悲台Day 0 本編前・馴初め編
-尾形-
第四話 遁れる指尖
- のがれるゆびさき -
茶会まで残り一刻、町へ繰り出した尾形上等兵は街角にて見覚えある横顔を認めた。双眼鏡越しに幾度も見て来たあの貌だ。唇には朱、頬には薄紅を刷いて野花のような容が浮かんで見える。仕事柄直に顔合わせることだってあり、化粧姿も見慣れていたはずだが、とみに今日は匂やかな佇まいであった。 「お早いご到着で。史桜さん」 近寄って小径の端に寄り掛かる女を呼び止めれば君島家の娘がこなたへ流し目を送った。歓楽街の瑞々しい賑わいへ意識を馳せていたのだろう。尾形を認めるとその女は目をまん丸くした。 「お久しぶりです。こんなところで尾形さんにお会い出来るなんて。知った顔があると安心しますね」 粗相があってはいけないと朝早く降りて来た旨を説明される。だが早く到着したは良いものの雑踏に疲れてしまったと。他人との関わりを避けて暮らす女にとって物見遊山も十二分に労働であるらしい。 徐に女が何かを察した素振りで鼻をひくつかせた。それを見て尾形は自分の袖をくんくんと嗅いだ。花街で中尉の一仕事こなしてきたばかりだったので、寄り添ってきた女郎の移り香が漂っているのかもしれない。敏い者ならどこへ行っていたか思い至るだろうが、君島史桜は何を言うでもなく、無害そうな、それでいて挑発的な瞳だけをきらりと輝かせた。だから彼も知らぬ存ぜぬで猫被りを貫くことにした。 「約束の時間まで一刻はあります。史桜さん。それまで俺がエスコート致しましょう」と直角に肘を曲げて差し出す尾形百之助。 「……。えっ?」 月島とあれほど仲が良いのだ。軍人が好きなのだろうと内心侮っていたが一拍遅れて女が問い返した。鬼にでも遭遇したような酷い面だ。自分だって演技ならばこれくらいは余裕だぞ、と小鼻を膨らませて顎をしゃくり、嗜虐的に見下ろせば君島史桜の笑顔が固まった。 「尾形さんがエスコートしてくださるのですか?」 「損はさせませんよ」 「怖……いえ、光栄です」 本音が漏れている。女は「ご無礼を」などと謝罪するもその目は悪戯っぽく笑っていた。能力を低く見られていたことか、もしくは自分相手では不満そうな態度に対してか。尾形が苛立ちを覚えて強引に腕を組めば細雪の散る束ね髪が勢いよく翻った。長く外に在った身体は冷え切ってこの女も相変わらずだなと独りごちる。しかし間近で見る頬には紅の影なく、ただ寒さで色付いていただけと気付けば、月島が君島史桜に入れ込む理由を垣間見てしまった気がした。 ――この程度の女、監視するまでもない。 色で落とせばいいのに。鶴見中尉は何をそんなに警戒しているのかと腹の下で嗤う。飴細工ごときで喜ぶ姿に呆れ、柔らかく丸みを帯びた身体へ鼻腔を寄せれば、焚き火のような匂いと潮の香りが身体と身体の間を縫っていった。海辺から霧がうっすら上り始め霞の内に日が燻っている。さても君島史桜はその景色を面伏せに眺めつ、尾形の行為には気も留めぬ風で人の波を忙しなく目で追っていた。 「あまり気を昂ぶらせると本番までに疲れますよ」 毒を注いでも雪がれる。甘く囁いても流されるだけ。扇情的な誘いを歯牙にも掛けぬ態度に尾形の加虐心が焚き付けられて来た。 「ごめんなさい。意外に楽しくて」 しかしたちまち無邪気なかんばせが綻んだ。警戒心を隠そうとしない癖、向こうから誘惑にも似た甘やかさを仄めかすのは何なのか。彼女の歯に衣着せぬ物言いが思い上がっていた尾形の矜恃を刺激した。大方、この猫被りも見透かされているに違いないが、意趣返しに腕の力を強めてやれば、君島史桜は痛みに一寸目を細め物憂げに微笑み返す。指尖に、鳩尾に、痺れが走った。月島へ見せていた無垢な横貌は変わらずここに在ると言うのに、自らを支配している不純な気持ちが視界を曇らせていく。尾形は釈然とせぬ心地に燻ってある行動へ出た。 女を人混みから庇う振りをして諸手を掴む。組んでいた手を背中に回しかいなへ閉じ込める。短い悲鳴を漏らす彼女に、女郎の残り香を擦り付ける――凡てが流れるような手付きで行われ、何事もなかったように戻された。一瞬の出来事だったが、尾形は言葉を失う女に胸がすく思いがした。 「危ないところでしたね。怪我は?」 「あ、ありません。ありがとうございます」 「これくらいお安い御用ですよ。いつでも頼ってください」 危険なぞ何もなかったのだが。尾形がとって付けたように微笑みかけると君島史桜はそれ以上何も返さなかった。冬月の透明な日射しに照り明かされ閉口したまま居住まいを正す女。さすがにやり過ぎたかと反省するも、あたかも我々は対等と言わんばかりな、どこか図々しくもある女を認めると尾形は奇妙な思いを抱いた。そして次第にひとつの思惑が形を為していった。 ――この女が誑しこまれる様を、近くで見てみたい。 毒蛇の手管へ堕ちて彼を失望させるか。毒をも食らい万年生きる亀となるか。あの男の前でいつまで余裕を保てるか見物である。泥沼のような欲望に満ちた世界で尾形は思い掛けず拓かれた暗路に新たな楽しみを見出した。彼は西洋時計を取り出し、 「そろそろ時間ですね。本部までご案内しましょう」と取り澄ました。 「尾形さんも出席されるのですか?」 「勿論です」 サボる積もりではあった。しかしこんな面白そうな茶番を見逃す手はないだろう。折に触れて、連れ立って歩く女の、刹那に過ぎた虞を感じ取った。魔の手から逃れ続けている人間でも鶴見という名の忌まわしき死神は怖いのか。安心しろ、今日は俺が背を押してやるさ。そう目論んで本部の扉を開けると不思議に女の背筋が伸びた。そうしてもはや何の感興もなさそうな姿に尾形は人知れず鼻を鳴らすのだった。 * 「尾形百之助上等兵、到着しました。君島史桜様をお連れしております」 「おやおや……おやおやおや」 仲睦まじく会場入りする男女に鶴見中尉が瞠目していた。二重の意味で尾形は勝ち誇った気持ちになるも、遠慮深く女を差し出した。 「珍しいこともあるものだ。月島軍曹ならまだしも、尾形上等兵が彼女を連れて来るとは。デートは楽しかったかね――史桜さん?」 「はい。尾形さんに偶然お会いしたので、町を案内して頂きました。鶴見中尉殿は素敵な部下の方々に恵まれておりますね」 「はっはっはっ。気の利く最高の部下ですよ」 中尉の揶揄にも動ぜず、お招き有り難うございますと君島家の女は深々と腰を曲げた。方や鶴見は上等兵へ奇妙な目配せを寄越し口角を上げる。凡て見られていたのか。反逆心を見抜かれた訳でもないのに尾形は息の詰まる思いがした。 「史桜殿もご機嫌麗しゅう。遠路はるばる来て頂けて光栄です。我々の都合により半端な時刻の開催となってしまいましたが、心ゆくまで楽しみましょう」 それはお茶会とは名ばかりの、絢爛豪華な装いに飾られたパーティーだった。港経由で手に入れたシャンパン。生きの良い鮮魚、高級肉、甘い洋菓子、洗練された楽隊。部下を鼓舞するための内々の慰労会だと鶴見中尉は公言していたが、事実、すべてがあの女のために用意されたことを尾形は知っている。その君島史桜と言えば想像以上に豪奢な品々へ気圧されている様子だった。 「ダンスは如何ですかな」 「忘れて仕舞いました。日露戦争前、中尉殿に教えて頂いたきりでしょうか」 「では部下が見本を示した後、また私がゆっくりと手ほどき致しましょう。……おい、玉井伍長、尾形上等兵、二人で踊ってみてくれ」 「はっ。了解しま」 「俺は嫌です」 尻を椅子へ貼り付けたまま、伍長の返事へ憮然と被せる尾形。そこまで付き合ってられるか。すると鶴見が「ノリが悪い。そういうところだぞ、尾形」と圧を掛けるが、谷垣一等卒を生け贄にすることで難を逃れた。いかつい男二人が手拍子に合わせて「もっと腰を! 捻って! そう!」とステップを踏む姿は歪以外の何者でもない。君島史桜はこの茶番を楽しんでいるのだろうかと窺うと読めぬ表情で大人しく隅へ控えていた。 一見すれば凡人である。だが心根は食えぬ女だとしみじみ思う。愚かではない。素は恐らく無垢でもない。だが、清らかでないと言えば違う。そうこうしているうちに楽曲が移り緩やかな三拍子へ切り替わる。鶴見中尉が彼女の手を取って前へ出た。二階堂兄弟、谷垣と玉井、三島と野間など奇妙な組み合わせへ二人が花を添えた。既にして第七師団再編成時代から馴染みであるらしい二人は、傍目には睦まやかで、君島史桜が汁を拭き取ってやる姿に甲斐甲斐しさすら覚えるだろう。 しかしその鶴見曰く、君島家は旧士族しか知らぬある秘密を握っていた。それは中尉の遠望な計画に必要不可欠である。自分が仲間に引き入れるから時期が来るまで決して手を出してはいけない。というのが命令の一部だったが、短気な玉井伍長などが「中尉殿はあの女を手込めにしたいだけだ。秘密など何もありはしないのだ」と繰り言をぼやいていたのは記憶に新しい。 現にあの二人を眺めて居ると尾形も真偽のほどは怪しく思う。好いた女に良いところを見せんと催したのではないか。そんな気すら起こる。しかし、鶴見が君島家の生き残り・君島章介一等卒を第七師団へ引き抜いたのも事実であり、更にいえばその末っ子が日露戦争直後、中央幹部の意向により、即時帰還せず単身シベリア任務を引き受けていた報告も上がっている。倒幕派だった中央と攘夷派だった旧士族、水と油であった二つを結ぶものは何なのか。それとも三十年という時は歴史の爪痕もすら癒して縁を作るのか。浅草母と薩摩父という家系に生まれた尾形だからこそ、鶴見以上に強烈な興味を抱き、君島家の動向を追っていた。 前触れなく硝子の割れる音がフロアへ響いた。突然の出来事に銃を構えれば音の発信源は件の君島史桜であることが分かった。中尉が手振りで部下をいなし、女へ何事かを耳打ちしている。彼女の唇はそれと分かるくらい震えていた。前頭葉が吹き飛んだ男に顎を掬い取られたまま、ぽつり、空気を軋ませるような声が零れる。 「それは……本当ですか?」 「そうです。あの人が、ここに来るのです」 編み上げた女のブーツが破片を踏み鳴らす。 「我々は二○三高地でその人と出会いました。勇猛果敢な戦いぶり、マキシム機関銃をもろともせず戦友を助ける姿に魅了されたものです。そして、嗚呼、その人は私が語った君島家の顛末へ大変悲しそうに耳を傾け、たった一人の家族である貴女に思いを馳せておりました。良いですか、あの場で君島章介一等卒殿はこう言ったのですよ、『史桜さんに会いたい』と」 君島史桜は微動だにせず鶴見中尉の瞳を見返していた。 「改めて発表致しましょう。これは単なる慰労会ではない。貴女のご家族である君島章介君を我が隊へ迎えられる喜びを、共に分かち合うため催した会なのです」 幾年にも及ぶ下準備は劇的な効果をもたらした。此度の茶会すら、今この瞬間、彼女の心を揺さぶるための舞台装置に過ぎなかったのだろう。黒く潤んだ瞳に映るは毒蛇の鋭牙か、それとも聖母の慈しみか。品のある鼻筋と透いた鼻筋が甘やかに近付く。女に避ける素振りは見られず、ふっくらした朱が触れあう直前まで眺めていたが、尾形はたちどころに興が失せてふいと視線を外した。唆しはすれど、どこかで牙を向く姿も期待していた彼は堕ちた女に高潔だった誰かを重ねて嗤い返した。しかしややあって周囲の空気が凍り付いたように感じて再び視線を戻すと、彼女が頬に含羞の色を浮かべ鶴見のそれを押し留めていた。 「……これは失敬。背に埃が付いておりました。不躾な真似をお許しください」 ともすると拒絶とも取れる態度も中尉は意に介せず着物の埃を払った。茶番だ。何もかもが。枯れ葉のような死神の視線が女を射貫けば、その後は君島家の末っ子についての質問が右から左へと流れて退屈の連続だった。 転属と申しますと章介さんはどちらの師団にいらっしゃったのですか。第一師団です。戦後も元気でいらっしゃるのですね。ええ、あれほど戦場に向いた人間はあまり知りません。いつ頃いらっしゃるので。冬が明ければすぐに参ります。 一つ問いを投げかける度、平静を取り戻していく彼女の姿に先ほど感じた図々しさはこれかと思い至る。気付けば宴もたけなわだった。一色触発の出来事があったにも関わらず、時に大仰に、時に囁き合って二人が言葉を交わす様は驚きに値する。この二人は何年もこんな探り合いを続けているのか。かくして尾形は長らく鶴見の部下を悩ませてきた疑問への答えを得たのだった。 ――君島史桜は、クロだ。 間違いない。君島家の秘密に関してなのかは定かではないが、この女は鶴見中尉が欲する何かを知っている。あの誑しへ屈しておらぬ時点でそうと悟って然るべきだったのだ。帰り際、再び付き添いを申し出た尾形は宿屋の前で無遠慮な口を利いた。 「あんた大物だぜ、君島史桜さんよ」 「何のことです?」 「そういうとこだ。猫被りには猫被りを、ってな」 「……猫被りに関しては、百之助さんほど上手ではないと思いますが」 「やかましい」 やはり演技には気付いていたようだ。白々しく彼女に名前を呼ばれれば腹の下が疼いた気がした。 「ここに泊まるってことは明日も町に居るんだろう。良かったら暇つぶしに付き合ってやるよ。ありがたく思え」 「ご厚意痛み入ります。わたしも良い一日を過ごせました。けれど明日は古い友人と約束があるので、機会があれば、また今度お願いしますね」 「そうかい。せいぜい楽しめよ」 「ええ。おやすみなさい」 どんな秘密を持っているにせよ鶴見への対策として史桜は必ず役立つ。だが女の「また今度」は決して信用してはならぬと教え込まれていた尾形は、引き締まった唇の端に微かな愁いを受け取った。彼女の背を追い屋根を仰げば垂〈なんな〉んとする黄昏がすぐる冬の日にひときわ濃い闇を引き連れて来ている。やがて屋内に浮かぶ女と子供の影が一つになると、彼は唯一信頼する戦友・三十年式歩兵銃を抱え直し、山小屋とは縁遠い雑踏へ姿を消した。
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