君懸Record 2 世界大戦編
-コル-

第16話 The Beginning of Hell

 -赴くは地獄-

 いよいよ世界大戦の戦端が切って落とされようとしていた。魔法障壁の下を軍用車が規律正しく駆け抜け、十数台に連なる隊列が雪代に濡れた真夜中の王都を席巻した。しかし淡々とした行進は人気ない時刻を見計らって、秘密裏に敢行された。  軍隊の殿。車内前方に座したコルは同乗者の際限なき語らいを聞き流しつつ軍服へ首を埋めた。班には耳目を集める優れた兵士はいない。実戦経験と言えばさしずめ厄介な野獣を狩る程度、血腥い戦争に対する心構えなどなく、唯一の現実は生き抜くために日々課される厳しい訓練だけだ。  それでも望郷の念はあらゆる兵士へ等しく訪れ、誰も彼もが遠ざかる曙光の街を想って暫しの別れを告げていた。やがて夜が明けると若獅子は目覚めたばかりのイオスを車窓越しに見霽かした。聖石の守護なき空は抜けるように高く、遥かな昔、雲間を仰いでは自由への渇望を抱いた人々の映し絵のようでもある。 「俺達さ、生きて帰れるのかな」  期せずして誰かが暗鬱な繰り言を漏らした。 「今から行くところって最前線だろ。大丈夫なのか?」  垂れ込めた重い空気をすかさず別の兵士が笑いをしおに打ち切った。 「心配するなよ。後からすぐ本隊が来る。親衛隊も何人か付いてるし、簡単な任務に決まってる」  コルの配属先は先遣隊を兼ねた斬り込み部隊だ。警護隊精鋭員により編成されたそれらは帝国領最前線、アルア洋を渡った海国ヘ入り、水都へ留まる駐屯軍を奇襲する。そして敵を一掃した後はアコルド軍の協力を経て現地の安全を保ち、ルシス軍本隊の到着を待って合流する手筈だった。ともすれば戦闘に長けた少数精鋭で構成されたこの部隊は戦いの火蓋を切るに相応しかろうと目されていた。加えてアコルドは自治を任されている国である。滞在する帝国兵はそう多くないため容易に成せる任務だと論じる者が多かった。  頃合い良く朝のワールドニュースがラジオから流れた。助手席の班員が音量を最大にすると一同はこもごも世界情勢に聞き澄ました。 「――それでは次のニュースです。帝都の娯楽を支えた大型施設が、昨日、全店閉店を発表致しました。該当施設を含め、グラレアではこれで五件目の倒産となり、残された建築物はイズニア宰相の指揮のもと接収されるとのことです。軍事費が市民の生活を圧迫し始める中、各企業からは不満の声が止まずストライキ計画が持ち上がっています。これに際し帝国軍は治安維持のため魔導兵派遣の意向を示し……」  西方から届く絶え間ない凶報は、安らぎに浴する穏やかな季節が刻一刻と終焉へ向かっていることを指し示していた。されど任務へ粛々と身を投ずる兵士らには戦いの悲惨さを伝え継ぐべき語り部さえおらず、未知なる魔導兵への不安を募らせ国防を誓う者、あるいは鉄血を蔑み見下す者の両極端に隔てられた。  ところがコルはそのどちらにも迎合しない珍しい兵士だった。彼はこの戦争に何らの意義も見出してはいなかったし、戦のために掲げられた大義名分に是非を示すまでもなく、力あるものがぶつかり合う空間が存在するだけだと思っていた。畢竟、若き獅子にとって帝国の欲望とルシス王の使命、両者の間に違いなぞありようもなかったのだ。  そんな翌日のこと、残り半刻ほどで最初の補給地へ到着すると報告が流れた。奇襲を狙う先発隊は出陣の目的を悟られてはならず、帝国の目にはあくまで別任務のように見せかけている。そのため彼らは遠回りの旅路を強いられて、今や遅しと休息を待ち望んでいた。  ややもしてリード地方を彷徨う軍列が国家支援の形を体してバルーバ採掘場前へ一時停車をした。賑わう作業員へ倣って工業資材を運び出す傍ら、文明の利器をふんだんにてらう軍用車両へ追加の武器が積み込まれれば、作業地には昼夜、深森とは比べようもない灯りが煌々と照って、光と闇、あるがままの姿を大地へ反映していた。  最年少兵士は談話へ興じる同僚を無視し、新鮮な配給へありついた。すると見計らったように眼鏡を掛けた別班の軍人が隣へ腰を下ろした。 「まだまだアコルドへ着きそうにないね」 「……二週間は掛かるらしい」  海を渡れば速やかに作戦が始まるのは想像に難くなかった。船旅の直前に一度長い休みを取れようが、それまではルシス中を巡回して各地を支援しつつ敵の目を欺かねばならない。軍人らしからぬ柔和な男は「我々の任務、どう思う?」と片頬を微かに動かした。 「知っての通りこの百年間でアコルドと帝国を繋ぐ輸送路は確立されてしまった。ならばルシス軍の本隊が到着するより前に帝国本隊が出現して大規模な戦いが勃発する可能性は否めない。皆は簡単な任務だと言うが……我々に課されたものはかなり危険な仕事だと自覚するべきじゃないだろうか」  長身の兵士は口疾に独りごちた。穏やかな立ち振る舞いは王子の相談役を彷彿とさせるも、労を惜しまず鍛錬へ明け暮れる真摯さが男の奥深くへ滾ってクレイラスと同類の匂いがした。 「確かにな。お前の意見は間違っていないと思う」  すると贅肉薄い長身男は瞠目して、また根暗だなんだと笑われたらどうしようかと思った、と笑った。だからコルは問わず語りにこう説き伏せるのだ。 「生死を賭けた戦いに楽観は不要の長物だ。お前はあらゆる危険に備えようとしている。それだけだろう」 「君は変わり者だね。……少し、緊張が解けたよ。ありがとう――ダスティン・アキエス、宜しく」   言い締めて影の薄い男は音もなく戻っていった。いつとはなしに休憩時間が終わりに近づいていた。再出発した車へ揺られながら若獅子はリード地方に聳える圧巻の孤峰を透き見て王家の丘と見比べたりもしたが、その皚々たる雪山の景は不思議と恩人の澄んだ微笑みを彷彿とさせた。  そうして陽の金輪が南頂点へ達する頃だったろうか。虫の知らせに似た何かがコルの魂を慄わせた。時を置かず、地鳴のような轟音が響き渡って激しく全身を揺さぶられる。最初の衝撃で身体が宙に浮いたと思いきや、寒々しい蛍雪に熱を帯びた烈風が肌を粟立たせた。  外を覗くとたまさか烈火が車窓を舐めた。若き兵士は慌てて飛び退く。一瞬視界に入った後部車列は既に壊滅状態だった。寒空へ脱した刹那に銃撃される隊員――飛び上がった車体へ激突して頸椎を折る兵士――降り注ぐ砲弾に当たり黒墨となる同僚――運よく生き残った者らも迫る劫火に熱されじりじりと死を待つより他なかった。 「敵襲か。運転手、右の壁に寄せて出来るだけ砲弾を回避し……クソ、死んでやがる!」  折悪しく運転手が砲弾の破片を喉笛に浴びてアクセルを踏んだまま絶命していた。だが前方には燃え上がる軍用車両があって避難を試みる隊員が残されていた。このままでは追突して惨事となろう。コルは死者を足蹴に座席から落とし、把手を回しながらブレーキを強く踏み込んだ。 「ぐ……!」  あわや急停止すれど、フロントガラスから投げ出されてしまった。転がる勢いは収まらず後頭部を打ち付けるコル――熱気に包まれた凄惨たる荒野を白く渦巻く粉雪が舞っていた。それは忘我の森で経験した死の冷たさだった。帝国領の厳冬が土煙立つリード地方を凍て付かせ、凡ての御霊を狩り取らんとしていた。  激痛に咳き込むといつぞや経験した奇妙な乖離感が獅子を襲った。それは史桜に救われた日、星々に招かれし魂が蕩々と流るる水面の夢。そこには相も変わらず濡れ羽根色の女が居た。しかし俯き加減に坐す彼女の胸は典雅な剣に刺し貫かれ、傷口から迸る血液が巨大な大河を作り出していた。 *  コル・リオニスは灯りの落ちた部屋につくねんと立ち尽くしていた。壁には水都と思しき絵画が飾られて、大仰に開かれたカーテンから淡い月明かりが注がれる。ビル群を照らす朧気な光が見る者の胸を打てば青年は間もなく悟った。ここは王宮にある史桜の私室であると。  最後の逢瀬を見守る繊月が忘れ去られた物語を編みながら、紫檀の机へ寄り掛かるコルと、逆光に月影を浴びる史桜とを静かに照らし出した。女の表情は見えねどその声音からは深い憂慮が垂れていた。 「必ず帰って来てくださいね。ご両親のためにも」  陽が昇るより前に彼の部隊は王都を旅立つ。さすれば帝国の監視を掻い潜りながら、親衛隊の付けた道筋を通ってアコルドへ向けた長い長い旅が始まるのだ。何日、否、何ヶ月掛かるか未だ分からねど、この城も暫く見納めだと呟けば史桜へ籠る鬼胎が病魔のごとく脈打った。  仄暗い灯りの洩れる部屋で漆黒の瞳に闊達な青年が映り込んだ。昔は随分稚い少年がそこに居た気がするのに、こんなにも近しい存在になっていたとは。青年時代へ足を踏み入れた獅子はもはや庇護すべき童ではなく、自らの足で歩むことを許された自律の時代に身を置いていた。  おもむろに、ひんやりとした掌が頬へ添えられた。冬の野ざらしに芽吹いたそれは抗いがたい芳醇さを伴って、口にしてみなければ分からぬ毒の味が微かに広がった。それら凡てが平々凡々な女に奇妙な魅力を添えていく様を見るにつけ、人々が見せる倦厭の正体はこれかと心の奥底に感じさせられた。  ――なるほど、出立前に史桜へ会いに行った時の記憶か。  走馬灯を見ているのだと理解した刹那、若き獅子は己の不甲斐なさに失笑した。そうだ、あれは先発隊が出兵する前日のことだ。出征を控えたコルは僅かな帰省を済ませ、そのまま寝付こうとしたところクレイラスと出会った。王子の腰巾着は本隊と共に発つ旨を伝えたが、なかんずく、親しい者へ挨拶を終えたかを念入りに問うた。その時分、何故か史桜の名が挙がって「叩き起こしてでも会ってこい」と怒鳴られ此処へ至るのだ。  走馬灯の中で帰りを待つ声音が重い錨となった。人は脆い――だから彼女の為に会ってこいと、王の盾は云った。あの時は意味が分からねど、命の瀬戸際に際して或るあらたかな感情に包まれた。コルはおのずと窓辺へ立ち寄っていた。 「史桜、こっちに来い。踊るぞ」 「あ、はい。……はい?」  戦うことしか知らぬ軍人がダンスなぞ不釣り合いの極みだろう。だが舞踏会で誰とも踊らず喧騒を眺める女の姿が瞼の裏に焼き付いて離れなかったのだ。国賓接待を想定した訓練のお陰で多少は嗜みがあると安心させれば、彼女は一寸躊躇った。 「えーと。私、実は踊ったことが」 「舞踏会には出席していただろう」 「あはは、それがですね」  聞けば出席したのは今年が初めてらしい。親しい王女の社交界デビューへ付き添っただけ、貴族でも富裕層でもない彼女が王家主催の由緒ある大舞踏会で我が物顔に踊るなんて恐れ多い、と苦笑した。どうりで壁の花に徹していた訳だ。 「……あの日俺は仕事だったろう。同情するなら一回くらい付き合え」 「あれ、おかしいですね。警護隊が遊んでいては仕事にならないと仰っていませんでした?」  余計なことを覚えていた彼女が悪戯っぽく微笑んだ。 「さあな、忘れた。何にせよ俺は明日戦場へ赴く。今夜くらい羽目を外したって構わないだろう」  出陣にかこつけた口実を言い添えれば優しい彼女は二つ返事で了承した。それから屋敷で流れていた小夜曲を曲目に選ぶと史桜の口元が緩んだ。今この時を埋める旋律は栄華に酔いしれる円舞曲ではなく、熱に融かされた蝋燭が微かな残り火を消させまいと闇夜に祈るセレナーデが相応しかろうと思えた。  半ば我儘を押し通して強引に手を取ると女は及び腰で右足を踏み出した。この様子では習ったことさえないのだろう。常に悠然と振る舞う人が唇を一文字に結んでコルを追う姿を見るにつけ優越感と庇護欲が湧き上がった。 「お前でも苦手なことがあるんだな」 「もちろん。沢山ありますよ。そう見えるのでなければ年の功があるだけです」  重低音を響かせる蓄音機の余韻が未発達な感覚の襞へ小夜曲の旋律を挿し入れた。大人の余裕を漂わせる女がダンス一つでこれほど初な目遣いをするなぞ誰が想像しようか。柳腰に回した腕へ力を込めて全面的なエスコートを試みると、負担の減った彼女はつつがなく羽を伸ばした。 「俺の動きに合わせるだけでいい」  春の野原を舞い飛ぶ蝶のようにくるりと一回転、踏み込んで切り返し、遠ざかる彼女の手を引けば放恣な翼を生やす。息が合い始めると史桜は相好和らげて青年を賞賛した。 「ダンスがお上手ですね」 「クレイラスに叩き込まれた。だが俺の仕事は戦うことだ。お前が居なければ不要な知識として捨てるところだった」  雪の羽毛を重ねた花弁が絶えず心を騒がせて、史桜と名付けられし美酒にまつわる物語が人知れずゆらめく。その時だ、出し抜けに立ち眩みがしてコルはたたらを踏んだ。己の手が皺だらけであると気づけば、見知ったそれより一回り大きく頑丈な拳は積年の苦労を刻んでいた。  身に纏うは膝丈まである漆黒のコート。親衛隊に似た上着を羽織れば細やかな装飾釦が付いて厳格さと忠義心を体現しているようだ。しかし彼自身は何処かで激しい戦闘を繰り広げた後らしく全身に疲労感が満ちていた。  ――何だ? 俺はさっきまで何をしていた?  彼の問いへ応えるよう、やがて周囲の景色が滲むように変化した。そこは森の湖畔へ映る雲の影が印象的な土地――猛々しい青年から経験豊富な大人へ年嵩を重ねた獅子は再びあの暗い森に居た。  紫の水鏡が酔生夢死に揺蕩う。四方四方へ散じた水飛沫の煌めきが淡く視界を幻惑する。その奥には深い夕霧が立ち込めて、小さな人影が垣間見えるのだが、記憶にあるよりずっと巨大な湖を見るにつけ、果たして本当に走馬燈の続きだろうかと訝しんだ。  空色の瞳が黒く濡れた海原とかち合うなり、妙齢の女性はこちらへ駆け寄って折り目正しく頭を下げた。真近にとくと見澄ましたその貌は史桜と相違ないのに、繋いだはずの手は離れて他人行儀な眼差しが別人を思わせる。 「遅れてごめんなさい。まさか、ここに一般市民が入って来るとは思ってなくて」  容好い口から滑り出た言葉にはしかと聞き憶えがあった。なのに何故かこの記憶には見憶えがない。 「なんて酷い怪我。しかし天都へ戻ればきちんとした治療が出来ますよ。ちょうど私達も帰るところなのです、共に参りましょう」  朗らかな双眸も、透いた鼻梁も、屈託ない微笑みも、別れを告げた女と瓜二つだった。しかし絡めたはずの指がこんなにも遠くにあって、果樹の香へ届かぬもどかしさに胸裡を焼いた。  傷だらけの獅子を労わる女はふいと西つ方へまなこを据えた。黄昏おぼめく波紋へ生の落日を思わせる斜陽が茜を射し入れた途端、晴れ間に不釣り合いな稲妻が天を裂く。すると彼女は微かに花顔を曇らせて「雷神は味方です」と刀の柄へ手を伸ばした男を制止した。 「雷神、水神、巨神、氷神――彼ら四神が守ってくださらなければ私達はとうに滅びていたでしょう。……確かに、最初に神へ背いたのは人でした。でも裏切りを図ったのは一部の者に過ぎない。それなのに、いざ戦いとなれば犠牲となるのは罪なき民ばかりなのです」  彼女は星を愛する者の願いを無碍には出来ないと零した。 「さあ急いでここを離れましょう。使徒に見つかってしまうので揚陸艇は使えませんが、脚の速い馬車を用意してあります。貴方の怪我も、そこで診せてくださいね」  刹那、語らう女の耳元に奇妙なものを見出した。それは雫の形をしたイヤリングだった。中は空洞のようで波立ち、水のごとく澄み渡った液体が黄金の光彩を欲しいままに浴びていた。刻が、滴り落ちる音がした。  誘惑に負けたコルは耳飾りへ手を伸ばした。雫型の鏡面に映る自身は白髪が混じり五十路半ばに見える。その指尖がたまさか華奢な首元へ触れれば女がくすぐったそうに肩を竦めた。薄嗄れた時代に生きる彼女はやおら、老いらくした男を真っすぐ見返して「泣いているんですか」と張りのない頬へ手を添えた。 「誰かを喪ったのですか」  女の憐れみが憂き身をやつした心を解す。はしなくも身に覚えない喪失感が四肢へ行き渡れば砕けた王冠が瞼の裏に瞬いた。ありとあるものが掌から零れていく感覚、何も守れなかったという無力感。 「分からない」  コルに答えられるのはその一言だけだった。そうですか、と嘆息した彼女は、 「貴方のような人を増やさないためにも為すべきことをしなければ。けれど神々はきっと私達を許さないでしょう。例え、凡てを忘れても」  心乱して嘯いた言葉は遠い夢のようでも、あるいは未来に起きる予言のようでもあった。  折に触れて忌わしき高架橋の出来事がコルの精神を侵した。王都逃避行の日、史桜の特異性に戸惑う仔獅子へ影の男はこう言い放った。彼女は神に嫌われていると。亡霊染みた男が真実を述べた保証はないが、否定する材料も存在せず、ただただ彼女を苛む苦悩を取り除きたいと願った。 「史桜……俺は事情を知らん。だがお前が正しいと感じたことをしろ。こんな老兵で良ければいつでも力を貸そう」  酸いも甘いも知り尽くした「今」の己になら出来る気がした――「あの日」青二才ゆえに成せなかったことを。老獅子は女の黒髪を掻きあげてほつれた追懐を奥の奥まで眺め尽くした。そうして砕き割った硝子箱から宝物を取り出すと艷めく唇へ親指を這わせ、己のそれを静かに合わせた。  互いのやわやかさを確かめるよう紅を押し当てたまま、コルは躊躇いがちに女を抱き締めた。壮年男の薄い唇へ史桜の香りが横溢して溶けるような接吻に酔いしれていく。上下に揃うふっくらした肉は否むことなく獅子の口付けを受け入れたが、旧り行く男が若い娘をかいなに抱く姿はさぞ滑稽だろうと自嘲した。  やがて顔が離れて甘やかな温度が鼻先を通じて往来すれば、国王陛下の仰る通り、如何に己は史桜について無知かを悟った。彼女はどうしてあの森に住んで居たのか。ルシス人と異なる顔立ちに理由はあるのか。などと堰を切ったように疑問の奔流が生まれるのを抑えられなかった。  さりとて胸騒がす喚び声が耳に纏わりつけば、かき散らされた夢の境界線は仄かな幻想を超え、在るべき現へとコルを押し戻していく。みるみる若獅子の意識が冴え返るや激しい頭痛が襲った。けれど目立った外傷はあらず、伏したまま状況を見定めると、リード地方に仮面の人造兵士が次々と降って湧いていた。  とうとう魔導兵のお出ましだった。およそ人間とは思えぬ動きに闘争心が刺激されるも、相対するルシス軍は後列部隊の殆どが炎の襤褸に包まれ沈んでしまった。かくて流れ弾がコルの髪を一房撃ち落とした矢先、何者かが機械仕掛けの首を数体撥ねた。 「……クソが」 「おいこらリオニス。助けてくれた上官に向かってクソって何だ、クソって。心配してやったのに」  漫然と戦闘態勢へ入った獅子を認めるなり、先んじて短刀を奮うた親衛隊が愁眉を開いた。先発隊へ同行する者とはサンギスだったらしい。青年は忌々しげに唇の血を拭って「クソはクソだろうが」と重ねて悪態吐いた。 「まあな。奇襲するはずの奴らに意表を突かれるとはとんだ笑い話だよな。それで、どうだ、戦えそうなのか?」 「誰に物を言っている。無駄な問いをするな」 「お前なあ……そんなだからクソ生意気って嫌われるんだぞ」 「煩い。クソは余計だ」  班員はコルを除き全滅したと言葉少なに鳶色の男が告げた。車から振り落とされた青年だけが焼け死なずに済んだのだ。彼は失われた命を悼んで上背を低く屈めた。随所を突く痛みが集中を削ぐも、眠れる獅子を起こさぬよう世界中が息を潜めて次の一刀を待ち構えた。  最年少兵士は魔導兵に守られながら砲弾を乱射する大型キュイラスへ狙いを定めた。あのミサイルが先発隊を爆撃したのだろう。魔導兵の対処を他隊員に任せ、兵器へ向かって一足飛びに地面を蹴った――次の刹那、かの機械は真っ二つに両断されていた。獅子の進撃は留まることを知らず、若き兵士は縦断された機械の亡骸を駆け上がる。そうして高度を下げた揚陸艇へ飛び移っては、すかさず燃料庫に大太刀を突き刺し、一台、また一台と破壊せしめてルシス軍の劣勢を一気に覆した。  手当たり次第に薙ぎ払ったコルは骸を踏み締めて屹然と前を向いていた。死にたくない、そう嘆く声がほうぼう響いても、若き獅子は迷いなく前進することを決意していた。それゆえに今この瞬間は、産まれ育った街を思う郷愁さえ青年の心には厭わしく感じられた。  魔導兵を一掃した頃、横倒しになった車両の側に歴戦兵士の姿があった。痩せた背はダスティンだ。腕には酷い火傷があって、同じく奇襲を受けた別部隊の生き残りらしいと分かった。コルより幾分歳上の彼は煤だらけの面長な顔立ちに名状しがたい思いを浮かべた。 「生き残った班は十にも満たない。半数だ……。既にこれほど殺られてしまった。我々はやはり油断をしていたんだ。情報が筒抜けだったのか? 無作為に攻撃しただけなのか? いずれにせよクレイラス様へ報せなければ、あの方も危ない」  実力を秘めた軍人は恨み節のごとく現状を分析した。しかし鬱蒼と呟いた警護隊員の目尻には、ちらとも涙は浮かんでおらぬ。取り澄ましたコルが刀から血を滴らせたまま隣へ並べば、彼は感慨深そうにこちらを一瞥した。 「君も生き延びたか。我々は悪運が強いようだ」  よもや彼だけが途の先にある果てなき地獄を瞭然と理解していたのだろう。 「この先どこへ行ってもこんな惨状が続くのだろうね。正直、私は覚悟なんて出来ていなかった。けれどもう言い訳は通じないんだ。我々は地獄〈ニフルハイム〉への扉を自ら開いてしまったのだから」  在りし日、コルは異世界への扉を二度叩いた。一度目は女の住まう深遠な森へ迷い込んだ日。二度目は国へ奉仕するべく王宮へ足を踏み入れた日。そして今、青年へ三度目の転機が訪れようとしていた。それは慣れ親しんだ王都を出て戦いへ赴く日――魔法障壁なき世界へルシスの旗を掲げた日だった。


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参考 FFXV OST Volume 1 Disc1
'Departure'

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