君懸Record 1 王宮寓話編
-ウィスカム-

第13話 Consequences to be ...

 -彼らの結論-

 王都シガイ発生事件は永き平和を破る凶兆として、束の間、民草の関心を集めた。魔法障壁の意義とは何か、シガイはついに聖石を無効化する力を手に入れたのか、そんな議論が国中で差し交わされれば、しばしばウィスカムは噂の火消し役として王都中を奔走することを余儀なくされた。  ところが人々は現金なものだった。王子自ら元凶オルトロスを退治した噂がいずこより広まるや――王都での生活さえ保障されれば構わないと、壁の外を省みぬ市井は――掌を返したようにルシス王家を称賛し、当たり障りない生活へ戻っていった。  インソムニア北西地域の一角、王立大学付属技術革新センターを訪れたウィスカムは溜息交じりに片眼鏡を拭いた。緩慢な所作で骨張った鼻梁へ乗せ直せば優等生らしい面長の貌に微かな厳しさが備わる。鼻先はやや丸みがあって、ちらりと浮かぶ微笑みには王子の成長を喜ぶ明朗なさまが、生来の優美さに塩梅好く調和していた。  この研究センターは「革新」とは名ばかりのごくありふれた魔導研究所だった。世界を統べた古代帝国文明を手始めに、帝国製兵器の仕組みを紐解き、侵略へ対抗するべく作られた歴史がある。近々は魔導コアの研究へ力を注いでいるようだが、青年が長机へ寄り掛かると、長く放置されたか、緩んだネジの軋みが下半身へ伝わった。 「事態が早急に収束したの喜ばしいことだな。でもあれを見てしまっては神に抗う気も無くなるよ」  病魔を巡る擾乱の夜、見慣れぬクリスタルがレギス・ルシス・チェラムの眼前へ姿を現した。当初はこれこそシガイを拐かす元凶と定めて王子一行は追跡を始めたのだが、どういう訳か、聖石に似たそれは誘うように壁の外へ漂っていく。かくてレギスが綺羅石と共鳴すれば、それは六神を喚び降ろす力を秘めてチェラムへ仇為す敵を一掃した。  共に圧倒的な力を目の当たりにしたシドは何らの感興もなさそうに鼻を鳴らした。 「否定はしねえけどよ。あんなのがしょっちゅう出てきちゃ堪ったもんじゃねえぜ。神様はお空にいるのが一番ってな」 「その悪口も神々の耳に入っているんじゃないかと私はハラハラするよ」 「聞きたきゃ勝手に聞けってんだ。盗み聞きする方が悪りぃ」  人目憚らず啖呵を切る整備士は怖いもの知らずだ。無愛嬌な語り口が何処かの誰かへそっくりで、ウィスカムは悪戯心に口角を上げた。 「……ずっと思っていたんだが、シド、君の性格がリオニス少年へ移ったんじゃないか」 「んな訳あってたまるかってんだ。あいつの生意気は最初からだろ。俺との初対面の会話を聞かせてやりたいくれえだぞ」 「面白そうだ。是非とも聞かせて頂きたいね」  暖簾に腕押し、要らぬところで前向きな青年に、金髪男は顎髭の奥で唇をへの字に歪めた。 「面倒くせえ。やなこった」  あの日、元凶を追うレギス、ウィスカム、シド、クレイラスの辿り着いた場所はノスタル洞窟だった。ダスカ地方に位置する深い洞穴、近年病魔の巣窟となっているものの、かの地を経て浄化された間断ない水は、雷神が住まうフォッシオ洞窟と同じく大森林地帯を育む豊かな水源の一つである。  その最奥に澱むは海底から這い上がったオルトロス――彼は錆び付いた潮の香りに充ちて、イオス全土を支配せんと聖石奪取を目論んでいた。だが野心あれども頭脳は鈍く、眠りから覚めきらぬ蛸である。彼一人で為せた企みとは思えず、更には独自に魔法障壁を破る力を持っていたとも考え難く、事件の後には歪な謎だけが残った。 「確かにシド、君の言い分も一理ある。あの力は人の身には過ぎたものだ。神の加護があるからこそルシスは成り立つが、彼らに人生の全てを委ねることに私は些か畏れを覚え始めたよ」  ルシスの歴史を紐解けば六神がチェラム家へ救いの手を差し伸べたのはこれが初めてではない。しかし今回は異様に神々の対応が早かった。なればこそ国王へ警告を発した女使徒を問い詰めて魔物出現について何某か情報を得られると思った。けれどかの使徒が知るは魔物の目覚めのみ、病魔侵入の所以に思い当たる節なく調査は振り出しに戻った。  議論さえも堂々巡りの気配を感じたウィスカムは、話の接ぎ穂を探して、整備士の手元へ目線を落とした。先日陛下へお渡しした資料の改訂版だ。そこにはクルクスの丘を禁足地たらしめる装置に関して、ありとある分析結果が列挙されるも、青年の預り知らぬ項が幾らか追加されていた。 「新しい発見があったんだって?」 「おうよ。陛下のお陰で最新式の機材を借りることが出来たからな。色々分かって来たぜ。だからよ、まずは話題が通じるお前にと思ってな」 「私が一番手か。クレイラスだって十分その役目を果たせるだろうに」 「嘘吐け。戦うことしか興味なさそうじゃねえか」  相も変わらず辛辣な物言いだ。しかし面と向かって否定もし難い。アミティシア家の子息は、病魔との滾る戦いを欲して我先にとノスタル洞窟を独り訪れていたくらいなのだ。 「まあそうだな。今回は私が適任かもしれない。政治となれば彼の方が相応しいが」  ウィスカムは本題へ入る前に既知の中身を読み込んで軽く頭を整理した。 「――装置の中身は一見無傷だった。特定の回路が限界突破をしてしまった以外は。その周辺内壁には微かな痕跡が残っていた。魔導コアを使った時に現れる微力の魔導波だ。従ってクルクスの丘へ設置されていた装置は、ある時期を以て、人為的に破壊された可能性がある……か」 「おう。復習、ありがとよ」  結界装置に某かの手が加えられた――誰しも予想していたことだ。今更騒ぐ内容ではない。しかし事実は一層複雑だ。仮にこれが誰かの手を経て企てられた事故ならば、極めて巧妙な手口であり、単なる思惑以上の妄執が潜もう。苦虫を噛み潰した面持ちで沈思に耽るウィスカムを横目に、王都随一の整備士は野球帽をぞんざいに被り直した。 「装置の魔導コアは無傷だ。だから、あれそのものは壊れちゃいない。丘を外から眺めても森なんて見えやしねえだろ? 幻影装置としては生きてる証拠だ。けどエネルギーと魔力を結合させる制御部分が破損した。そうなっちゃこっちは手も足も出ねえんだ。ソルハイムの技術を使って一から作り直すようなもんだからな」  頭がイカれてるのにいくら他を直したってまともに動きようがねえ、と舌打ちする金髪男。なるほど、装置が帝国製だったなら修理は造作もない。ニフルハイム帝国は今なお現存する文明であり、当センターを始めとして、帝国技術に造詣ある人間はルシス国内にも居よう。  けれど幸か不幸か、あれは未解明の古代機械文明が作り出した装置だった。部品交換だけで済む箇所なら対応出来れど、頭脳にあたる部分は古代帝国技術の全容を知らなければ容易に弄れない。下手打てば未だ稼働中の幻影機能すら停止する危険性があった。 「ふむ。私は技術畑じゃないのでね。シド、君が話してくれたような詳しい理論はいまいち分からないが。要は、あの装置の仕組みを理解出来る知識人が居て、故意に我々を貶めようと企んでいるのか」 「……ま。そういうこった」  重ねて留意すべき点は、防音機能や映像投射に関する部分は無傷だったこと。そう、この奇妙な事態に陥ったのは結界を司る部分だけなのだ。ならば偶然のはずがない。事情を知る誰もがそれを頭のどこかで理解していた。だのに敵の仕業と断定するに足る物証がない。 「シド、今更な質問を良いか。ソルハイムの装置自身、魔導コアで動くだろう。なら、内部に魔導波が検出されるのは不思議なことじゃない。帝国による人為的破壊工作と陛下へ進言するには些か根拠が浅くなかったのか」 「ほんとに今更じゃねえかよ。そういうことは早く聞いとけ」  ウィスカムは謝罪の代わりに首を竦めた。だが新たな検証を始める前に留意点を再確認しておかねば先には進めない。青年は探るような目を向けた。すると口悪し中年男は悪役顔負けの笑みを頬の上へ貼り付けて、 「確かに、あれだけじゃ根拠は薄いな。でもよ、可能性を提示し――あくまで可能性だけどよ――陛下のお考えを動かした。そこに大きな価値があったとは思わねえかよ」  憶測はあくまで憶測だ。されど、その推論のおかげで最新機材を借りる許可が降りた。我々は憶測を確かなものにする機会を得られたのだから細かいことは忘れろ。そう言って、シドは雑多に積まれた紙の束から付箋だらけの一枚を引き抜いた。 「ほらよ。ちょっくらこれ、持ってろ。そんで、こいつをこうして……。よおし、こんなもんか」  どこに収めていたか、整備士は懐から小型の魔導機械を取り出した。それを稼働させるや否や、厳かに部屋の隅へ置いてウィスカムへ目配せをした。時を置かず小さな振動音が響く。部屋を見渡せば眼前に鎮座する機械から、心電図さながら、何かを刻む細長い紙片が吐き出された。 「おい、ほれ。さっき渡した紙と、その波形、比べてみろ」 「比較しろと言われても全く同じなんだが……」  大方、魔導コアの波形だろう。それを見せられたところで何を伝えたいのか意図を汲めない。今度こそ困り果てて問い返せば、シドは先程触った小型魔導機械を此方へ投げて寄こした。 「よく見ろ。親衛隊が鹵獲した帝国製の自動制御偵察機だ。で、今出てきた波形は、そいつが実際に出した魔導波。じゃ、最初にお前さんへ渡した紙は何だって? ……へっ。装置内の回路から検出された魔導波だぜ」  聞き捨てならない台詞を聞いた気がした。 「待ってくれ。魔導コアのエネルギー波形にそれぞれ違いがあるのか?」 「らしいな。俺も詳しくは知らねえ」  ウィスカムは食い入るように図を眺めた。光に透かして重ねてみる。二つ並べて見定めてみる。装置から検知した波形のほうが幾分波高小さくあるも、双方ほぼ同じ形状だ。定めて帝国兵器の痕跡を辿れるようになったのは素晴らしい進歩だと思った。我が国で言えば、誰がどこで何の魔法を使ったか現場を見ず目利きするようなものだ。  けれどもウィスカムは手放しで賞賛するには尚早だと思った。二つの形がよく似ているからと言って、装置の故障が帝国由来と断定するには決め手に欠ける。何故なら、ニフルハイムは古代帝国の機械文明を復興した国だ。丘の装置自身、ニフルハイム制の魔導コアと同じ波形を持つ可能性は否めない。臆面なく異説を唱えれば、シドは勝ち誇って鼻翼を膨らませた。 「そうくると思ったぜ。だが流石のお前もこれを見ちゃ反論できねえだろ。え?」  最終奥義のごとく差し出された資料名は「高機能防音ホログラム隔離装置」。予め検査したと思しき装置の検証結果だ。帝国波形と装置の波形、二つの違いは顕著だった。装置の波間は帝国波形とは似もつかぬ形をして、黄金比率へ沿った芸術的な美しさがある。  シド曰く、帝国がソルハイムと全く同じ魔導コアを使用することはない。なぜなら古代帝国の遺産を受け継げど、その時代時代で新たに改良して新式の物が作り出される。だから波形を目視できるようになった今、地層や年輪のように年代区別が可能らしい。 「クルクスの丘にあった装置の魔導コアは、回路に付着する残滓と別の形を示した。ニフルハイム製と古代帝国製の魔導波は明らかに別モンだ。しかも付着していた帝国魔導コアの波形は、近年使われているものと同じだ。お前ぇなら、この意味が分かるよな」  通常通りならば帝国仕様の魔導波が古代帝国の遺物から検出されるはずがない。だのに装置はそうと指し示した。これが意味することは限られる――いよいよ奴らが本腰入れて来るぞ。整備士の瞳はそう語っていた。  軍備強化に丘の事件、余所目には何らの関連もない二つの事柄が一本に依り合わされて男達の前へ露わな姿を現した。であるならば王都シガイ発生現象も単発の事件とは容易に肯んじ難い。ひとつ、ふたつ、みっつ……焦燥に足摺りする音が西つ方から迫っていた。 *  王宮への帰路、ウィスカムは淡い既視感を覚えた。萎びた小店舗が点在する古めかしい商店街。地域の小中学校から大分距離があって、大きな河原が時折水害を起こしては、裕福とは言い難い彼らの家計を圧迫する――そんな下町区域へ何用で訪れたのだったかと思考を巡らせれば、はたと歯車が噛み合った。 「リオニスの実家がこの辺りだったな」  若き警護隊員は活躍空しく謹慎処分中だと聞いた。命令違反と指摘されればそれまでだが、本当の理由は別のところにある気がした。如何せんあの少年は優秀すぎるのだ。純粋な羨望か、はたまた真っ直ぐ過ぎる苛烈な発言が上官の癪に障ったか、此度の処遇は上層部の私怨が多分に混じっていよう。  不意にウィスカムは漫ろな閃きに心が沸き立った。そうだ、あの二人に手料理を振舞おう。そうして一足飛びに近くの公衆電話へ駆け込めど、つと連絡先に惑うた。折悪しく史桜も謹慎中だ。親衛隊の事務室にはおるまい。けれども城の何処かには居るはずだと言伝を頼み舞い戻った。  王宮では職員らが未だ喫緊の後始末に追われて気忙しい靴音を響かせていた。一連の被害はよもや軽視して好い規模ではなかったが、右往左往する彼らを眺めると、少年があの時史桜を壁外へ連れ出さなければ都内の被害はこんなもので済まなかったろうと改めて思い知らされる。  男はエレベーターを通り過ぎて地下厨房へ続く階段を下った。半地下の窓には、昨夜、王都を濡らした雨の跡が残っていた。惰性のように降り込めた沛雨は黎明と共に明け染めて、日盛りの夏の陽がたまさか顔を出す。都庁裏にある雑木林に蝉が鳴き出せば、磨り硝子越しの萌黄と卯の花を腐す雨雲が夏の蜃気楼に揺らめいた。  かくて広々とした厨房に入ると食事の匂いが鼻腔を突いた。朝食時は既に逸して、注文の途絶えたシェフらが思い思いに賄い料理を嗜む。その中、面伏せに座す小柄な女がカウンター席に、ポケットに手を突っ込む凜々しい少年が大理石の壁へ凭れていた。 「やあ。史桜、リオニス。急に招集して済まなかった。折角の機会だ、二人に手料理を振る舞いたくてね」 「そんな。私こそご馳走して頂けるなんて光栄です」 「何、遠慮しないでくれ。君らは折角活躍したのに謹慎を食らっているだろう。何の慰労も無いのは不公平じゃないか」 「あはは、そうですね。コルは期待の星です」  ふとしも机の隅にあるものが目に付いた。去年の新聞記事だった。ヴァーサタイル・ベスティア博士が魔導兵生産基地所長に就任したことを伝える一面記事だ。政治に敏な人間なら知らぬ者はいないだろうが、ウィスカムが文面から読み取れるのは理性を礎に掘り込まれた狂気だけ。善政を敷く帝国が突如として対外政策へ方向転換したのも博士と宰相の差し金だろう。  ――君は戻りたいのか、史桜?  右手の彼方には無限に広がる大河、左の此方には白き岸辺。博士の写真へ魅入る彼女の魂は胡乱に漂う。男は知っていた。帝国紋章の入った紅い羽織を史桜が後生大事に仕舞い込んでいるのを。だけれども、眉根を下げて微笑む女は自若として構え、何らの他意もなさそうだった。  折に触れて白百合の女はゆるりと見返った。少年へ咲き匂う華奢な手を差し出して――おいで――宵に煌めくまなじりが朗らかに誘う。リオニス少年は幾ばくか身体を強張らせるも、女がより深く、よりやわやかに覗き込めば、何十年と隔てた刻を酔生夢死の地へ蕩かした。  少年は二人の大人を見比べた。さもありん、上機嫌に食材の確認をする男が居る。もう一方には手料理を心待ちに頬を綻ばせる女が居る。緩んだ笑顔を認めれば食い下がるに値しないと思ったか。仔獅子は小さな嘆息を零すなり隣へ腰掛けた。  二人の客人は野菜を刻む音を頼りに口を噤んだ。寄せては遠ざかる深森の瀬鳴りが何もかもを白く泡立てて岩を噛む。ややもして、ウィスカムは彼らを隔てる巨大な海溝を認めた。それは屋敷以前には存在しなかったものだった。だのに不思議と離れがたい甘やかさが枝垂れ落ちて、無言の会話を繰り広げる。  お前も謹慎を食らっているのか? はい、そうなんです。何故お前が? 本来なら私は勝手に城を出て良い立場ではありませんから。そんなものクソ喰らえだな。いいえ、私の処分は甘んじて受けるべきものですよ――沸騰する鍋の合間にひそやかな問答が続いた。否、それは少年による一方的な詰問だった。  あの日、史桜の振る舞いには一縷の迷いもなかった。それがウィスカムをぞっとさせた。日頃から覚悟をしていなければ出来ないことだ。しかし大人になるにつれ、誰しも失う真摯さが少年の中でまだ息衝いていた。世界の矛盾を許さぬその心は稀薄な影に女を縫い留めて、神々の意思を面と向かって紛糾した。  こもごも微睡むような静けさが滴った。薄く伸ばしたクレイン小麦生地を懇ろに切り分ける包丁とまな板の摩擦音。水を張った鍋の中、煮立つ酸素が玉となって浮き上がる音。一枚、一枚、四角い生地の茹で加減へ舌鼓を打つ音――最後の仕上げにソースを塗り終えると徐ろに史桜が鼻をひくつかせた。 「ううん、良い香り。何を作っているのですか」 「ラザニアだよ。生地は作ってあったんだが、焼き上がるまで時間が掛かる。だから先に前菜は如何かな」  王子のために用意したラザニア生地だが、功労者をねぎらう為なら許してくれよう。そう笑って、ガーディナから仕入れたオルティシエ産の魚をお披露目した。すると地名にいち早く反応するは史桜だった。往時あの地で過ごした彼女にとって懐かしい味なのだろう。一口味わった途端、白いかんばせが花やいだ。 「ああ、とても美味しいです。現地で食べたものよりずっと」 「そうだな。こんなものを食える日が来るとは思わなかった」  拘り抜いた一品はリオニス少年の感嘆をも攫った。小生意気な子供の度肝を抜いたことに満足して、幾層にも重ねた生地を竈へ放む。後は焼き上がりを待つだけだ。 「ねえコル、このお魚食べたことありますか」 「いいや。そいつはルシスには生息していない」 「そうでしたか。では……はいどうぞ」  魚肉を刺した三つ叉フォークを掲げる女。先には少年の口元。屈託ない微笑みに邪念などない。あるのは只、少年の成長を喜ぶ慈しみだった。 「……念のため聞く。それは何だ」 「ヒュメ、という料理です。魚の煮物だそうですよ」 「違う。そうじゃない」  鋼の精神力を持つ少年がたちまち挙措を失った。冗談だろう、とその目が物語っていた。無論彼の分はきちんと別皿にあるのだが、屋敷で王女と暮らした時分、分け合う癖が付いたか。史桜は惜しげもなく己の取り分を差し出した。その流れがあまりに自然体なので青年もさやかに判断付かなかった。 「おいウィスカム」 「良いじゃないか。そのまま食べなさい」  助け船を求められるも、オーブン内部の温度を確かめつ少年を一蹴した。ご婦人が手ずから食べさせてくれると言うのに断る理由などなかろう。重ね重ね贅沢な悩みだ、とまるでクレイラス染みた考えに片目を瞑った。  ――それくらい腹を括れ。  いきおい、崖から突き落とす男。観念したリオニス少年は心定めて三つ又へ食らい付いた。ものものしい固苦しさがある。けれど脂乗った魚の出汁が舌上へまろやかに広がれば、みるみる瞠目した。美味いな。端的な一言に込められた絶賛はウィスカムの心を躍らせる。  それから、もう一つ。これも、あれも、と差し出される魚肉。育ち盛りの少年ならば二皿、三皿なぞ容易く平らげようが、史桜の取り分がなくなってしまう。それでもなお女は至れり尽くせりに差し出すのだ。無関心を装っていたウィスカムは、彼女の皿が空になった頃、耐えようにも耐えられず腹を抱えた。 「ははは。光栄だな、リオニス。私も子供の頃史桜に食べさせて貰ったことがあるよ。あれは何年前だったか……懐かしいものだ」 「笑うな」 「おや。すまない、今の発言はお気に召さなかったかな。だが、史桜が君を子供扱いしてるとは、私は一言も言っていないよ」  いとけない子供へ餌付けする母鳥か。一人の男性へ向けた愛情表現か。蓋しその心がいずれの意味であろうと少年を狼狽させるに足りよう。或る男の口付けを受け入れた紅には、何故か手付かずの清らかさがあって、久しく忘れていた羨望がウィスカムの心へ忍び寄った。 「次は君の取り分を、同じように彼女へ食べさせてあげれば良いだろう?」  小刻みな笑みを伴って焼き立て料理を飾り付ければ、少年は絶句した。  空を映し込む眸子は磨き抜かれたまったき宝石だった。されど、これほど澄み切った灯が人の世に存在するはずがない。綾を織る煌めきは獅子の瞳の中だけに在って、時を移ろう日輪へ、あるいは玻璃の欠片を、あるいは湖面の飛沫に、明滅する金環が堅い輪郭を描いた。  少年は薄暮迫る世界で陽の光を背負っていた。漆を塗り潰したような闇が全てを覆っても、たった一人、希望を失わぬ輝ける恒星だった。だが粒立った光の落とす影は鋳込んだように濃かった。複雑に折り畳まれた墨の意匠へかつて人であったものの微かな温もりを遺すそれは、史桜の容をしていた。

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参考 FFXV OST Volume 2/2 Disc1
'What's the Plan?'

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