君懸Record 1 王宮寓話編
-史桜-
第12話 Bite, Numb, Melt
-噛む、痺れる、融ける-
王城の外にシガイを発見した時、史桜の脳裏を最初に過ぎったのは「自分は王宮内に居てはいけない」ということだった。殊に彼女が居る事務室はモルス国王がおわす玉座の間と僅かな距離しか離れていない。親衛隊がすぐさま駆け付けられるように、という計らいが却って国王陛下を危険に晒していた。 状況を悟った女の行動にはまるで無駄がなかった。無線に耳を傾けてシガイが王宮内に侵入してないと確認する。事務室を出て疾くと部屋の鍵を掛ける。その鍵を封筒に入れ、真隣にある親衛隊控え室の扉下から滑り込ませる。最後は階段を駆け下り、正面受付へ伝言を残して城を抜け出す――凡てがつつがなく行われた。 その際、立て続けに鳴り響く緊急連絡へ泡食った受付嬢から「今出るのは危ないですよ」と警告されたが、返す言葉もなく、会釈するに留めた。かくて、そのまま外へ出ると早々と事態を察知した正門の警備隊員らが人型シガイと激しい戦闘を繰り広げていた。 とりわけ一等目立つは笠を被った剣客だった。かの出で立ちは荒野地域に出現するヨウジンボウだろうか。奴が右手を軽く振り上げるや否や、煌めくものが電光石火に散じ、隊員らの身体を貫いて穴を開けた。 ――嗚呼、まるであの研究所に帰って来たみたい。 肉片を伴う血飛沫が線状に飛び交えば、正門へ掲げた栄えあるルシス国旗へ幾筋もの染みを作った。史桜の脳裏で凍て付く銀世界が真っ赤に染まった。ウェルエタム地方の惨劇が、何処とも知れぬシガイの手で再現されようとしていた。 史桜は崩れ落ちる面々へ小走りで駆け付けようとした。だが女の気配を察知した病魔が連れ立って一斉にこちらを向いた。定めて剣客風のシガイは一撃必殺の近接攻撃を使う。ならば迂闊に今近づけば、女へ集った敵の攻撃で被害は更に深刻になろう。であるならば、負傷兵のために出来ることは一つ。 「こちらルシス王城正門前です。王都警備隊員らがシガイにより負傷しています。多量出血が懸念されるため至急、救護班を要請をします。繰り返します……」 持ち出した無線から連絡を入れると、すぐさま指令室の誰かが応答した。都内警邏に当たる警備隊には既に事件発生報告が伝わっているのだろう。 『こちら指令室。了解した、今すぐ手配する。しかし君は誰だね。このチャンネルは警備隊のものだが、無線は警護隊の物を使っているな。君は一体』 強制的に通信を遮断して、史桜は唐紅色のロングスカートをひらめかせた。取る物も取りあえず夜の城下町へ踏み出せば誘き寄せるようシガイの脇を摺り抜ける。病魔は女の姿を認めるや、隊員らには目も呉れず毒々しい腕を伸ばした。 「(そういえば私一人でシガイと対峙するのは今宵が初めてかもしれない)」 壁の向こう、帝国からオルティシエ、カエムから王都までのルシス領を旅していた頃は国王や事務長が守ってくれていた。王都に入ってからは一度も魔法障壁の外へ出たことがない。そのことに気付けば酷く心細さを覚えた。けれど本当の意味では己は独りではないような気もした。 史桜は懐のクラッチバックに触れて中身の確かさに嘆息した。入用あればと肌身離さず持ち歩いていたものだ。中にはモルス国王が作った護身用のマジックボトルが五つ入っていた。一つは何が出るか分からない極大魔法、残り四つは各属性と毒化が一つずつ。 何となればこれで身を守るようにと厳命されていたが、ほとんどが対人向けである。長い間魔法障壁に守られていた史桜にとり関所をすり抜けて入国する帝国密偵こそ最も警戒すべき相手だったからだ。よって現在対シガイ用として有効そうな武器はマキシマムマジック、この一つだけ。 対人向けは牽制として活用出来よう。シガイ向けは最後の最後だ。ありとある王都中の病魔を連れ出し、一網打尽にすべく塩梅を見て放るのが良いだろう。町中のシガイをことごとく引き受ける覚悟を決めた今、史桜は一瓶として無駄にはできなかった。 「とにかく、今は人の居ない場所に行かないと」 王都中に暗影が差していた。四方八方に這い寄る病魔の徴があって、背後のみならず、先回りした異形が前方からも左右からも襲い来る。車があれば良かったろうか、と思うも、この有り様では囲まれて終わるだけだ。なのに不思議と恐怖心は消えていた。 その心地を喩えるなら、刃を向けられ続けて麻痺してしまった病患――史桜は随分と長い間この感覚を味わって来た感覚があった。否、実際そうなのだろう。二十年もの間、女は目と鼻の先で断頭台を眺め続けてきた。だからこそ自分は既に処されて、この生は走馬灯が見せる幻なのだと過ぎる日もあった。 そんな時だ。単車の爆音を伴って、やおら聞き覚えのある声が耳裏を撫ぜた。 「無事だな。怪我はないか」 「コル? どうしてこちらに」 史桜の傍らには括ったような深い藍色の帳があった。陰々滅々とした篭絡が、救いの手を差し伸べる少年にも及ばんとしていた。だから彼から離れなければ、そう思って踵を返すのに、異界の川を隔てた先、身の程を知らぬ眼差しを以て幼い獅子は女を地獄から連れ出した。 「離れるな。死にたいなら別だが」 バイクの後部座席へ落ち着くと必然、コルへ縋り付く形となる。あの日抱き留めた背びらは馴れ初めた頃よりずっと逞しくなっていた。思春期の真っただ中、身体を形成する挟間に発展途上の肉感的な隆起をおぼめかせ、密度ある存在となりゆく彼はもはや男性と名乗るに足りた。 「飛ばすぞ。先に言っておくが、墜ちたら全身打撲で死ぬ」 「あはは。怖いこと言わないでください」 「こんな状況下で俺が冗談を言うとでも」 「……い、言いませんね」 「分かったら無駄に後ろで動くな」 遊山に赴くような軽口だけなら、よもや二人が命の危機に瀕しているなぞ思わないだろう。翻って、こんな風に王都を自由に彷徨い歩くはいつぶりかと天の川を仰いだ。橙から紫、紺へ変じる闇に星の粋が儚く瞬いていた。 無論史桜はルシスでの生活に不足を感じたことはない。しかしあの日、王家の丘へ迷い込んだ仔獅子は一般家庭の暖かな平凡さを纏って、女の追い求めて止まぬ郷愁を引き連れて来た。そして閉じ切ったインソムニアの天窓から、一粒一粒、水景色の星の欠片を落とし、硝子箱へ仕舞い込んだ色彩を豊かにしては、置き去りにした追慕を呼び覚すのだ。 その折だった。期せずして立ち昇る死の灰神楽が視界を横切った。二人がそれに気付いた時、史桜の身体は遥か高みに、艶な男の腕へ収まってアルア洋の潮風に吹かれていた。 「こんばんは史桜ちゃん。いや、オレよりずっと歳上のお姉さんなら史桜さんって呼ぶべきかな」 それは赤い男。人を食った笑みの奥へ、身に染みついた気品を覆い隠さんとする野性があった。 「……どなた、でしょうか」 「ああ、惜しい惜しい。誰じゃない。何、だよ」 男の纏う色香に目眩がした。瞳、斜交うは一瞬――熱を帯びた金のまなこへ毒されたと理解した刹那、史桜は唇を奪われていた。どちらともなく吸い寄せられた紅の彩りは忘れ去られた刻を埋めて、元いた場所へ還らんと、喪った恋人への恋慕を、戻れぬ故郷への慕情を、やわやかな薄皮を通じて差交わされた。 それを合図に無骨な手が史桜の身体を弄り始めた。何かを期待する掌は燃えるように熱く、触れたところから心の壁を雪解かす。決して力尽くではないのに、彼女を欲しいままにする男へ愛憎相半ばな感情が染み出した。 すぐ近くで研ぎ澄まされた剣戟の音が耳を通り抜けていった。孤軍奮闘にコルがシガイと戦っているようだ。ならば己も抵抗しなければ。そう過ぎるも振り払えない。どうしてだろう、傷付いた男をどこまでも慰めたい衝動に駆られていた。 「少年大変そうだな。オレたちで敵を倒すの手伝ってあげようか」 混濁した頭に不気味な言葉がこだました。じっとりとうだる身体は抑えられぬ心火ゆえか。はたまた、その先へ紡がれる言葉を危ぶみ恐怖するゆえか。鉤鼻気味の鼻先が細く白い首筋を伝い、野獣染みた八重歯で咬みつけば、あだな吐息に慄えが走った。 「ほらこれ。こんな便利なものを使わない手はない。そう思うよね」 「それ、は」 男が手にしていたのはあのマジックボトルだった。対シガイ用、モルスがズーの嘴を合わせて作り出した究極魔法だ。からきし魔力のない史桜が使っても相当威力があると聞く。だが、そんなものを放てばコルも巻き込まれる。 「あの少年はもうじき死ぬ。君が引き寄せたシガイに囲まれてさ。そんな痛い思いして死ぬくらいだったら君が優しく息の根止めてあげなよ」 赤髪の男は史桜の唇に自身のそれを密着させたまま喉を鳴らした。彼を説得したくば口付けを受け入れるしかない。そう悟った史桜が、意を決して反論試みた拍子、生温い舌端が歯茎を舐めた。その瞬間にたとしえようもない快感が脊髄を貫いた。痺れる。滾る。募る。 それでも彼女の心は男を跳ね除けようとした。 「あの少年が本当に……シガイに殺されると?」 素人目にも分かるほどコルは強い。そんなはずがない。潤みある宵の瞳が底なし闇に一段と輝いて、きと真正面から男を睥睨した。 「本来、魔法はルシス王家の方々が使うもの。魔力適性のない人間が投げたところで、さしたる効果なんて無いんじゃありませんか」 「へえ。それが本当なら筋が通らないな。だってさ、君こそ魔法使えないんじゃなかったっけ」 史桜は声を失った。知っているのだ。この男は、悉く。 「なのにどうして護身用として持たせるのかな。君の理屈が正しければ何の意味もない行為だ」 息を呑むと同時に歯列を割って深く舌が入り込んだ。彼の味に満たされると蘇った理性に蓋をされて甘い電撃が支配する。上口蓋、歯の裏と敏感な肉の層を絶えず刺激する男の尖が史桜を執拗に犯した。そして逃げ惑う彼女のそれを捉えて、乱暴に絡め取り、息ごと吸い上げると、隔たりを失った二人は臈長けし疼きに溶けていく。 激しい接吻の末、口端から零れた唾液を舐め取り、どちらのものか分からぬそれへ男の銀糸を足して再び女の中へ戻した。何度も。何度も。理性では彼を押し退けたいのに、何処か遠くで頭をもたげた本能が、襲撃者の情慾を飽きる迄喰らい尽くせと告げる。 不明瞭な意識に五感だけが際立って、悩ましく懇願する史桜の瞳に金色の世界が広がっていた。男女の交わりは愛なき愛への溺死を意味し、睦み合う男女は快美感に酔いしれる二人だけの世界へ堕ちていった。 「神様に嫌われるって厄介なものだよね。本当に可哀想だ。……オレも、君も」 答える余裕などない。男は下唇を甘噛むなり、腫れぼったい肉を左右に振った。次は上唇。また下。啄んではぞんざいに、荒らしてはいじらしく、互いの深い所から募る熱を口付けだけで満たさんとするように、敏感な部分へ見立てて舐ぶり合う。 女のそれは蜜だった。男のそれは濁りだった。二人を結ぶ透明な糸が荒い息に弛んだ。そうして少し顔が離れた隙、今度は顎を固定する親指が口内へ挿し込まれた。 「知ってる? 王都にシガイが入って来たのはさ――君のせいだよ」 次は人差し指。中指。節くれだった指が野放図に口腔を弄り回した。どういう意味、なんて問う間は与えられない。史桜は思考力を失った頭で甘ったるい響きに耳を傾けた。濡れた指。引き抜かれて、狂おしげな息遣い。乱暴に押さえ付けられた黒絲。満たされぬ渇望を嗜虐的な飢えで更に餓死させる行為は悪魔の所業だった。 「史桜!」 紗幕を通したような薄膜の向こうで仔獅子が目を覚ませと叫んでいた。過去に引き摺り落とされる、その前に手を掴めと。朱色の柄、奮う大太刀の、昇ったばかりの半月に煌めく画柄がありありと脳裏に映った。 すると史桜の中で何かが弾けた。そうだ、母鳥は巣立つ我が子を守らねばならぬ。ならば女にも仔獅子を未来へ繋ぐ役目がある。突如、蘇る瞳の冷たさがあった。赤い男はそれを認めると希望を握り潰すよう鼻で笑い飛ばした。 「オレさ、実は魔法に適性高いんじゃないかと思うんだよね。だからものは試し。どれだけ威力が出るかここで見てなよ」 胡乱な言葉を伴って無造作に壜が放られた。途端、史桜は恐怖を滲ませて全身の肌がぞわりと粟立った。 「コル、今すぐその場を離れて!」 ――だめ、死んでしまう。 「(……誰が?)」 ――コル・リオニス。 「(いいえダメ、それだけは絶対に)」 ――大切な少年を守りたいのね。 「(貴女なら出来るのでしょう?)」 ――ええ、ええ。でも、憶えていて。 「剣神は、それを望まない――」 コルが女を振り仰いだ。何かを読み取った少年は、刹那の間、周囲へ素早く視線を滑らせた。されど逃げ場はない。器に秘めし力は遮蔽物をも越えて、辺り一面、あるいは焼け野原、あるいは凍原、あるい稲妻走る死地へ変えてしまうだろう。 壜が煌めく。魔法が溢れる――最初は氷だった。少年を苛むべきそれは史桜の肺を凍らせ息を止めた。次は炎だった。全身を覆う業火は見る間に雪華を溶かして女の血管が湧き立った。かと思えば稲妻が眼孔を抉り、快楽と苦痛の狭間をさ迷った。すると重い深い暗がりに隠れ住む輩がそれらを美味しそうに貪る音がした。 手繰り込まれるような痛みの中で史桜は面を上げた。そこには土煙に紛れた少年が居た。否、かつて少年だったものが、在った。成長盛りの若き警護隊員は全身焼け爛れ、生前の姿も判別つかぬ有様で横臥していた。 呆然と語るに落ちた女を眺めつ、男は狂ったように腹を抱えた。 「本気で助けられるなんて思ってた? それは残念。じゃ、お姉さんに、ここで一つ質問です。なんでオレたちシガイは君に惹かれるんだと思う?」 彼方に位した残り香が不意に断ち切られた。黄金なる瞳には魂の支配者を厭わしく思う刃があって、刃口を赤く熱す怨嗟で女の喉元を掻っ切っては、白い糸杉の根元に滔々と生き血を注いだ。史桜の鮮血を吸い上げて紅に染まる幹はあたかも彼の墓標だった。 * 男の問いを最後に史桜は眠りから醒めた。そこはまんべんなく白亜に塗りたくられた部屋だった。白い壁、白いベッド、白い天井。その中にこれまた名残雪のような腰掛けがある。彼女は塗料を刷いた金属製の長椅子に座したまま、寝床へ突っ伏す形で寝入っていた。 「ここは……」 身を起こすと消毒薬の香りが鼻腔を突いた。様々な種類の液晶がこもごも病床を囲んでいる。心電図、最新型の脳断層画像、体内濃度に、白光りするシャウカステン台へ貼られた身体各部レントゲン写真。誰か怪我をしたのだろうか。悪夢特有の不快感を振り払うと、ふと、ここは都庁に併設された病室だと思い至った。 「(そっか、コルの魔法の影響を検査して)」 目立った外傷がなくとも究極魔法の影響をおいそれと甘く見積もることは出来ない。弟子の今後を危惧したクレイラスが老婆心を利かせて、帰還するなり強制検査を命じたのだ。その際、心配募る史桜も付き添いを申し出た旨を思い出した。 東の空は大分白んで中庭の緑地に曙光がひらめく時間だったが、彼らが王宮へ辿りついたのはつい数刻前のこと。あれから幾ばくも経っていまい。静心なく、ぐるりと視線を巡らせると、頃合い良くコルが着替えを済ませたところだった。 「起きたか」 「ごめんなさい。寝てしまったようです」 「気にするな。検査なんてまともに待つものじゃない」 ふとしも、小作りの顔がぎょっとした形相で此方を覗き込んだ。 「何があった」 釣られて鏡を見遣ると史桜の顔は潮醒むように血の気が失せていた。 「ああと……魘されていたようです。でも平気ですよ。なにより内容を覚えていません。それより、検査はどうでした」 「現状問題ない。後日他の結果が来るが、それも大したことないだろう」 「そうですか。安心しました」 王家の者が手ずから作った大魔法を生身に受ければ、どれほど才知溢れようと命はない。だのにコルは究極魔法に巻き込まれても平気だった。とは言えシガイが全滅したことから不発では有り得ず――友情のミサンガを持っていたのでは――うまく避けたのでは――そう口々に問う者らも、竟に答えを出せずじまいだった。 史桜は無意識に己の腹に触れた。何かを孕んだような塩梅で身体が疼く。あの男には唇以外許していないというのに、一夜の夢を結び、最後まで閨を共にした錯覚さえあった。そんなはずはない。そう願えど男は女の凡てを味わい、悦びを貪ったのだと言われれば妙に得心した。 折しもコルが女の手を止めた。掴まれた手首に鍛錬を欠かさぬ肉刺が感じれば、過去に落ちるな、と諫められた気がした。互いに拠り掛かる魂の束が漸く肌寄せる相手を見つけ、狂気の沙汰が及ぶところに辛うじて輪郭を保っていた。 「次は守る」 沈黙を破ったのは不死の炎を背負う獅子だった。目尻には不思議と悔恨の念が浮かんでいた。可笑しなことを零すものだ。十分過ぎるほど守られたというのに。彼女は若き警護隊員を隣に座らせて、 「ねえコル、今日だって守ってくれましたよ。心から感謝しています。貴方が居てくれなければ王都の被害は更に広がっていたでしょう」 女を透かして、暗き男を睨み据える水色。奮迅の果てに義憤へ燃ゆる頑なな目があった。絵筆に書いたような太い眉は額の上で寄り合わされ、滑らかな幼子だった面立ちに苦難の年輪を刻むも、目尻は長く切れ、堂々たる獅子の風格が備わり始めていた。 コルは懇ろな慰めにも首肯せず、されどその裡に募る怒りの正体をも察しられず、 「あの日救われた命だ。だからこの強さも、命も、お前への恩返しに使う」と断じた。それを境に史桜はずっと見て見ぬふりをして来た真実に直面した。 ――違う。彼の命は、私のものではない。 おろか、彼自身のものですら、ない。それは王宮警護隊としてルシス王城へ一歩踏み入れた時から逃れられぬ事実だった。さりとて史桜はそうと告げることはしなかった。今のコルにとって王家は敬うべき対象ではない。ならば信ずるに値せぬ者のため命を差し出せなど誰が諭せよう。 だから彼女はこう説くのだ。 「いいえ……。貴方の命は貴方のものですよ」 今は、今だけは許されるはずだ。自ら決意を下すその日まで、獅子の命は獅子のもので在り続けることが。それでいて少年の中には生来の義理堅さ、そして忠義の炎が燻っていた。彼らをよく知り、微かな火種に焔が灯れば、コルは躊躇いなく盾であることを誓うだろう。 史桜は立ち上がって屈み込むと、少年のまあるい頭を抱き寄せてかいなへ閉じ込めた。そのままこめかみへ頬寄せれば夏の熱気でやや汗ばんだ体温が直に肌へ伝わった。女の黒髪が短く切り落としたコルのそれと交わる。大きな身体が身動ぎする度、黒い光芒がたちまち蛇のように命を得て、天蓋を覆う銀の布のように彼のいかり肩へ撓垂れ落ちた。 「だから今回みたいな無茶はしないで。クレイラスの言うこと、ちゃんと聞いてくださいね」 コルは強い人だ。他人の助けなど要らぬほど。だとしても彼が助けを求めれば何度でも手を差し出そう。それが歳上らしく己のやるべきことだと史桜は肝に銘じた。すると少年は大義そうに溜め息を漏らした。 「また子供扱いか」 その声には珍しく消沈したきらいがある。 「ふふ、違います。これは恐らく、戦場へ赴く誰かを待つ者、そんな凡ての人間が抱く祈りです」 「……そうか。違うなら、良い」 向こう見ずなコル少年がこの思いを理解する日は来ないかもしれない。気を吐くようにひた走る彼は、誰の後にも続かず、先陣切って前へ前へと騎虎の勢いで突き進む。圧倒的な力で砕かれるより他に膝を付くことを知らぬ少年は待つ側では有り得なかった。 在りし日、幼少より仔獅子を育んだ環境は決して裕福ではないものの、彼を取り巻く変わり映えしない日常凡てが、故郷に生きた女の側に当たり前のように在った匂いだった。けれど既に少年という殻を破り青年へ羽化し始めた彼は、史桜の暮らす世界の遥か上を闊歩していた。 だからこそあの男が送った忠言はいかにも正しいように思えた。コル・リオニスという輝かしい光に想いを懸けるなら――神託に成り立つ国で少年が大義を為さんと望むなら――神々が剣の切っ先を向けし者を遠ざけよと。 赤い悪魔の奏でる小夜曲は朽ちた花香に満ちていた。それは神代の刻から続く奈落の喚び声だった。
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'Hunting for a Thrill'