君懸Record 1 王宮寓話編
-コル-
第11話 Chase in the Dark
-闇夜の追撃-
柔らかな音盤の波がコルの鼓膜を愛撫した。人気ない会議室を走り抜けるメロディーの奔流は蓄音機を通して厚みあるものへ変わった。それは懐かしさを伴いながら、いかにも上流階級の人間が好みそうな趣に溢れていた。 時刻は午後六時四十五分。あと十分も経たたぬうち日没を迎えるだろう。黄昏織り成す旋律には夜に類する怯えが添えられて、鬱屈した孤独が一人歩きする。だのにひとたび宵の反映へ意識を投じれば、繊細な弦楽器が葬られた記憶の川底を優しく浚っていった。 室内の点検を終えるとコルは最後に音響装置を止めた。重鎮会議の終わった部屋は酷く空っぽに感じた。先まで騒然とした体だったのもあるだろうか。急遽招集された会議の中身はさやかであらねど、口疾に言い争う声が乱れ飛んで、神々が、神殺しが、等とおよそ普段の議会からほど遠い緊迫した応酬があった。 「リオニス、終わったか?」 会議室の小部屋、映写室の検めを終えた先輩隊員が寡黙な後輩へ声を掛けた。 「ああ。もう戻る」 「じゃあこっちは先上がらせてもらう。警備日誌は頼んだぞ。天才児なら、それくらい余裕で書けるだろ?」 かの男はさながら無気力な紐である。砂を噛むような生活に飽き連ねて弛緩した精神は見るに堪えなかった。才能を羨んで湿った声には微かな嘲りも含まれていたが、コルは瞬きひとつせず無視を決め込んだ。媚びでは国を守れない。シガイに愛想を振りまいても倒せはしないのと同じように、誰に好かれるかなど些末なことだった。 「……ち。スルーかよ」 居丈高な先輩隊員は忌々しそうに小さく呟いた。何時にもまして憎々しげな色が込められていたが相手にするだけ無駄だ。前を見据え続ける悍馬な麒麟児には薄笑いも陰口も何らの意味を成さなかった。 ――値踏みされるなら、俺も奴らの価値を見極めるまでだ。 ふと彼は棚に収めたレコード盤の箱を眺めた。見憶えのある題名だった。どこで目にしたろうか。喉元まで出かかった、忘れがたい引き出しを急き立てられるように探し求めれば、あれはクルクスの屋敷だったと思い出した。 「史桜の聴いていた曲か」 シドにこき使われた後の休憩時間、茶菓子を用意しながらあの女が応接間へ流していた小夜曲。お気に入りなのか、同じ作曲家のレコード盤が揃っていたと記憶している。どこからともなく屋敷の脇を流れる川のせせらぎが蘇ればコルの魂へ穏やかな日溜りを挿し込んだ。 あの頃、女の住む屋敷はまるで一場の夢だった。忘我の森に囲まれたクルクスの丘。愛情と慈しみが手を取り合い、一期一会に触れ往く魂を優しく包み込む世界。かと思えば、静かな湖へ流れ込む清らかな飛沫が凝り固まった心を解き、疲れた身体へ優しい眠りを施してくれた。 その成り立ちが史桜自身に端を持つのか、代々丘と森を守り続けたクルクス・チェラム家の築いた忘れ形見なのかは判断しかねる。だがあの地はコルにとり――悪夢のような経験をしたにも拘わらず――しかし恩人との出会いをもたらした――無限の夢に包まれた安息地に等しかった。 西日射し込む窓へ目を向けると、最後の黄金色が水平線の向こうへ沈み掛けていた。常世に通ずる端境は東から伸びる濃紺へ包まれて、薄棚引く雲居だけが林立するビル群の間で儚い日の名残りを浴びていた。すると少しずつ、少しずつ、世界を黒く染め上げる闇が峨々たる影法師の仮面を被って、美しい青空に酷薄な笑みを浮かべる。 コルは警護隊控室へ向かうべく廊下を急いだ。本来、未成年の隊員に夜勤務は推奨されていない。だが先輩方はそれを承知の上で少年隊員を夕方の緊急警備へ配置した挙句、最後の最後まで面倒なことを押し付けて帰った。謂わば嫌がらせである。だが仔獅子は歯牙にもかけなかった。肝要なのは、護衛任務に値する実力があると誰もが認めざるを得ない点だから。 その折だ――前触れなくけたたましい警報が鳴り響いた。相次いで人々の悲鳴が城内を支配する。それに重ねるよう響くは胸元の無線だった。一種ぞっとするような切迫した声音には聞き覚えがあった。 『こちら王都警護隊所属ウィスカム・アルマだ。現在凡てのチャンネルに通信を入れている。都内にシガイ発生! 都内にシガイ発生!』 屋敷でコルを助けた男の声だった。あれら富裕層はチェラム家が支配者として王座に据えられた時代から王家と深い繋がりを持っていた。翻って、それはまた影の支配者となり得るため、キカトリーク市民が貪る享楽はコルのような一般市民から蔑みの対象である。けれどウィスカム自身は思いやり深い忠義心に溢れた青年と言った印象が強かった。 『先に会敵した警備隊が既に動いている。王宮へ強力なシガイの侵入を許すのも時間の問題だ。これから私は王子を探しにいくが残りの隊員は市民の安全確保を優先するように。また、平行して女性職員の捜索を頼みたい。すみやかに彼女を探して連絡してくれ。詳細は以下だ』 瞳は漆黒、背の高さはこれくらいで、黒髪を緩く結わえている。今日は赤い服を着用しているらしい。正面受付の話によれば既に王宮内には居らず、数分前に立ち去ったと見られる……。などと女に関する情報が連ねられていく。名は伏せられど、無線が告げた女の特徴は、寸分の違いなく、休憩時間に言葉を交わした史桜と合致していた。 『彼女の居場所を探すことは市民の安全を守ることに繋がる。事情を飲み込めない者はとにかくシガイが集中する場所を探して欲しい。だが、彼女の周りはシガイの温床だ。くれぐれも単独で駆け付けないように。見付けたら直ちに報告し、応援を待て。追って親衛隊を向かわせる。なお今後の連絡は凡て親衛隊が引き継ぐ』 一人で向かえば命を落とすぞ。そう締め括り交信は途絶えた。 「発見しても手を出すな、だと」 黙って見て居ろと云うのか。鍛え抜かれた警護隊が命を落とすなら、史桜なぞ呆気なく殺されてしまおうに。コルは一揃い武器を確認するとバイクに飛び乗って夜の街へ単調な爆音を響かせた。壊れたレコードのように頭の中でウィスカムの流した情報が繰り返される。既に王宮内には居ないらしい――女が勝手に城を出ることは滅多にないと言うのに奇妙なことだった。 折に触れて少年は先ほど紡がれた女の言葉を思い出した。向けられたあえかな愛情は史桜の中でさほど大きな意味を持って居ないのは明らかだ。それはあの口振りからも察せられる。されど仔獅子にとってはどうか。無造作に手渡された情合いが少年の未来へどんな意味をもたらすか、人生の架け橋を渡り始めたばかりの若き獣には見当も付かなかった。 * 『こちら南西区域の警備隊。報告する、北からシガイが雪崩れ込んでいる。応援を頼む。繰り返す、北からシガイが雪崩れ込んでいる……』 『こちら親衛隊指令室。応援要請を確認した。確かにシガイの群れは南に向かって移動しているようだ。そちらに対象が居る可能性は高い。そう遠くまで行ってないはずだ、手の空いている者は目を皿にして探せ』 無線に耳を傾けながらコルはシガイの情報に意識を配っていた。討伐隊が常時、敵の動向を伝えてくるも、何かの行き違いからか誰も発見するに至っていなかった。大方彼女が見つかることを望んでいないのだろう。人にも追われ、病魔にも追われる女に対して不憫の情が湧いた。だが憐れみではなかった。史桜という女が普段ちらとも見せようとせぬ強い覚悟への驚嘆だった。 その折、バイクの激しい排気音に混じって甲高い音が鳴り響いた。耳障りな地響きに思わず眉間の皺を深くする。紛れもなくシガイの声だった。音の方角へ駆け付けると一つ下の道路で史桜が大量の悪霊に囲まれていた。迷えばそれだけ彼女の命が危険に晒される。コルはひと思いに車体ごと飛び降りた。 それから速度を落とした少年は史桜の隣へ二輪を付けた。 「無事だな。怪我はないか」 「コル?」 赤いスカートを閃かせる女は頓狂な声を上げて足を止めた。すかさず背後から痩せさらばえた骨が手を伸ばす。その瞬間を目敏く見極めたコルが警護隊の銃で撃ち落とせば、這う這うの体で疾駆する彼女の表情が凍りついた。そして生唾を呑み込むなり、ふいと顔を背け、再び土煙を蹴立てて走り出した。 「待て、何処に行く」 「お願いです。どうか戻って応援を呼んでください。危ないからこちらに来ないで」 日の光を遮って襲いかかる人型病魔の一閃は墨のような髪を幾房斬り落とし、頬に赤い紅い痕を付けた。その血が慣性力に乗って女の背後へ棚引くと、病魔達は生の重みに耐えきれず唸り声を漏らす。そして僅かな数滴を飲み干さんと欲深く奪い合った。 シガイと女、彼我の差は歴然だった。なのに彼女は――史桜は未だに生きていた。あれだけの敵に追い捲られて、なお命があることは奇跡に思えた。しかし違和感の正体はすぐに判明した。病魔は女を貪らんとむせび泣くような金切声を上げる。だのに、その手が彼女へ触れる寸前、痙攣するよう身を捩りて虚ろになるのだ。 コルは頑なに距離を取らんとする女を寸でのところで捕らえ、後部座席へ否応なしに乗せた。聞き分けない貌を拝んでやろうと一寸見返れば彼女は困ったように眉根を下げた。微笑もうと試みたのに、不安に任せて口元が引き攣るだけに終わった。そんな塩梅だ。 「俺から離れるな。死にたいなら別だが」 「ですが、その」 女は息を切らしていた。王宮を飛び出してから駆け通しだったのだろう。 「弁解は後にしろ。今はシガイを振り払うだけで精一杯だ」 「ええとでも免許は」 「そんなもの入隊時に取っている。次は、ヘルメットは、なんて言い出すなよ」 「あ、あはは……はい」 史桜は返す言葉もないらしい。その隙にコルは一段階ギアを上げて巧みに大カーブを曲がった。 「さて、ここからどうする。シガイは何故かお前を追っている。戦えもしないのにどうやって生き延びるつもりだ」 「それなのですが……。出来るだけ都心から離れてください。上手く行けばシガイを王宮から引き離せると思います」 「引き離したところでシガイの数は増える一方じゃないのか」 史桜が背後で微笑んだ気がした。今度こそ晴れやかに。 「実はマジックボトルを陛下から幾つか頂いているのです。非常に強力な魔法が込められているので一か所に集めてから使えば効率良いかと」 ただし人間に当たれば一撃で即死しかねない。誰も居ない場所でなければ迂闊に使えないから丁度良い場所を探していた、と。 ――それを最初から言え。 無計画に出奔した訳ではないのだ。仔獅子は文句の一つも零したかったが、言いさして止めた。 「ならば行く場所は限られるな。魔法障壁から出ずに応援を呼びやすい場所。だが魔法を使っても周囲に影響がない――と来れば、高架橋だ」 王都から荒涼としたリード地方へ架かる橋を渡った先、城壁外にはいつも、凡てに終わりをもたらす死神の愛撫が在った。けれども今この時ばかりはその隔絶が都民を守る盾となろう。 この計画に懸念があるとすれば南にある海辺だった。リード地域方面の関所へ向かうには必ずあの桟道を通る。だがこの時間ならまだ漁船は出まい。カヴァー地方へ向かうより被害は少ないだろうと思考を巡らせて、二つの影は人気ない道を突き進んだ。 かくして彼らは一直線に、獣道だろうと構わず、南へ、南へと邁進した。悪路により時々車体が宙に浮けば、史桜の悲鳴が響いたが、目的地まではまだ遠かった。 やがて遠方にアルア大洋へ面する漁船海域を認めた。気が抜けたのか史桜は背後で身の置き場なく動く。「墜ちたら全身打撲で死ぬぞ」と真顔で脅せば、少年を包む腕に心無し力が篭った気がした。 「こちら警護隊のコル・リオニス。中央指令室、聞こえるか。対象を保護した。現在彼女を連れてバイクで南へ向かっている。王都外の高架橋へシガイを集めて一気に叩くつもりだ。関所を開けて欲しい」 『こちら司令部。要請了解した。しかし独りなのか? あれほど用心しろと伝』 「悪い。聞こえん」 『おい、リオニス隊員――』 派手に動き回っているのだ。コルが対象を連れ回していることは各地の目撃情報から調べが付いているだろう。背後を追うシガイを認めるなり関所の扉が易々と開け放たれた。ここから先はいよいよ王都と城壁外を繋ぐ高架橋だ。無線に寄れば王子とウィスカムも半刻前にこの門を通ったらしい。それを小耳に挟んだ史桜が、 「此度の事件、王子が何かを発見したのでしょう」と背中に頬寄せて独りごちた。 何処までも伸びるような浮き橋が眼前に広がった。ルシスとアコルドの間に漂うアルア洋、その地へ面する漠々した橋を渡るは女と少年だけ。都庁から城壁までの半径を網羅すると思しき巨大な桟橋は、王都を離れる人々へ外界の雄大さを知らしめる役目を担っていた。 一瞥すると細い橋だが、戦うには十分すぎるほどの面積があった。コルは反対側の橋端、東リード地方を守る王都検問所方面へ車頭を定めた。もう少し進めば曲がり道がある。あの辺りなら他より橋幅が広く戦闘に適していると判断してのことだった。 そうして後少しで目的地へ着くという折節、史桜の小さな悲鳴と共に温もりが背後から消えた。まさか落ちた――否、地面に彼女の姿はない。では飛行能力のあるシガイに攫われた――否。否。それもない。脱兎の勢いで最大速度を出し続けた甲斐あって、追い縋る病魔は未だに関所の辺りを彷徨っていた。 「ここだよ、ここ」 気を揉むコルを嘲るように頭上から降って湧いたのは道化染みた声だった。夜半の橋を照らす電灯。その天頂に囚われた史桜と、この世のものならぬ気配を纏った男の姿があった。髪は血のような赤。顔はよく見えない。 深い堀には影が充ちて小さな鍔付き帽子に隠されていた。鼻梁の高さや顎の線からある程度整った顔なのだろうと想像するが、その口角が艶に歪んだかと思いきや――抱えた史桜の細顎を固定し――唐突に容好い唇を奪った。 「あの男……」 示し合わせたように追い縋るシガイが行く手を阻んだ。しかし不思議と思考は冷えて、彼女の元までは何体倒せば良いのか瞬時に導き出していた。少年はクレイラスから特別に支給された刀を構えた。脳内は沸騰するほど怒りに滾っているはずなのに感覚は数段研ぎ澄まされていた。 「任務の邪魔だ……全員退け」 女の紅を乱して食べた男は仔獅子の逆鱗に触れた。経験したことのない激しい憎悪が滾れば、これほどの激情が己に存在したのかという驚きと、無意識にその理由を探す自分とが錯綜していく。 ――いや、最早どうでもいい。シガイもあいつも斬るだけだ。 最初こそ激しく抵抗していた史桜だったが、酸欠により思考力を失っているようだった。心許なく手を突っぱねるも、男は落ち着き払っている。そしてされるがまま扇情的な声を漏らす女をいつ尽きるともしれない接吻へ溺死させていくのだ。 史桜の腕から力が抜けるにつれて、顎に添えられていた指が耳元へ進み、ほつれた髪を掻き分けては狂おしげに柔らかな耳朶へ触れた。そして望む場所を堪能できるよう、後頭部を掴んで、尚も深く熱く口付けていく。舌先の艶めかしさに自ら立って居られなくなった史桜は細い腰に手を回されていた。 「史桜! しっかりしろ!」 声を荒らげた刹那、はたと彼女の瞳が視界の隅でコルを射抜いた気がした。見る見る間に意識が冴え渡り再び抵抗を試みる女。それを認めれば完全に篭絡された訳では無いのだと安堵する。その刹那、男の手がぞんざいに何かを放り投げた。それは透明な壜だった。 「――コル、今すぐその場を離れて!」 やっとの思いで史桜が紡いだ言葉は少年への警告だった。やにわに視界が白亜に染まった。凍て付く空気に背筋が震えたと思えば、次いで、炎、雷、そしてまた氷。連続で荒れ狂う魔法の乱流に触れるや周囲の敵は瞬く間に溶けていった。 かくしてマジックボトルによる魔法の波はどれほど続いたろう。急激な温度差により形成された暴風に巻き込まれたコルは肩で息をするも、それ以外は何らの影響もない。しかし漂う黒い靄だけが病魔の痕跡を残していた。奇しくもシガイは一掃されたのだ。 「あれ。君、何で平気なのかな。つまんないなー……」 暗闇に融ける男が首を傾げた。他方、胸に抱かれる史桜の表情は和らいでいた。だが力が入らないのか、男へ枝垂れ掛かってやっと姿勢を保っていた。その脚は熱い触れ合いの余韻で小刻みに震えている。だらしなく開いた唇を濡らすは無分別の情欲、男は苛立ち紛れに彼女の胸倉を掴み、再度唇を塞ぐと舌を絡め取ってはどちらのものかも分からぬ唾液を啜った。 噛み付くように呼吸を掠め取る男の白い歯は淫靡な焔に煌めいていた。必死に募る女の姿はもっともっとと強請っているようにすら見えた。唇を奪われているのは彼女であるのに、息継ぎの度に互いを繋ぐ銀の糸が幾筋煌めけば、悩ましい女郎蜘蛛が影の男を喰らい尽さんとする姿を彷彿とした。そうして何かを味わうように顔を離せば、長身の男は暴力的な笑みを口辺へ浮かべた。 「まあ、こっちの収穫あっただけ良いか。……オレさ、元はそんな興味なかったんだよね。ただ、実際に会ったらどうなるのかなって思って」 「何の話をしている」 「ごめんごめん。こっちの話、だ、よっと」 唐突に史桜が襟元を捕まれたまま宙に浮かされた。首元を絞め上げられ苦悶の表情を白い貌へ浮かべる女。爪先も僅かに街灯の頭に乗っているだけ、あの高さから海面へ落とされれば命はあるまい。獣染みた男に情は存在せず、どこまでも彼女を物と扱う姿が王宮の重鎮達と重なって見えた。 瞋恚の炎を灯すコルを認めるや男は喉を鳴らした。 「あれだけのシガイを一人で対処出来るなんて、いやあ大したもんだよ、コル・リオニス君? 異例の入隊を許された麒麟児、だっけ。あーあ。君に仲間になって貰えたら心強いんだけどな。ま……それも無理な話だな」 口元だけが異様に目を引く男だと思った。 「じゃあそんな君にアドバイス。出世したいならこのお姉さんと関わるの止めたほうが良いよ。オレってさ……物知りだから知ってるんだよね。彼女は神様に好かれていない。でもルシスは神様のお告げで出来た国でしょ。そんな国で、神様に嫌われてる子と一緒にいたら何が起きるかな」 斑らに落ちる男の甘言は執念深い諧謔に満ちていた。しかめつらしい策略の様相を呈す言葉は通り一遍のようで、人心掌握に長けるも、優しい紡ぎ言は神の綺麗事をことごとく憎んでいた。 「どんなに深く愛しても、いずれ神様の戯れで殺されちゃうなら愛する意味なんてない。それ以上一緒に居ないほうが互いの為になる――とは思わない?」 まるで癒えぬ傷口から横溢する膿を吸い出しては、今一度それを呑み込み、体内に毒を溜めんとする道化の独り言だった。哀憐さえ漂う男の台詞に聞き入ってしまいそうになる。だが、コルが彼の指示に従う謂われはない。 「ああやだな、その怖い顔。はいはい、いいよ、返すよ。今は連れて帰る気ないし。オレ達、先に完成させるべき仕事があるからさ。それを成し遂げたらまた迎えに来るよ」 博士もまだ研究で忙しそうだしね。と言い放った同時、彼女の身体が橋の内側へ傾いだ。支えを失って急激に落下する史桜。慌てて抱き留めれば、他の男が味わった唇は爛れたように赤く、いちめんに水を含んだ朱色を塗りたくったような妖しい照りが少年の目を抉った。 「怪我は」 「ありがとう、平気です」 史桜は茜の射す様な熱を帯びた瞳で力なく目尻を細めた。面伏せなかんばせにも朱が散じて、必死に羞恥に耐える様子があった。柔らかに歪む紅があの男の物になったのかと思うと頭の芯がかっと熱くなる。腰の抜けた女に触れれば、今しがた見舞われた悪夢が実態を以て現実になってしまう予感に苛まれた。 その瞳に当てられると、心、魂、脳裏、凡てが夜の海へ暴かれて、自分はひ弱い存在だと突きつけられる感覚があった。この唇が彼の名を呼ぶと、とめどない頽落、一筋の風のように目映い蜜が露わな儚さと共に女に宿る感覚もあった。ここに思い至ると、たまさか、深々とした慈しみが微かな兆しとなって仔獅子の前に現れた。 ――大好きですよ、コル。 あの愛情にひとたび何某かの意味を見い出してしまえば、無骨な世界へ身を埋める決意がなよなかな平和へ浴し、細やかな白浪に突き崩される。そして死を超えんとする覚悟さえ世にも幸福そうな朗らかな笑顔に蕩かされてしまうのだ。 それは仔獅子にとり、何よりも甘く、恐ろしい夢だった。
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'Omega'