が列を成して木の芽時を迎えている。その脇、盛りを過ぎた躑躅の根元へ、釣鐘型の白き花が気高き威光から逃れるように蕾を付けるも、木陰こそ咲き誇る小花は楚々として、華々しきインソムニアには酷く不釣り合いだった。 ――あの花、史桜に似ているな。 異国出身でありながらルシス王宮へ身を置く女の心は何処を彷徨っているのだろう。帝国に居ては心はルシスに、ルシスに居ては魂は遥かな故郷へ、実態も分からぬ喚び声に導かれた彼女は、まこと、神々の裁定を受けるためだけに王都へ誘われたのだろうか。 そんなとりとめない考えに囚われていると奥まった東屋へ人の姿を認めた。杳とした横顔は史桜と相違ない。クルクスの丘から移り住んで凡そ一年、王宮内のみ自由に出歩ける女は余暇の大半を此処で過ごしているように思う。 たまさか友人に出会ったレギスは心が浮き立った。 「やあ史桜。遅いランチか。隣、良いかい」 眠たげな瞳がゆるりとこちらを向いた。ちょうど食事時のようだ。返事も待たず、自然な流れで腰掛けると小ぶりなサンドイッチをとっくり眺め尽くした。職員向けの売店で買ったのだろう。ウィスカムが作る料理より些か洒落っ気が足りない。 それを頬張る寸前、手を止めた彼女は、 「レギス、こんにちは。今やっと休憩に入れたところなんです」とひと心地ついた。 「これから休みなのか。新しい職場は大変そうだな」 「あはは。皆さん逃げ足が早くて」 「ふむ。そんなところも流石は親衛隊と言ったところか」 成長した王女の側付き仕事が減り、手持ち無沙汰になった史桜が新たに宛がわれた職場は親衛隊事務補佐だった。言わずもがな隊員らは変わり者が多い。事務長のサンギスですら手を焼いているのだから、近々戻ったばかりの彼女なら尚更苦労しよう。 「戦闘の多い部署は何かと後処理も増えるからな。だが、事務仕事の苦手な彼らだ。史桜が古巣へ戻ってくれてとても助かっていると小耳に挟んだぞ」 「そうなのですか?」 「ああ。本人達から聞いた。間違いない」 「へええ」 何年も昔――クルクスの屋敷へ移り住むより前――史桜が古きに馴染んだ場所。そこへ女が再配属されたのは数ヶ月前だったか。城外を出歩く際に必ず親衛隊の警護が付く彼女にとり都合良い職場だと判断されたらしい。しかし道理に則れば国王の意向で保護される者が身を粉にしてルシスへ貢献する必要なぞなかった。 神を殺したはずの女を仇敵へ渡して研究させてはならぬ。そう命令したのは神々である。勅命を恭しく遵守して彼女を忘我の森へ押し込めたのはルシス王家である。となれば史桜はさしずめ身の自由を奪われた捕虜なのだから、どうして尽くす必要があろう。 それでも彼女はモルス陛下の手を取りルシスへ馴染もうとした。心は依然、郷愁の地へ留まっているのかもしれないが、成し得る限り一市民としての生活を培わんとしていた。史桜は考え込む素振りをして、 「私が思うに、苦手というよりは、彼らは積極的にデスクワークをしたがらないと表現した方が的確のような気もしますが」 「はは。それは一理あるだろうな」 彼女のことだ、外仕事を優先して長らく放置された書類を見付けては人知れず処理しているのだろう。だが誰にも得手不得手はある。みなまで言ってやるな、と王子は片目を瞑って「そなたが来る前はよくサンギス事務長の怒号が響いていたよ」と相好を崩した。 文字通り、史桜の配属前は所構わず事務長による大捕物が行われていたものだ。しかも男自ら元隊長候補となれば駿足である。大抵の隊員はあえなく捕まり廊下で一喝されていた。その姿を思い出しながらレギスがくつくつと喉を鳴らせば、心当たりがあるのか、史桜も開けっ広げな笑みを浮かべた。 「どうせなら、ついでに今度クレイラスにもお説教を頼みたいところです」 彼、怒らせたら怖いですから。と熱を込める女を認めて、ふと思い至るものがあった。 「やけに実感が籠もっているな。いつも、あやつに叱られているせいか?」 「あー……普段レギスが私をどういう目で見ているか分かりました」 怨じる風情で柳眉を下げた史桜。親子ほど年齢差があるのにどこか憎めぬ無邪気さがあった。蓋しクレイラスに言わせれば「頼りない」の一言に集約されてしまうだろうが、どんな待遇でも屈託なく笑う姿は、果てぬ戦争にささくれ立った精神を不思議と和らげてくれた。 「半分冗談だよ。機嫌を直してくれ」 「もう半分は本気なのですか?」 「それは秘密だ。正直に言ったら怒るだろう?」 「うーん。言わなくても、怒るかもしれませんね?」 女は悪戯っぽく瞳を輝かせてから唇を尖らせた。その膨れっ面が面白くてつい揶揄ってしまう。レギスは必死に笑いを堪えながら、 「すまない、そなたに会えたのが嬉しくてね。私も史桜がこちらへ来てくれて心から喜んでいるのだ。何せ王家の丘へ移り住んでから会える機会が減ってしまったろう。まだ子供だった私は本当に寂しくて、妹の世話役ではなく私の側付きにして欲しいと父上へ頼み込んだほどだ」 ルシスへ招かれたばかりの頃は彼女も王宮に住まわっていた。定めて身分なき娘が都庁へ居を構えるのは分不相応だと批難の声もあったらしい。よって当初は陛下の一存で跳ね除けていたものの、史桜の友人達に老化の影が及び始めた頃のことだったか、時代の移り変わりと共に声高な反対意見をいよいよ無視出来なくなった。 なんとなれば、平々凡々と見なした女がちらとも老いぬのだ。その異質さは時を重ねるほど著しく、周囲の目は年々鋭くなっていった。とりわけ問題視されたのは、神々との確執を知る一部の重鎮が再び史桜の断罪を唱え始めたことだった。そんな経緯があったせいか、王子の話を聞いた史桜の表情が僅かに渋みを含んだ。 「勿体ないお言葉です。でも――」 「でも?」 誰も覚えておらぬ罪で裁くなどあってはならない――二十余年前、レギスの父は断罪を望む神々から情状酌量を取り付けた。傍目にはさしたる力もない、ただシガイに追われるだけの変哲なき娘が偉大なる存在へ抗するなど不可能なのだから、敢えて処刑するまでもないだろう、と説得したのだ。 さのみ、神々や彼らの過激な信奉者がこの論理を飲み込むには史桜が平凡な女である必要があった。そしてモルス陛下の説得にはいかな瑕瑾もないように思えた。けれども刻の止まった女となればどうだ。娘は平凡である、ゆえに無実である、という前提も揺らぎ、神々の裁定こそ正しかったと欺瞞に満ちた意見が差し交わされるようになった。 「はは。無論、そなたが躊躇う理由は分かっているつもりだ。自分の存在が父上の治世を揺るがすのでは無いかと不安なのだろう? しかし……たった一人、真に罪を犯したかも分からぬ人間によって二千年の歴史を誇るルシス王家が滅ぶなぞ有り得ようか」 女は伏し目がちに耳を欹てていた。私には分からない。そうと言う資格もない。と全身でレギスへ告げていた。彼女自身がその言葉に肯うことは甚だ無責任な所業だと解っているからだ。それでも青年は言い淀むことなく続けた。 「よく聞くんだ、史桜。ルシス国の王子である私は、そんなことはないと断言しよう。我が国は百年以上帝国へ対抗し続ける屈強な魂を持った国だ。どれほどそなたが神に疎まれようと祖先が刻んだ歴史の重みは変わらない。変えられようも、ない」 ルシスの生き様を否定することはすべからく神々自身の意向を否定するに等しいからだ。同時に人を形作るのも積み重なった過去だが、されど、その者を決定付けるのは未来の行動である。忘れてしまう程度の罪ならば眼前に佇む女自身を見極めて裁くべき――そう考えたモルス国王が、今になって彼女の存在を厭うはずもなく。 「古き友であるそなたなら知っていよう。父上はルシスを傾かせるような選択はしない。肉を断っても生き残る途を探す人だ。そんな父上が自らそなたに拘らわった。ならば、何を惑うことがある」 史桜がクルクスの丘を出たこと、それが夢を騒す凶兆であることも重々承知していた。けれど若き青年には友の帰還を喜ぶ素直な心もあった。 「もう一度言う。私はそなたが戻って来てくれて嬉しい。この気持ちは、父上も、我が友人達も変わらないよ」 憩いの時間に図らずも出会い、美しい花を愛でながら言葉を交わせる。周りの目を憚らず好きな時に逢瀬を行える。すべて、彼女が丘に閉じ込められたままでは起こり得なかったことだ。 「だから」と神妙に言葉を切るレギス。 「今から私と街角散策と行こう」 「……ええと? 話の繋がりが分からないのですが」 話の振り幅に史桜は頬を引き攣らせていた。しかし王子は断られまいと饒舌に畳み掛ける。 「私は午後の時間が空いている。そなたも予定が空いている――ならば、こんな良い日和に二人隠れて過ごすのは勿体ないだろう」 「そうは申されましても。私はこの後休みではないですよ?」 もう一度、路端の石でも見るような冷ややかな視線が注がれた。普段は優しいのにこういう時に限って容赦がない。すげない反応に些か傷付くも、レギスは食い下がった。 「いいや、空くさ。私が引き留めたと連絡を入れる」 「それでは事務所の仕事が」 「問題ない。言っただろう? 今日は私が引き留めた、と」 重ね重ね、己に時間を割いてくれと言い含めた。むろんレギスとて野放図な放恣を許される年齢でないことは理解している。子供の頃とは、もう違うのだ。それでも昔のように彼のことを見て欲しかった。暖かな掌で髪を、頬を撫でて、家族へ接するように手を繋いで欲しかった。 珍しく強引な王子に虚を衝かれたか、幾らもしないうち、女は細く息を吐き出した。 「分かりました。では……昔みたいにまた私と遊んでくれますか、レギス王子?」 「ああ、喜んでエスコートしよう」 間髪入れず肯う王子に史桜は花笑んだ。どこか無頓着な輪郭は吹っ切れた素顔の反映があった。お前はルシスを滅ぼす――仮にそう予言した人間が居ようと大人しく沈んでやる気はない。最期の最期まで抵抗し続け、栄えある歴史を紡いだ英霊へ誇り高く剣を掲げんと、怠惰に熟れた微風に思い固むる王子の決意が、いつしか女の中にも宿っていた。 * 「あ~あ。まさか仕事サボってデートする部下のお守りに抜擢されるとは思わなかったな。いや~長く生きるもんだ、ははは」 「事務長、目が笑っておりません」 「いーや別に構わないんだぞ。レギス殿下からお誘い頂いたデートだもんな。断れないもんな。しっかし、お前も俺も事務室に居ないとなりゃ、午後の仕事が一つも進まないんだよなあ」 あの後、時を置かず史桜の職場へ連絡すると折良くサンギス事務長が応対した。王子直々に連絡が入ったことに驚く様子はあるも、外出する旨を伝えるなり、元腕利き自ら護衛を志願しては親衛隊員の鏡とも言える速さで御前へ参上した。 「……あ! まさか明日から自分は非番だからって残りの分を凡て押し付けてるお積もりですか?」 「んだとコラ? じゃあ何か。王子の護衛も要らないってか?」 「失言でした滅相もございません睨まないでください」 国王陛下が命じた或る調査の為、護衛へ割く人員が足りて居ないらしい。しかし事務員全員出払ってしまっては誰が取次をするのだろう。思案の種が尽きぬも、父の厚い信頼を受ける事務長である。何かと対策はしてあるのだろうとレギスは直ちに考えることを放棄した。 かくして運転手を名乗り出た彼を快く迎え、レギス、史桜、事務長の三人は、青い日盛りの下、王都へと繰り出した。 「それで。どこへ参りますか、殿下。何なりとお申し付けください」 「有難う。ここに行きたいんだ」 後部座席から一枚の広告を手渡すと、ハンドルの握り具合を確かめながら事務長は鳶のような目を細めた。そして何かに気付いた塩梅で「ははあ。殿下」と見透かすような笑みを口角に漂わせた。だが気恥ずかしさが勝る王子は無言で肩を竦めるに留めた。 苦み走った男は齢五十を越えた頃だろうか。ひと刷毛刷いたような肌の衰えがある。額のひそみには白髪が束になっていた。鼻梁は太く、垂れ目がちの瞳は愛嬌があるも、隙のない身ごなしは健在であった。堀の深さを強調する凛々しい眉で締められた強面には、おどけた拍子に揺るぎない忠誠心が滲み出して、引退の身でありながら頼り甲斐に充ちているように思えた。 「了解しました。じゃ、出しますよ」 豊かな自然公園を横目に外用車は都庁を南下、ひしめくデパート群を過ぎて、国力を示す厳めしいコンサートホールを眼前に見据える。先日アコルド有名歌劇団が六神を称える曲目を披露して喝采を浴びたと一面記事で読んだが、別段寄り道はせず、銀行密集地域をも摺り抜けて歩道橋近くの登り坂を上がっていった。 たった二十年で様変わりした都心の中、史桜が車窓に張り付いて恬然と景色を眺めていた。街風景に滑らせたまなこは悠遠の空に魅入られていた。薄暮のような面立ちには愁いなのか諦めなのか判断つかぬ感情が泛んで、レギスの心に不安な色を挿し入れる。 ――そう言えば彼女の故郷はインソムニアと近しい文化を持つと聞いたことがあるな。 やがて王家の車は閑静な市街地へ入り、或る一角、隠れ家のように佇む小綺麗な洋服店に辿り着いた。サンギスが歩道脇に停車すれば、史桜は普段滅多に訪れぬ住宅街へ降り立って「こんなところにお店が在るんですね」とまだらな人影へ目を凝らした。 「でも……来たことあるような気がします」 それもそのはず。ここは王都へ旅した在りし日、史桜が初めてルシスの衣服を纏ったあの店だ。有名銘柄でなけれど一般市民層から強い支持を受けて王都に本店を構えたばかりだと聞く。 レギスは女の手を取り店の中へ導いた。 「憶えているとはな。そうだ、昔、父上はこの店で手ずからそなたの服を選んだ」 定めて国王と史桜の間には友情以上の何かがあった。しかし人生を狂わす熱情ではなかった。そう、例えるなら神へ奉じる敬愛に似た何か。国王は一茎の蓮のごとき恩情を、娘は命を救われた深謝を互いへ惜しみなく捧げて、茜さす思い遣りはいつしか王妃や王子といった周囲の人間まで及んでいった。 その在り様を眺めて来たレギスにとって彼女は歳の離れた姉のような大切な存在であった。妹にとっては乳母のような、否、それ以上に最も親しい友だろう。父や、亡き母にとっても、恐らくは古きを知る掛け替えのない人だった。 「私はそなたに関する父上の決定を尊重している。自分も同じ立場だったら等しくその選択をしただろうとも思う」 最も、史桜と出会った頃の父と異なり、今のレギスは成人したばかりの若輩だ。国王陛下が健脚な現在すぐさま指輪を受け継ぐことはない。それでもいつしか為政者となり、神と彼女の仲立ちを担う者として行うべきことがあると感じていた。 「しかしだ。そなたへ対する反発が多少なりともある以上、周りの者が理解出来る形でそれを示さなければ意味がないだろう。だから、どうすれば良いかずっと考えていたんだ」 言葉を重ねながら、レギスはかねてより見繕っていた一式を店員から受け取り、姉と慕う人を優雅に手招いた。銀装飾のパンプスと一緒に手渡されたそれは王家の色を呈した漆黒のリトルブラックドレスだった。この服を贈るため、無理矢理休みを取らせて連れて来たのだと理解すれば、史桜はただただ黙って王子と事務長を見比べた。夜の瞳には潤んだ底光りがあった。なめらかな白い霧が病魔のごとく脳裏へ閃いて花見酒に酔ったような目眩が誰ともなく息吐いていた。 「私は父上ほどドレスの魅力を能弁に語ることは出来ない。でも、一生懸命選んだから気に入ってくれると嬉しい。……よし、どうぞこちらへ、史桜」 エスコートしながらやんわりと試着を促せば、柳腰の女はあたかも文字という文字を奪われた奴隷のように黙りこくって、慎み深く帳の向こうへ消えた。 「如何、でしょうか」 しばらくすると史桜が更衣室から居様良く進み出た。かの容貌はレスタルムにて撮られた写真と相違なかった。傍らには王子、背後には彼女を見守ってきた元隊員。まるであの日に戻ったみたいだな。と壮年男が弛んだ肌に笑い皺を浅く刻んだのを視界の端で捉えて、レギスも満面に喜色を湛えた。 「ああ……! とても似合っている」 黒いワンピースは流行りに合わせて丈長い。中心には大きめのプリーツが幾筋入り、つるりとした生地に階梯を刻んでいた。襟元は花柄の刺繍だろうか。白い襟首を縁取っていく地模様は同じく漆黒の絲で織り込まれて、目立たぬながらも細やかな匠の技を感じさせる。 それは蕩ける柔肌を象り奈落のような黒と相反するも、ゆかしいレースの中に、張り詰めた繊細さ、荒れ狂う時流を乗り越えんとする毅然とした風情を与えていた。 「……なあ史桜。私は最近になってよく考えるんだよ。あの日、父上がその手を取って、ルシスの色を贈った時点でそなたは既にこの国へ受け入れられて居たのではないかと」 衣服を身に纏うことは即ち、その文化へ受け入れられるための第一歩である。そして黒き衣に身を包んだ今の彼女は紛れもなくルシスの民だと、レギスは思った。 「確かに歳を重ねぬそなたの姿を敬遠する者も居よう。私とて、いずれはそなたより歳降りて目も当てられぬ姿になる。だがこうして共に同じ刻を、父と等しき青春時代を隣で過ごせることを愛おしく思う」 そう、もし――もしも、史桜が本当に神を殺した咎人だったとしても。 「そなたがルシス王家の大切な友人であることに変わりない。だから神々が凡てを思い出すその時まで、慈しむべき我がルシスの民として、私にそなたの幸福を祈らせてくれないか」 忘我の川へ投げ込まれた過去がつまびらかになってしまえば、いつまで彼女を庇いきれるか分からない。この手で殺せと、彼自身が神に命じられるかもしれない。それでも一度築いた親愛の情を無にすることは出来やしないのだ。 そんな想いを込めて、レギスは匂い立つ瞼へ口付けを落とした。応じるかのよう王子の頬にも女の唇が近づけば、幼き頃から青年を見守り続ける夜の海が愛おしくて、灯りのともった花顔をそっと撫ぜ返した。すると擽ったそうに指尖を追う女の双眸。記憶の捩じれたそれを奥の奥まで見透せば不思議と望郷の念に駆られた。レギスの家はこの王都に在ると言うのに、誰某が誂えた、あずかり知らぬ故郷が世界の何処かへまだ存在しているような気がした。 折に触れてレギスは友情を貫き通した父の気持ちをにわかに理解した。抱く想いは恋ではない。身を焦がす熱情でもない。それはあたかも消え残る切望――生きとし生けるものを見守る水晶のごとく――彼らを喚ぶ声に惑わされぬよう、寄る辺なき大河を彷徨う人々の止まり木であって欲しいと願う心だった。
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'Valse di Fantastica'