悲台Day 0 本編前・馴初め編
-谷垣-

第五話 旺んな春嵐

- さかんなしゅんらん -

 ゆく年の春、小樽はいかんともしがたい天気だった。南から花散らす春雨が降ったかと思えば、北からは冬の名残を背負う寒風が吹き荒れる。それでなくとも具合を崩しやすい春先である。屈強な兵士ですらたちまち鬱々として、平時から人手不足の軍部は多忙を極めていた。そんな中、例に漏れず寝込んでしまった前山に代わり谷垣源次郎一等卒は上官へ同伴して件の山小屋を訪れていた。  月島軍曹は今春部下となった某上等兵を一瞥、固く口元を結ぶと史桜に向き直り、唸るように締めくくった。 「そんな訳で君島章介殿は和田大尉の怒りを買い昇格取り消しになるところでした。が、間一髪のところで中尉殿が割って入られ、幸運にも特務付き上等兵へ昇格することが出来ました。ご報告は以上です」  軍曹が懇ろに敬礼をすると、淑やかな家主は一同を見比べ呆けた声を漏らした。 「それはそれは……月島さんも、小隊の皆様も、大変でしたね」 「史桜さんからもキツく灸を据えて頂けると助かります」  それから一呼吸置いて渦中の人物を睨め付ける。 「君島特務上等兵。改めて言っておくが、常識的に考えて転属初日じゃなくとも遅刻は有り得んからな」 「申し訳ありません、深く反省しております。でも迷子は仕方なかったんですよ。そう、仕方なかった」 「貴様、全く反省してないだろ」 「滅相もございません!」  剣呑な視線も憚らず、うんうん、と得心する兵士は君島章介上等兵である。戦後、半年以上続く特務から漸く帰国したばかりのその人は義姉の借家へ初顔合わせに訪れていたところだった。軍人にしてはすっきりした容姿で各々の部位が端正に盛り合わされている。軍服に包んだ身体は戦えると分かる程度に引き締まって、しかし闊達な仲間と並べば細身であるそれに整った面立ちが添えられていた。  月島軍曹が詰る。君島上等兵が拗ねる。史桜が苦笑する。三者三様の反応に谷垣は慰めるべきか忠言すべきか決めあぐね、曙照り映える屋内でついに黙りを決め込んだ。二人の口論は朝からずっと続いている。軍曹といえば懐の深さと忍耐強さで有名だが、君島上等兵には重い口をも開かせたくなる何かがあるらしい。谷垣としては臆面ない性格に愛着を覚え始めていたので、戦友として肩を並べることに何ら異論はなかったが。 「あら。お茶がないみたい。煎れ直してきます」 「……谷垣、手伝ってやってくれ。大人数で押し掛けているのは俺達だからな」 「了解しました。こちらのお盆をお持ちします」  谷垣が手早く湯飲みを下げれば愛嬌ある微笑みに誘われる。月島よりは短く、特務上等兵よりは付き合いの長い彼は――命令に反することだと理解していたが――この女性へ曇りない好感を抱いていた。むろん上司は彼女が隠し事をしていると嘯く。仲間も彼女をクロだと嗤っていた。だが、それがなんだと言うのだ。国家に反旗を翻せんと企むのは我々であり、反逆者が悪だと詰ったところで君島史桜の行為が本当にそうだと言い切れるのか。蓋し悪に相対するものは善ではなかっただろうか、と彼女の笑顔と上官の命令を天秤に掛けては谷垣は正義の所在を見失い掛けていた。  木彫りの枠を施した窓硝子から暁暗を突き破る春光が瞳を射貫く。柔肌きらめく生え際、広くなだらかな額を一条の光が射し染めると、娘は屈託無く頬を緩めた。 「章介さんは明るいお人ですね」 「はい。部下にも優しく接してくださいます。兵士としての力量も申し分ありません。ですが中央で格別の扱いを受けていたことから鶴見中尉以外の将校には疎まれているようです。今後は少しばかり嵐が吹き荒れるかもしれません」  反感を買うほど優秀、とも取れる発言に彼女が苦笑い。 「中尉殿から少しお話は伺っております。章介さんはとてもお強いのだとか」 「その認識で間違いありません。我が小隊も戦場であの方に偶然出会わなければより多くの犠牲を出していたことでしょう。ただ……その、第七師団では初日が初日だったので……」 「あの初日ですね」 「はい。その初日です」  転属初日から散歩に向かった山林で迷子になり丸二日生存確認が出来なかった君島上等兵。本人が達者だったことから遭難ではなく遅刻という処理に落ち着いたものの、捜索隊まで組まれた滑稽話を思い出し、顔を見合わせてはたまらず二人で腹を抱えた。弾みで零れた茶葉にも頓着せず、朝露のような涙を目尻へ溜めれば、娘は喜びを口元に湛えて笑いかける。放つ瞳に希望を迸らせる横貌を見るに付け、君島史桜という人物はこんなにも朗らかな女性だったのかと一驚を喫した。  あるいはこれが本来の彼女なのかもしれない。谷垣源次郎が等身大の彼女を見詰めると、それはころころと涼やかな音を立てて笑う、反逆罪などあずかり知らぬ並みの娘であった。やはりこの人を追い詰めるのは間違っているのだ。だが彼は中尉に窘められたばかり、たかだか一等卒程度には打つ手なく気負い立つ心に罪悪感が染み出した。  折節「逃げるな!」という叱責と共に特務兵士がひょいと柱の影から姿を現した。噂話を小耳に挟んだようだ。 「あのー……史桜姉さん」 「章介さん。どうしましたか」 「その敬語……」 「敬語?」  維新後に地元で名を馳せた君島家――高名な一家の正統当主たり得る人を敬うのは史桜にとって当然のふるまいなのだろう。しかし章介は当家を訪れた時分から、否、谷垣が初めて出会った頃からそれを鼻に掛けることもなく、誰彼なく対等に接する節があった。 「許されるならば私は史桜姉さんともっと近しく在りたいのです。姉さんが構わないのでしたら、敬語も、尊称も必要ありません」 「そう、ですか? では、章介。これからも宜しくね」  姉の肯いと共に春の到来を予感させる花顔が辺りを照らした。 「ありがとう、史桜姉さん。……私達は血が繋がっていなくとも家族です。そうであると願いたい。だから、ね、二人だけの生き残り、これからは一緒に手を取り合っていきましょう。どんな時も側に居させてくださいね」  どこか放胆な、洗いざらした上等兵の気迫に谷垣は目を瞑った。屋根から垂れた氷柱が融けて窓辺へ散り掛かる。風につれて一斉に雪代を穿てば、かつて君島家を襲った病魔の静けさが人気ない山林へ滴った。あれから時過ぎること十年、されど十年。当時まだ東北に居た谷垣は子細を知らねど、折良く家を離れていた彼女を除き、君島一家は手酷い疱瘡に見舞われたという。そして噂が広まると君島家を遠ざけんという動きがあったことは語るに及ばない。奇しくも遺された娘は孤立に惑い、出会って幾ばくもない鶴見少尉を頼って秘めやかな親交を深めてきた。  その話を聞かされた時、谷垣の心はたちまち翳って千々に乱れたものだ。そして、しじまを打つ悲しき咆吼がこだまを伴って胸腔をかしましくすれば、当の娘より遙かに深く、君島家と我が妹の死を悼んでいた。 「ところで。章介、先ほどから居間で月島さんがお呼びなのでは」 「あー。あれは特に……」 「章介」 「う。そんな目しないでください。分かりました、史桜姉さんまた後で」  後ろ髪引かれつつ台所を追い出される上等兵の後ろ姿はまるきり子供である。その人の噂は戦前から音高く、特務を任されるくらいだ、いかに屈強で恐ろしい兵士かと想像していたものだが、生身の本人は穢れとは甚だ縁遠そうな笑みの絶えぬ人間であった。それでも谷垣は断言できる。あれは研ぎ澄まされた兵士だと。だのにどうして鶴見中尉殿は何も出来ぬ姉の方をとりわけ警戒するのか。状況を知るがゆえに彼女とさし向かいてはきまり悪く、谷垣はおのずから目を背けた。  ややもして彼が家主に倣って盆を運び戻っていくと口論は未だに続いていた。ますます肩身狭く閉口している章介特務上等兵を認めるや姉は可愛らしく喉を鳴らして、 「章介、安心して。月島さんは厳しいけれど誰かを見捨てたりしません。もちろんあなたのことも。……ですよね、谷垣さん」  唐突に話題を振られて谷垣は戸惑った。それに同意するには「中尉に対して従順な人間ならば」という前提が必要だ。しかし谷垣には眼前の人物がどこまで深い忠誠心を抱いているか判然としなかった。言葉の接ぎ穂に戸惑っていると、軍曹は鉄仮面に凄みをきかせて、 「まったく。お前を信頼してくださっている史桜さんにだけは迷惑かけることするなよ。――いいですか、史桜さん。今後何かあっても悪いのは凡てこいつ自身です。君島章介上等兵がへまをして中尉に頭を撃ち抜かれようが、ヒグマに食わされようが、あなたには一片の非も有りませんので心病むことはありません」と息巻いた。その本気だか冗談だか分からぬ啖呵を聞くや章介は苦笑いを浮かべ、 「あのー。お言葉ですが、軍曹殿。私めに風当たり強くないですか?」 「己の胸に訊いてみろ」 「申し訳ありません。心当たりがまったくありません」 「むしろそれが問題なのだと思わないか?」  兵舎に戻ったらこいつを一発殴っておけ、と谷垣へすげなく突き返すは軍曹である。飄々として快活であるも、経験豊富で中央の厚意を受けていた分だけ御しにくいのだろう。鯉登少尉のほうがマシだとくたびれる男を一寸哀れに眺めていたが、上官と先輩同士の口論を止める手立てなどなく聞き役に徹する谷垣。しかし里子として苦労を重ねてきたせいか。君島上等兵には生い立ち問わず他人を受け入れる、鶴見中尉にも通ずる懐の広さがあるようにも思えた。その人は苦々しげに肩を竦めると、不意に耳を疑う問いを投げ掛けた。 「――ところで、史桜姉さんと鶴見中尉殿の仲はどこまで?」 「ぶっ」 「ぐっ」  一同が思い思いに噎せる。番狂わせな発言に素早く反応を返したのはやはり軍曹だった。 「そういうことを不躾に訊くな」 「軍曹は気になりませんか。あ、やっぱり気になるって顔に書いてますよ」 「うるさい。元からこんな顔だ。まったく、お前は俺が上官だと分かってるか」  悪びれず肩を竦めたその人は肝が大きいのか愚かなだけか。方や、面映ゆく俯いた史桜はすいと袂を手繰り、容良い紅を隠した。 「これと言った特別な関係など。中尉殿とは良いお友達ですよ」 「そうだったんですか。付き合いは長いと聞きましたが。お二人だけでお会いする機会も多いとか?」  中尉をお嫌いではないのでしょう、と畳み掛ける若き兵士に史桜はお茶会以上の赤みを見せた。無邪気とは酷なものだと谷垣は慄然とする。だが続きを聞きたいと心逸ったのも偽りではない。尾形上等兵曰く、君島史桜は中尉の思惑に気付いた上で誘惑をすり抜けている。だが真に逃れたいと感じていれば小樽を離れ身を隠すのが一等安全ではないか。恬然とした狙撃手はそう指摘した。つまり彼女は心底死神を嫌っていない、ともすれば危険な橋渡りを楽しんですら居るのでは、と。  重たい沈黙の後、彼女は二日酔いのような胡乱な風情で口を開いた。 「中尉殿は素敵な御方です。洗練されていて、先見の明もある。そんな御方、わたしには勿体ない」 「そんなことありません。史桜姉さんはお似合いだと思います。なにより中尉ご自身が姉さんを『憎からず想っている』と仰っていました」 「馬鹿、そういうことをあけすけと告げるか」 「あだっ! 軍曹殿、痛い!」  三十年式歩兵銃の銃身で急所を小突かれる君島上等兵。だって中尉殿が伝えてくれと言っていた、と反論するも軍曹の怒りが静まる様子はない。娘は強ばった貌を僅かに緩ませ、しかし月島と視線がかち合うと困ったように口角を上げた。 「無理して答えなくとも宜しいですよ。史桜さん」 「ふふ、ありがとうございます、月島さん。でもこれだけはみなさんにお伝えしなければ。わたしは中尉殿のみならず第七師団の方々を好ましく思っている、と言うことを」  その言葉に恋慕の情は含まれていない。しかし軍曹と養女、二人の間にえも言われぬ空気が漂えばさしもの谷垣も何かを感じ取った。とは言え明確にそういった関係を望んでいる様子でもなさそうだ。この幾年最も長く接してきた軍曹は彼女にとって半ば家族のような、況んやそれ以上の割合を占める存在らしかったが、そこに熱情が混じっているかと問われれば谷垣は明確に「否」と断定しただろう。  かくして谷垣はなるほどと頷いた。史桜が取り分けて中尉から逃げようとしない理由、それは多大なる恩義を感じているからだ。このままでは大きな災いに巻き込まれると分かっていても、その感謝ゆえ、余程の事情が無い限り無碍にすることが出来ないのだ。そこまで考えて谷垣は尾形上等兵のせせら笑いが思い浮かぶようだった。  ややあって、末っ子は屈託のない表情を奥へ引っ込めて柳眉を下げた。 「勘違いなさらないでください。からかってる訳ではないのです。この家を訪れ、改めて山奥に一人で住む史桜姉さんが心配になっただけ」  鶴見中尉のような安心出来る男性なら、と話題に挙げたのだ。そう言って君島家の実子は躊躇いがちに口を濁した。それから、ずっと温めていた心算をしたためるように、 「ねえ、史桜姉さん。君島家を襲った病はもう遠くへ去った。あれから十余年、今なら周りの目を気にせず町に住んだって構わないのではありませんか?」  その人は家族を取り巻く環境を心から深憂する面持ちで俯く姉を覗き込んだ。  史桜の胸元が大きく揺らぐ。着物を彩る絹刺繍はまろやかな起伏にきしみ、血管が薄く透けた瞼の下に過る色を谷垣は確かに認めた。この特務兵を切っ掛けに、当家を取り巻く何かが変わろうとしている。谷垣は漠然とした思いに囚われ、女を囲う鉄鎖にかすかな弛みが生じた音を聞いた。 *  蕗の薹を摘む彼女に供すれば、兵隊達が泥に足をつられ転げ回る。心ゆくまま家族の仲を深めるよう言伝を預かっていた軍人三人は青い日盛りの下で幼らしく戯れていた。草の根を嗅ぐ軍曹を遠目に谷垣は君島家が交わす会話に耳を傾ける。 「姉さんは養子入りされる前どこに居らっしゃったんですか。元から屯田兵元本庁舎の近くに?」 「ううん、違う場所よ」 「というと東京? 内地?」 「ニュアンス的には近いけど、もう少し別の場所かな」  にゅあんす。差異だとか微妙に異なるだとかの意味合いだった、と谷垣は思考を巡らせる。同じく、多少は英語に造詣あるらしい上等兵が発言の意図を理解して唸った。 「内地でも北海道でもない、が、惜しいと。では海外の日本町ですか」 「海外――ええ。今と比べたらそう言って差し支えないかもしれない」  色んなところに居たんですね、と谷垣が口を差し挟む。それを受けて、彼女の雰囲気はアイヌでも和人でもなく新しい時代を生きる欧米人に似ていると君島家の跡継ぎも指摘した。 「何故だろう? 姉さんと話していると何かに付け、言葉の端々に目新しさを感じるんです。きっと育った地に関係あるのでしょう」  いつか見てみたい、と笑う特務上等兵。なるほど、中尉の身元調査によれば記録にある彼女は海外どころか北の地から出たことも無かった。となると十三で養子入りする前の話だろう。上等兵へ付き添う軍人達も件の話へ強い関心を寄せた――それというのも君島史桜は某家入り以前の経歴がはなはだ不明瞭であったからだ。 「新しい、か。そんな話をしていたアイヌの女の子なら知っています。でも、わたしの場合は大層な出生ではなく」  白樺の木陰に満たされた黒髪が未だ足らずと仄暗い藍を吸い込む様は、朱に混じりてなお拒絶し染め返さんとする女心を彷彿とさせる。  「けれど、その感覚は恐らく間違いではないでしょう。わたしは未来〈さき〉を見詰め過ぎている。この時代にそぐわないほど、ずっと先を……」  史桜は受容的な潤みを孕ませ、思い惑うた貌を伏せた。どういう意味かと誰かが問いかけるもその耳は既に凡てを逸している。斜頸の百合に似て項垂れた首筋はあらわな憂き事を示していたが、それが突然、降って湧いたように谷垣へ旅順の砲火を思い出させた。一瞬に鼓動が際立つ。かくして義理の家族を事寄せた鶴見中尉は単なる好意から二人を引き合わせたのではない、彼女を尚も縛るためにこの兵士を探し出したのだと、谷垣は理解した。  にも拘わらず、当の君島上等兵は身を乗り出し誠実な笑みを浮かべるのだ。 「それが本当なら姉さんはお辛いでしょう。でも、自分はこうも思います――現在に埋もれていては未来は見えて来ない、と。だから貴女はそのままでいいのではありませんか」  鎌を器用に弄び、 「私たち軍人はこの刻を生き急ぎ、時代を作っていく。でもね。『今』に釘付けられた者は未来を俯瞰出来ないんです」  語り部となってるその人が路頭に迷うのは未だ己の人生に惑うているからかもしれない、と脳裏を過る谷垣。 「だからこそ、常に遠いところを見て、我々が想像し得ない世界を見ている姉さん……貴女は導きの人たり得る存在なのだと思います」  導〈しるべ〉たる貴女を苦しめる物は私が凡て追い払いましょう。そして、どこまでもお守りします――。切々と思いの丈を語った君島家嫡子が、黎明の戦場に赤を翻し、鬼と恐れられていたことを姉は知らない。兵士として随一であるということ、それは並々ならぬ殺戮者でもあるということを、いつか伝えなければいけないのだと谷垣は偽善と正義の均衡を見はるかした。

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