悲台Day 0 本編前・馴初め編
-アシリパ-

第三話 氷に鏤む

- こおりにちりばむ -

「――史桜! やっと会えた!」  右手の彼方は峰深く、目覚めを告げる鳥の音が漲る。小樽町への道すがら、川縁の霜を辿って朝焼けに背を向けていた史桜をアシリパが呼び止めた。蒼を宿したあけすけな声にはたと立ち止まる女。しばらく会わないうちに少し痩せただろうか。少女は逆光に貌を隠すその人を思う。ややもすると、融け合うような白さを伴って彼女が坂道を登ってきた。 「アシリパちゃん。おはよう」 「うん、おはよう。……じゃなくて、やっと見つけたぞ。家を出るのが早すぎる」  会話の意図が見えず史桜は軽く首を捻った。 「何のことかな?」 「町へ行くんだろう。私も一緒に行く。これを持て」  しかし乱雑に狐皮を掴ませれば史桜は面食らって手を滑らせた。 「おいこら。売り物なんだから乱暴に扱うな」 「ごめん。でも私、今日町へ降りるってアシリパちゃんに伝えてた?」 「直接は聞いてない。昨日叔父〈アチャポ〉から教えてもらった」  ああ、お茶会のお話ね。と、彼女は毛皮を担ぎ直してまた一段と大人びたアシリパを愛おしげに撫でた。聞けば山小屋まで足を運んだらしい。だが中身は既にもぬけの殻、急ぎ足跡を探したようだ。少女は照れ隠しに胸を張るも再会の喜びに頬が綻んでいた。やおらアシリパは空いた手で史桜のそれを取り雪路を先導し始めた。  如月の暁は弱々しく、脇を流るる水面には日が満ちて刷いたような金が漂っていた。二人の居る丘からは町を囲む海原を一望出来、巌に砕け散る鉛色が幼い身体に収めきれぬ離別の悲しみを内包する。潮風は霞むなだらかな山々を吹き抜けて無造作に流した女達の御髪を攫っていった。  アシリパは徐に目の前でアイヌ式まな板を取り出し、ちゃんと食べているのか。もっと栄養取らなきゃダメだ。一人であんなとこに暮らしているから痩せてしまうんだぞ、と親鳥のように史桜を窘めた。 「リス獲って来たんだ。本当はお前の家で、と思ったが、チタタプなら場所を問わず作れる」 「あのう? 朝餉は済ましたばかりで……あ、何も言ってません。いただきまーす」 「目玉もあるぞ。鍋がないから茹でられないが、史桜は慣れているだろう」 「食べていいよ。このリスを獲ったのはアシリパちゃんだから」 「良いのか? でも……良いのか? じゃ、じゃあ仕方ないから、私が食べてやる!」  上手く乗せられてる気もしないが、アシリパは悪い気がしなかった。彼女は時々こうして馴染みの友を訪ねていた。かつては史桜も足繁くコタンへ通い返していたものだが、いつからか遠のき、共に食卓を囲む機会も減っていた。一時は姉と慕ったことさえあるのに。村が嫌いになったのか、とは訊けず、ただ今は、胸裡を占める願いを口にした。 「史桜も、私達のコタンに住めばいい」  アシリパが父を失って四年、レタラが消えてまだ少し。彼女を置いて皆が去る。その穴を埋めるべく山へ籠るようになった少女は、同じ境遇の史桜とえも言われぬ寂しさを心のどこかで共有していた。 「それとも、来たくない理由があるのか」 「何かあった時、コタンの皆さんに迷惑が掛かるでしょう」 「何があるんだ」  女の瞼がぴくりと震えた。ほつれた横髪を霜焼けに染まった指で掬いあげる。史桜は嘘をつかない。アシリパには。それは、少女が常に真っ向からぶつかって来るから。だからこそ、嘘を付かない代わり、話せないことがあると瞳で懇願する。強ばった貌に蔓糸のような緊張が走った。しかし幾ら尋ねても口を割る気がないのは明白だった。 「……理由があるんだな。分かった。でもお前は狩りができる訳では無い。あんな場所に居座って、ヒグマに襲われでもしたらひとたまりもないだろう」  それに、と言い淀む。 「聞いたことあるか。小屋の近くで怪しい男達が目撃されてるらしいぞ。もっと警戒しろ」  すると、ああ、アレね。連続殺人犯だったらしいよ。お知り合いの軍曹さんが、全員お縄に掛かったから安心してください、って。史桜はことさら重く捉える風でもなく言い添えた。だがアシリパの耳に入った情報とは齟齬があった。アチャポ曰く男達は軍服を纏っていた。それも組織的に活動しており山で身を隠す術を熟知しているようなのだ。 「どうしてもコタンに住みたくないなら、せめて夫を持て。もしくは男を近くに置け。フチに話して誰かに協力させてもいい」 「ありがとうね。でもね、私も天涯孤独という訳でもないみたい。一人だけ、君島家の末っ子さんが生きていらっしゃって」 「すえっこ? 会ったことあるのか?」  諦念を滲ませて被りを振る史桜。 「養子に出されたあと、各地を盥回しに。今はどこに住んでるのかさえ……」 「それじゃあ、すえっこが居たって状況は変わらない。……もう良い、やっぱりコタンに来い。いつでも目玉を食べさせてやる」 「目玉は遠慮するね」 「何でだ!」  女と少女は手と手を取り合って丘を降る。日が真上へ昇りきる前に町へ入れば着物に男物のインバネスコートを装う史桜と、アイヌの樹皮衣を羽織るアシリパの組み合わせは言うまでもなく浮いた。しかし道々、コタンを訪れるよう口疾に説き伏せた少女は、宿を取り、カラクリ時計を確認する女を満ち足りた心地で見詰めていた。  ふと、私も一泊したい。そんな気持が湧き起こる。ここまで我儘を通しては怒るだろうかと不安に駆られたが杞憂だった。アシリパは、史桜も再会を喜んでいると分かり、虚ろだった胸に炉が点るのを感じた。例の用事はどれくらいかと問う。すると、昼一刻程度だと言う。ならば今夜は二人でゆっくりせんと用事を済ませるべく宿を飛び出した。 ***  アシリパは和人に紛れ売り屋と交渉を続けていた。古くは、キタキツネの毛皮は単なる防寒具に過ぎなかった。しかし貿易が盛んになると、毛皮を貴族のステータスとする諸外国によって高級品として輸出されるようになる。アシリパもそれにあやかり収入源の一つとしていた。 「ふざけるな。もっと高いはずだ」 「いやあ、今ならこの値段が相場だねえ。お嬢ちゃんよく仕留めたよ。また持ってきてくんな」 「……そうだお前、君島家って知ってるか? そこの娘はここの軍部の関係者なんだが、私の姉代わりでもあってな」 「げ。君島家? お嬢ちゃん倍の値段でどうだい!!」  軍部の影響力は推して知るべし。姉代わりとは些か誇大表現だったかもしれないが、分け前をやるから許せと胸裡で謝った。勘定の隙に間引きされていないかもしっかりと監視する。その道中、軍人然とした風体の男が脇を通って団子屋へ吸い込まれて行った。部下を数人引き連れている。この町に駐在する幹部だったなと記憶を掘り起こし面倒事を避けようと思った。しかし某所で軍服を見掛けた話を思い出してしまっては無視も出来まい。アシリパは毛皮代を受け取ると頭巾を引き下げ団子を品定めする振りをした。 「僭越ですが……。鶴見中尉殿。無関係である可能性はないのですか」 「谷垣、君の目にはそう見えるのかね」 「接する分には人畜無害かと。実は何も知らされていないのではありませんか」  暖簾越しのくぐもった会話は些か不穏である。アシリパはアイヌ語で団子を指さした。店員は身振り手振りで注文する子供を冷ややかに追い返そうとする。腹は立つが演技を続けるしかなかった。アシリパが垂れた涎を啜っていると快活な笑い声が響いた。 「君の指摘も一理ある。しかし谷垣一等卒、あの者が本当に何も知らなければ、とうの昔にボロを出してるとは思わんかね」 「と申しますと?」 「これでも私は長い付き合いになる。多くの労力を払って情報を引き出せないものかとあの手この手で篭絡してきたものだ。どんな些細なことでも見落とさぬよう細心の注意を払って。しかし相手は、その一端でも見せたことがあろうか。悲しいかな……皆無に等しい!」  周囲にはアシリパと店員しか居ない。アイヌ語を捲し立てていると額当てをした軍人が這うように語り始めた。まるで聞きたければ聞けと触れ回っているかのように。  かくして男は述べた。情報とは価値を知る者が扱うからこそ生きてくる。翻って、意味を解せぬ者にとっては大日本帝国の未来をも左右する機密情報でさえ単なる井戸端話に過ぎない。となれば会話の中に、本人が意図せぬ痕跡を何かしら落として然るべきである。だのにあの者は綺麗なままだ。いや、綺麗すぎる、と。 「『それ』の重要性を認識しているからこそ口を閉ざしているのだ。秘密に通ずるものを、一切、漏らさぬよう」  谷垣と呼ばれた男が唾を飲み込んだ。 「とは言えさかしらな人間をむやみに刺激するのは浅慮に過ぎる。突ついても出ないのなら塩梅を見て炙り出すのだ。何なら刺青が先でも構わん。ひょっとしたら、二つ同時に手に入るかもしれんしな」 「は。出過ぎた発言失礼いたしました、鶴見中尉殿」 「谷垣一等卒、お前は他人を信用しすぎるきらいがある。心根の良さは美点だがな。月島に倣いたまえ」  ――案ずるな、更にもう一手打ってある。  折に触れて中尉と呼ばれた男は団子にかぶりついた。あまり美味そうなので腹の音が吠える。アシリパが慌てて面を隠せば羞恥と勘違いしたのだろう。帰りがけ、疑問を投げかけていた若い軍人が小声で注文し、けれど品物を受け取る訳でもなく続いて暖簾を潜り抜けていった。  唖然としていると肩を小突かれる。そこには団子が四つ、稲荷色の甘ダレがてらてらと室内灯に煌めいていた。 「アイヌのお嬢ちゃん。さっきの軍人さんが、君にだって。言葉通じてるかい? 包んだから持って行きな」 「いいのか? ありがとう!」 「はいはい。お代は貰ったから良いよ……って、言葉分かるんじゃないの。あっ、ちょっと!」  思わぬ収穫を得ると文句を背に踵を返した。目指すは先の宿だ。勿論この戦利品を見せびらかしたい気持ちもある。だが、それよりも、今の話を彼女へ伝えるべきだと思った。来た道を戻ると、呼び込みに精を出す旦那へ、 「宿屋のニシパ。さっき私と一緒にいた女性は戻ってきているか?」と問うた。 「ちょうど出掛けていったよ。夕方には戻るってさ」 「またか。史桜とはいつもすれ違いだ。たまには私を待ってくれても良いのに!」と地団駄を踏んだ。  団子凡て食べてしまうぞ! と罵っても聞いてくれる相手は居ない。アシリパは臍を噛んでそれを一つ、口に含んだ。甘醤油の香ばしさが頬を、腹を、焦りを溶かしていく。シサムにも良い奴はいるんだな。顔を覚えておけば良かったかもしらんと絆され掛けるも、誰かを陥れる話に熱が帯びていたのも確か。そればかりか今日のお茶会はその軍人達が主催だと聞く。先の話を鑑みれば彼らと係らって史桜の為になるとは思えなかった。 「まあ。あの男、誰とは明言していなかったが……。直接的な害があるとは限らないかもしない」  中尉とか言う男、情報について熱弁するだけあった。彼は「あの者」と呼んだ相手を特定出来る話を何一つ残していかなかったのだ。となればアシリパの早とちりかもしれない。でも思い違いではないかもしれない。しかし、アシリパの懸念はもっと踏み込んだ先にあった。史桜と言葉を交わした時に伝わった、恐怖を濾過して秘する花へ殉ずる決意。彼女が何か大事に巻き込まれていることを雄弁に語っていた。だが告げないと決めたのは史桜だ。彼女が口を閉ざすならば「まだ自分は大丈夫だ」ということなのだろうか。  アシリパはそこはかとなく感じる恣意を団子に混ぜて咀嚼した。一本目、タレに舌鼓を打つ。二本目、ほどける白玉に頬が落ちる。三本目、串にこびりついた滓が意外と美味い。少女は最後の串へ手を付けたところでようやく心が決まった。 「うーん……まあ、美味いから良っか。宿で待とう」 「あっは、いいのかい? アイヌのお嬢ちゃん」 「いい。あいつなら、なんとかするだろう。私は……いざという時、力になれれば良いんだ」  駆け引きだけなら史桜にも分はあろう。彼らは「あの者」とやらを力尽くでどうこうする気はないようだったから。シサムの女だって舐めるなよ、とアシリパは啖呵を切り、輝く醤油ダレを勇ましく平らげた。

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