君懸Record 2 世界大戦編
-シド-
第15話 Lady Duke's Melancholy
-公女の愁い-
宵ごとの忙しなさがインソムニアの酒場に宿る頃合いだった。一年〈ひととせ〉が巡りしルシスにおいて、有るか無きかの兆しは遠いところから来る不穏の剣に隠される。だのに一度は血濡れた国旗が、今この時を以て再び雄々しくはためかんとする様をシドは物憂げに眺めた。 あれは史桜が王都へ来たばかりの頃だったか――あるいは帝国密偵の数も少なく、彼女が比較的自由の身であった頃かもしれない――彼女と何度かこの古酒場を訪れたことがあった。当時のシドは働き盛り、腕一本でどんな機械でも直すと王家に称賛されて順風満帆な人生へ舵を切り始めた青春時代の話だ。 あの日、三十路にも届かぬ若かりし整備士はルシス人らしからぬ面立ちの女と出会った。その女は度々、王城のガレージを訪れては、ルシス製の機械を物珍しく眺め歩いて幼子のように質問の雨を降らせた。その眼差しは真新しい技術に喜ぶ姿ではなく、古き良き文化を懐かしむ色を含んで、思わず深い関心を抱いたのを憶えている。 とは言え史桜は別段、無類の機械好きでもないようで、女の持つ妙な懐古主義は、人々の会話、洋服、慣習、家電と言った意識が及ぶところ凡てへ波及していった。そうして時々に突飛な発明案を零すのだが、彼女にとりそれらは何らの特別さはなく、既に見知ったものを口にした、そんな塩梅だった。 都庁内に看板を出す古酒場でシドが思い出へ耽っていると、折節、一人の親衛隊員が音もなく廊下を横切った。覆面尽くめの親衛隊なぞ見分けの付きようもないはずなのに、かの横顔へ何故か顔見知りの気配を覚える。時同じく、相手の鳶色の瞳が金髪男を捉えた。と思いきやすぐさま視線は外されて素知らぬ振りをされてしまった。 その振る舞いで男の正体へ行き当たったシドは「親衛隊の事務長じゃねえか。なんで無視すんだ」と思わず呼び留めた。たちまち口元を覆う布の下から呻き声が漏れて「声が大きい」と小声で返れば、なぜ隊服を、と立て続けに尋ねるシド。 「事務の仕事ほっぽいて何してやがる。いよいよ史桜に怪しまれてんぞ」 「分かった。分かったから。その肩書で俺を呼ばないでくれ。でも助かった、丁度ソフィアのおっさんを探してたんだ」 男は早々に隠居を決め込んで引退した身である。だからこそ事務員の立場に甘んじているはずだ。されど隊服を身に纏い何処かへ消えるという噂が絶えず、引退は帝国を謀るための演出だろうと仄暗い噂もあった。常のシドなら思い切り笑い飛ばしていたろうが、こうして隠密活動をする姿を認めるにつけあながち嘘でもないのだと思い為した。 「あー。そういえば陛下が魔導兵生産基地の調査へ直接送り込んだ部隊があるってウィスカムの奴が言ってたのを思い出したぜ。……おい、氷神の雪はどうだったよ。二十年前と相変わらず寒かったか?」 「さあね。俺ももう歳です。二十年前のことすら覚えてないですよ」 かつて史桜を研究所から助け出した人物であること。戦前の多忙な時期に何故か長期休暇を取っていること。様々な情報が入った時宜など様々思い合わせれば、サンギスこそ案内役として抜擢されたと見るのが道理だろう。しかし飄々とした男は返事の代わりに覆面を取り払ってシドの酒を一気に飲み干した。 整備士はささくれ立った気持ちで灰皿へ吸い殻を押し付けると「探してたって何の用だよ。どうせ碌な用事じゃねえんだろ」と鼻息荒く問い詰めた。 「レガリアの件です。あれを整備し直せよとのご命令が出ています」 「先日整備したばっかだぞ。一体ェ誰だ、そんな碌でもねえ命令出しやがったのは」 「酷い言い草ですね。勿論、陛下ですよ。完璧な状態を保っておくようにと厳命ですので宜しくお願い致します。……分かるでしょ? あれの扱いはソフィアのおっさんにしか頼めないんですよ」 物は言い様である。自尊心を擽る台詞を事も無げに繰る事務長へしかと肯うでもなく、 「やり直したところで今とさして変わらねえと思うがな」と渋々了承した。 一介の整備士が根掘り葉掘り尋ねたところで彼らに理由を教える心積もりはなかろう。他人の為に動くなぞ面倒この上ないが、レガリアの為なら一肌脱ぐのも吝かではないと思えた。どうせならもう少し改造してやろうか、なんて考えつ腕を組んだ折、ふとしも脳裏に或る会話が蘇った。酒場を訪れる少し前のことだ。ガレージの傍らに、陛下と宰相の小声で口論する姿がシドの視界へ飛び込んで来たのだ。 「――時間がない。兵力差が開く前に早期決戦するしかあるまいな」 柱の陰でそう告げたのは陛下だったと思う。すると直ちに反駁するは宰相だった。 「いや、モルス、ここは慎重になるべきだ。ひとたび火蓋が切られれば間違いなく世界大戦規模になる。もう少し相手の出方を見るべきだ」 「我が友よ。まさか帝国が内政のために兵力強化している、とでも言うのではなかろうな。魔導兵研究の目的は明白だ。ルシス王国へ侵略するため。ならば一刻も無駄に出来ない。実践向けに完成する前に先んじて楔を打たねば、物量作戦に持ち込まれては勝ち目がなかろう」 「だからと言ってこちらから先に仕掛けるのか? 勝つ保証もない。魔導兵に関しても未知。それで負ければ、今以上に領土が侵略され、益々不利な状況へ追い込まれるぞ」 「……黙っていても領土は侵されよう。壁の外が落とされれば次は王都だ」 気安い関係であるだけ口論にも熱が籠るらしい。国を統べる二人の老爺を黙って伺っていた整備士だったが、誰の所在も分からぬ車庫で白昼堂々とする話ではあるまい。仲裁の意を込めて咳払いを一つ落とした。すると激論を交わす傍ら国王は平時の語り口へ戻ってこちらへ笑い掛けた――。 国王と宰相の口論。国王元側近の暗躍。王家の車であるレガリア再整備。無関係に見える物事を繋げて凡てへ最もらしい意義を探しだそうとするのは人間の悪い癖だ。そうは思えど、シドにはこれらが一切合切意味のない事柄とは思えなかった。 指折り数えて今や今やと果たし状を叩きつけんとするのは帝国だった。さもありなんそれに応えるのはルシスである。しかし、まなじりを裂いて始めるような感情的な戦いでないだけ余計に質が悪かろう。胸糞悪さを伴って無意識に選別された記憶から五感が戻ればサンギスの姿はついぞ失せていた。 相変わらず逃げ足の速い男である。しかし彼が動くこと、すなわち史桜に関わる物事が裏で動くことに等しい。彼女がルシスを訪れて二十余年、ルシス攻略の足掛かりとなるかもしれない「神殺し」の奪還を試みる帝国から陰ながらその身の安全を守って来たのは、元親衛隊その人だったのだから。 * 冬の闇を駆け抜ける空風がつらく肌を吹けば、雪催いの空は薄鼠色をした分厚い雲に覆われて上弦の夕月夜を遮った。明けても暮れても昔ながらの風采を呈する酒場は敏腕整備士が未だ見習いと呼ばれた時代より憩い場で在り続けていた。されど今宵は馴染みの店であってもシドの心を落ちかせることは出来なかった。 黄昏落ちて久しく、王都は仕事帰りの民で賑わう。シドは馴染の店を出て群衆の流れへ身を投じた。が、直ぐさま王宮へと踵を返した。レガリアの整備は明日やれば良い――そう思うも、何か重大な事柄が起こる気配があって後回しにするのは気が引けたのだ。 まもなく帝国との戦争が始まる。その一方で、先の大戦から概ね百二十余年の歳月が過ぎて、かくも続いた安寧は酔い潰れる夜に浪費されゆく。眠らぬ街では今や壁の外を顧みる者なぞおらず、不自由な空の下、帝国の脅威を夢物語として語り継ぎながら迫る危険に耳を塞ぐしかあるまいと思われた。 ところが世界には既に細かいヒビがいちめんに入っていた。閾値を超えた狂気は魂なき兵士を作り出して二国間に横たわる檻を破壊せしめよう。地獄へ導く帝国の目的は、聖石奪取、あるいは時の止まった女の奪還だと噂されるも、不思議なことがあるものだ。あれほど執拗に王家の丘へ侵入せんとした帝国密偵がここ一年ぱたりと止んだのだ。 それは奇しくも史桜が王宮へ移り住んだ時機と重なって様々な憶測を呼び始めた。口さがない噂話は整備士として王宮を出入りする男の耳へ否が応にも入って、シドの貴族嫌いは加速する一方である。それでも若獅子を端緒に彼女を取り巻く環境が、少しずつ、少しずつ変化する光景に一縷の望みを抱く己が居た。 足取り重く王城ガレージへ向かう途半ばのこと、ねじけた整備士は王家所有駐車場の裏口玄関を優雅にそぞろ歩く女性を認めた。王子の幼馴染みである公爵令嬢だ。何かを探す風に周囲を見回している。暫く眺めて居ると彼女に付き従うよう屈強な男が隣に現れた。二人は言葉少なに見つめ合ったかと思えば互い互いに首を傾げた。 「クレイラスにアウライア公爵嬢。何してんだ、お二人さんよ」 「まあソフィア様」 最初に口を開いたのはアウライア公爵令嬢だった。 「丁度良いところにいらっしゃってくださったわ。史桜をご存じない?」 「いいや、見てねえな」 相手が上流貴族だと知っても無愛想に首を振るシド。 「ではレギスの居場所は如何ですか」 今度は無言で肩を竦めた。クレイラスが不敬だぞと肘で小突くも、壮年男に態度を改める気配はない。当のご令嬢は整備士の無礼も意に介さず淑女然として重い息の塊を吐き出した。 「困りましたわね。大臣がお呼びなのよ。何の件かは知りませんけど……。城中探したのにどうして見つからないのかしら」 「そこまで見つからねえってことは二人で何処かへしけこんでるんじゃねえか」 整備士が年甲斐もなく意気地の悪い笑みを浮かべるや、すかさず王の盾が「それはないだろう」と尊大に断言した。かくて武家貴族はこう宣うのだ。 「レギスは我が心の友だ。だが現実問題、俺のほうが魅力的だ。レギスと俺なら、史桜は俺を選ぶだろう」 「あらそう」 アウライアが白々しく大男を一瞥した。その瞳はシドの裡を一分の隙間なく代弁していた。 「史桜にとっては貴方も王子も、弟みたいなものじゃないかしら」 「こんなに魅力的な男が側に居るのにか?」 「……お好きになさって」 令嬢然り、突っ込む気が失せた金髪整備士は二人を置いて足を動かした。 「おい。お前ら、王女の部屋は探したのか」 「メモリア様の? いいえ、だってそんなところにどうして……ああ、でもそうね、可能性はありますわよね」 屋敷で暮らしていた頃、史桜は王女の側付きだった。否、そんな生温い関係ではない。乳母のような、姉のような、それでいて最も親しい友人であった。そしてレギスは――王女が正式にルシス姓を継いでないと言っても――メモリアの実兄である事実は変わらない。大きな共通点である王女の私室に二人が同時に居てもおかしいことはないだろう。 足早に追い募る二人を後目に整備士は疾く疾くとエレベーターへ乗り込み王女の私室へ向かった。ルシス王城の上層階、一際豪奢な扉を彼が見落とすことはなかった。王女の私室へ辿り着くと公爵令嬢が固唾を呑んでノックをした。仮にも王族の私室だ、用事がなければ来る場所ではない。控えめに、恭しくそれは為された。 すると中で蠢く音があった。だのにこれと言った反応がない。もう一度令嬢が叩く。今度は強めに。その刹那、小さな悲鳴が微かに響いた。 「今の叫びは何だ?」 王女の部屋で何かが起きている――気色ばんだクレイラスが躊躇なく扉を蹴破ると、あろうことか鍵は掛かっておらず、それは容易く訪問者を招き入れた。かくして一同が相まみえたのは白木作りのテーブル上でレギス王子が華奢な女へ力任せに覆い被さる姿だった。 「おお……なんということだ。シドの言う通りだったようだ。我が友、お前達がそんな関係だったとはつゆ知らず、良いところを邪魔してしまったな。まさか史桜がそちらを選ぶとは思いも寄らなんだ」 「い、いや、待てクレイラス。誤解を招く言い方はやめてくれ。違うんだよ、アウライア、頼むからそなたも獣〈けだもの〉を見るような目をしないでくれないか」 我が目を疑う面々へ弁明しながら、女へ手を差し伸べて非礼を詫びると言う器用さを見せるのは王子だった。 「彼女へ迫っていたら勢い余って足を滑らせてな。……史桜、すまなかった、怪我はないか」 「はい、問題ありません」 それにすかさず反応するはクレイラスだった。 「やっぱりそうなんじゃないか。見直したぞ、レギス、お前も男だな」 彼は声に明るさを滲ませて親友を褒めそやした。 「だから違う! 迫るとはそういう意味ではない。まったく、史桜も笑ってないで何とか弁解してくれ」 聞けば部屋の主たるメモリアは露天へ湯浴みに出ているらしい。片や史桜は慌てふためく王子をにこやかに傍観していた。大方、説明が面倒になったのだろう。普段は聞き分け良い女を装うも、厄介事の香りがすると何処ともなく怠惰癖が顔を出すのだ。 呆れ返って帰路に着こうとする整備士を押し留めながら、アウライア公女は「史桜も笑いすぎですわよ。そろそろお腹を抱えるのはよして、分かるように説明してちょうだい」と歳上の友人をやんわり窘めた。 「あはは、ごめんなさい。ええ、アウライア、貴女が望むならお答えしましょう。王子にオルティシエを案内してくれと懇願されていたの」 「オルティシエ? どういうことなの?」 仮に陛下の許可を得たとして、自分との旅は危険だと断る史桜。それでも案内役が必要だからと食い下がらぬレギス。二人のやりとりが白熱した結果、王子が本の山に足を滑らせて先のような体勢に陥ったらしい。案内を求められた理由は存じません。と言い添え再び微笑む女へ、公爵令嬢は柳眉を顰めた。 「不思議ね、どうして彼女が危険を冒してまでアコルドを案内する必要があるのかしら。だって属国と言えど帝国領じゃない。シガイだって出るわ。史桜が夏に危険な目に遭ったのを覚えていらっしゃらないの? ねえ、レギス、クレイラス、貴方達何を企んでいるのか教えてくださらない」 洗い浚い白状しなさい、と公爵令嬢の厳しい追及が始まった。その傍らで、麗しき幼馴染みを巻き込まぬよう誤魔化さんとする王子と、歯に衣着せぬ物言いで打ち明けんと主張する王の盾。小声で議論を差し交わす二人はガレージで覗き見た陛下と宰相に生き写しだ。しかし彼らが包み隠さずつまびらかにするより前に、シドは凡てに合点が行った。 「おい……。お前まさかアコルドの反帝国組織に接触しようってんじゃねえだろうな。しかも王子直々に赴くって話か?」 ルシス以南のアルア洋を渡った先、常夏の海国アコルドは百年以上前にルシスの同盟国であった。だが戦争に負けて以来、帝国の支配下に置かれて目下ルシスの敵国だった。それが近々、帝国支配へ抵抗する反政府組織が活発になって手に負えぬ状態らしいとの情報はシドも知っていた。 ――奴らならもしかルシスへ歩調を合わせて結束する可能性は高ェわな。 「陛下が俺にレガリア再整備を頼んで来たのもそういうことか。ありゃあ王家に献上した車だ。王子様自ら都を出て遠出するなら必須だもんな。え? どうなんだよレギス、違うなら違うって言いやがれ」 シドが語気を強めると、王子は腰に手を当てて被りを振った。 「ああまったく。普段は石頭なのに、こういう時だけ目敏いのだから参るな。シド、そうだ、そなたの指摘通りだよ。今の帝国はかつてないほど脅威だ。我がルシス国だけでは心許ないだろう? だからアコルドの地下組織と同盟を組みたい……いいや、必ず協力を取り付けなければならないんだ。ゆえに私自ら反帝国組織へ接触しに行く。ルシスは本気だと証明するために」 百二十年前に帝国が東へ攻め入った第零次世界大戦――片やアコルドが敗北して属国となり、片やルシスは初めて大規模な魔法障壁を張ることで聖石の安置する王都を守り抜いた。以来、かの国とは百年近くも正式な国交が途絶えている。 そんな国と最悪の状況下で同盟関係を復活させようと言うのだ。なるほど、王子ほどの重要人物が行かねば反帝国組織と言えど肯んじ難いだろう。かつての大戦において、ルシスはアコルドを生け贄に捧げ、一人だけ尻尾を巻いて逃げ帰ったようなものなのだから。 「でもアコルド反政府がかつてのルシスの行いを許していなかったら? 貴方だって殺されるかもしれないでしょう。そんな危険なことしてはいけないわ。クレイラスも何とかレギスを説得してちょうだい」 真相を知った今、令嬢は狼狽して怯えの皺を全身に纏っていた。それでも王子と盾の面差しは頑なだった。それは既に意志を固めた者の貌だった。 「すまない。どうか行かせてくれ、アウライア。既に父上の許可も頂いているのだ。我々はルシス軍進軍と共に出立する手筈だ」 王子が必死に宥め透かす最中、黙して語らぬ歳上の女へ整備士はなんとなしに目を奪われた。頬の上に睫毛の繊細な影が落ちて亡霊染みた儚さが備わる。透いた鼻筋は繊月に揺らめく桜のよう。夜雪のごとき白い手が令嬢の肩へ添えられれば、歳上らしい訓戒めいた言葉を零すでもなく、貴婦人の苦悩へ只々心を寄せていた。 公女は面伏せ気味につと見返り、揺れる瞳で女を見澄ました。王家の人間には使命がある――その為に時として理解を超えた意志決定を行うが、ルシスを思ってのことだ――側に居る者こそ受け止めてやらねば彼らは孤独のままだと。シドには、刻の進まぬ女がそう告げていた気がした。 公女もその意を汲んだか、ややもしてアウライアは厳かに頷いた。憂色は消えておらねど良き友人達を孤立させまいと強い決意があった。 「分かりましたわ。もう皆さまのことを止めません。今し方聞いたことも口外いたしませんとお約束いたします。そもそも……戦時中の決め事なれば、わたくしには止められないことですもの」 公女はしおらしく項垂れて部屋を出ていった。足元には澄んだ雫が一滴、大理石を濡らしていた。後には邪念ない清らかさだけが残されて、罪悪感についぞ口を噤む一同。純真な女性を傷付けたと言う呵責は振り払いようがなけれど、乙女の心を癒すには史桜の手腕へ任せるしかあるまいと誰もが理解していた。 レギスは唇を噛み締め、骨身に堪えた様子で声を絞り出した。 「私とて危険は承知の上だ。だがクリスタルを守る、その使命には代えられない……。史桜、私が出発した後、彼女のことを頼んで良いか」 「はい、もちろんですよ。貴方の友人であるように、アウライアは私の大切な友人でもありますから」 「妹といい、いつもすまないな」 暁の女神の名を冠すアウライア――夜空に浮き上がる美しさは闇に溶けるチェラム家を照らしつ、影ながら王家を支え続ける公爵家の精神そのものだった。人徳、生い立ち、器量。彼女には史桜とは比べようもない完璧さがあった。しかし汚しても汚れぬ絶対的な清らかさを持つのがアウライア公女なら、史桜には、さながら黒き布を更なる黒へ染めることが出来ぬよう、汚れを汚れと思わせぬ奇妙な玲瓏さがあるようにシドには思えた。だからこそ二人の女は反目することなく、輪舞する花弁のように手を携えて幼い王女の成長を見守っていけるのかもしれない。 「で。旅のメンバーはもう決まってんのか?」 シドが殺風景な声音で口を差し挟めば王子は気を取り直して車内を埋める人数を指折り数えた。 「護衛にクレイラスとウィスカムを連れていくよ。これで三人だから、あと一人乗れる。残りは検討中だ」 「なるほどな。なら俺が行ってやるよ。お前らだけにあの車は任せらんねえからな。愛車を壊されたらことだぜ」 「本当か! そなたが来てくれるなら心強い。だがアウライアが心配していた通り、危険な旅になるぞ。我々は最前線へ赴くことになるのだからな。ご家族にはなんて話すんだ?」 「問題ない、何も言わなくても倅は理解する。史桜を連れていくよかずっとマシだろ。それとも……事務長に頼むってか? さっきそこで会ったが、あいつも水都には詳しいんだろ」 「はは、彼か。実はサンギスにはとっくに断られていてね。取り付く島もなかったよ」 王子は物惜しんでやれやれと被りを振った。 「帝国領に詳しい人間は貴重なんだが……彼にも役目があるのなら仕方あるまいさ。まあ前線への出兵が決まっているそうだから、運が良ければあちらで会えるだろう」 公爵令嬢を追って扉に手を掛けた女が不意に微かな反応を示した。爛々と輝いた瞳。その目が「何故、彼が出兵を」と無言の裡に問うていた。 「あいつに役目だ? どいつもこいつも駆り出されてるって訳か。……だからと言って史桜を案内役に据えるのは無いだろが、このぼんぼんめ」 「相変わらずシドは手厳しいな。悪かったよ、焦って頭に血が上っていたと認める」 過ちを口汚く罵られてもレギスは憤ることなく、悵然と肩を落とした。 「とは言え我々は直ちに戦争を始める訳ではない。旅支度をする時間は十分にあろう。そうだったな、クレイラス?」 「ああ。陛下は一ヵ月様子を見ると仰っていた。宰相の説得で今すぐ行動を起こすには時期尚早だと判断されたようだ」 魔法障壁による平和が続いたこの時代、誰もが戦争を知らず、王都民にとっては凡てが対岸の火事に過ぎなかった。他人事であるが故に、戦争の火蓋が切って落とされたとしても、魔法障壁が消えぬ限り身も心も軽々とした様子で暮らすのだろうとシドには思われた。 「遅くても決戦は二月、それ以上は待てぬ。陛下はそう仰られた。だから我が軍はひと月後の開戦を見据えて更なる訓練を積む。その間に相手の出方を観察することは可能だろう。……否、我が国の取れる手はそれしかないのだ。どのみち開戦を免れないのなら最大限に力を貯めておく必要がある」 あの異端児も鍛えておかねばな。と王の盾は若き獅子を脳裏に浮かべて口角を上げた。その台詞を最後まで聞いたか分からぬうちに史桜の立ち去る音がした。彼女は物事を静かに受け入れていた。今この時必要な事柄を嚙み分けて、彼らの決意を鈍らせまいと。だがその身に付き纏う斜影は誰より昏く澱んでいた。 深い森に囚われた彼女の存在こそ外界から断絶された王都民の姿を代弁するようだとシドは思いを馳せた。なればこそ長年、女の自由を渇望していたが、それは慈悲から願う心ではなかった。若い頃から眺めてきた友人の命が諾々と消耗されることにただ我慢がならなかったのだ。 人の住まなくなった屋敷は黴の匂いに満ち満ちているはずなのに、どうしてかあの地が今もなお綺麗なままであると思われた。屋敷の脇に流れる小川のせせらぎ、閑雅な川縁から湖畔へ誘う小径は逆巻く緑地に囲まれて、いかにも幸せそうな世界を築いている。されど底気味悪い森は今や帝国が施す策略の代名詞だった。 それは神殺した女――最も罪深き者として魔法障壁に囚われた史桜の生き様そのものだった。
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'Veiled in Black (Insomnia Arrangement)'