悲台Day 0 本編前・馴初め編
-音之進-
第六話 瞋恚に煩う
- しんいにわずらう -
三十年以上も昔の話になるだろうか。旧幕府へ仕えた忠臣達がまつろわぬ反乱分子として尊厳を奪われ北の地へ落ち延びたのは。そののち、政府主導による大々的な開拓が始まると誇りを失った彼らは姿を変え、志士の魂だけを糧に兵士としての生き様を与えられた。若き将校・鯉登音之進にとってそれらは既にして過去の出来事であるが、凡ての腫瘍を取り除けた訳ではないこと、未だ淀む水に棲まう者がなしくずしにこの国を蝕もうとしていることは本能的に察していた。 中央から寵愛を受けていたくせ、出世街道を捨てて北へおとなった君島上等兵を見据えれば、よく馴染んだ愛刀を構える。必ず討ち取るという気概を胸に玉のような汗を閃かせると振り抜く白刃が対戦相手を重く傾がせた。 ――全くもって気に入らない。 僅か転属数ヶ月、いや、そのもっと前から鶴見中尉を魅了していたこの君島一家が。鯉登は続けて二発、三発と憤りを爆発させるも、怒りに我を忘れた余りに不意を突かれ忽然と手応えを失った。下ろし切った腕は止め時を失し前のめりに体勢を崩す――対戦相手へ露わな頭上を見定められたと思いきや、僅かな間に鯉登は返す刀で受け止め、剣戟を通して伝わるしたたかさに息を詰まらせた。ありったけの力で押し返すも、火勢を切る猛攻を受けては仕太刀へ廻らざるを得ず、少尉の浅黒い肌を追って二つの影が被さった。 輝く太陽が葉叢を照り翳し、地面にさわつく濃い陰の端々に嘱目の美しい鳥までが羽根を休めている。ともすれば死と隣り合わせな世界を目の当たりにしてきた兵士達は、いきれる熱気に逸る脈動を、横溢する汗に生の証明を求め、命を営む循環へ融け合うことを知らず知らずに望んでいるのかもしれない。 二人は同時に距離を保ち、一糸乱れぬ足摺の音が響けば、細身な章介は上段、大きく足を開いては抜き身へ手を添え大太刀を構えた。対峙する鯉登も規矩を正して中段に剣先を固める。剣の腕では間違いなく鯉登が上と確信はあった。しかし掴み所のない気配に苛立ちが募っていくのが分かった。 「キェェェェ!」 こいつにだけは膝を付いてなるものか。初太刀で仕留めたと油断していたが、今度こそ徹底的に叩き潰す積もりで少尉は大きく踏み込んだ。すると上等兵は聞き慣れぬ猿叫にぎょっとして跳び退くではないか。剣戟を受けるでもなく逃げられた鯉登の怒りはにわかに頂点へ達し、彼は熱い足裏を木目の上でばたつかせた。 「君島上等兵ィィ! 貴様、避けるな!」 「無理です!」 そんなもの直撃したら死ぬに決まってんでしょう! と焦りの中で口調を崩し、頬を引き攣らせる兵士は案外涼しい顔をしている。鯉登にはその人が無聊を持て余しているようにさえ思えてならなかった。 「ああそうか。そんなに俺との訓練がつまらんか。上官に喧嘩をふっかけるとは良い度胸だなあ、君島上等兵?」 「ま、待ってください少尉殿! 私はまだ何にも失言していない……ですよね、軍曹?」 涙目で御目付け役へ懇願する上等兵。だが鯉登がひと睨み利かせると、月島は目を逸らし、 「己を顧みる良い機会だ」 オレもたまにお前をぶっ飛ばしたくなる時があるからな、などとあらぬ方向を仰いだ。信頼する上司にまで見放されれば閉じた修練場に逃げ場などない。真剣勝負の模擬訓練は果たして鯉登と章介の鬼ごっこへ発展した。 お陰で鯉登は上等兵をつぶさに観察する機会を得る。体幹は強く、息切れひとつしないその兵士は膂力に満ち満ちている。剣技だけならば鯉登と比べようもない。けれども、こと大規模な戦いとなれば有利と働くに違いない。しかし、それだけのことだ。たかだか幾つか戦場を生き延びたというだけで中尉の賞賛を得る資格があるとは思えず、逃げ足早い特務兵士を追い縋りながら麗しき将校のお言葉を反芻した。 「――あれは我々第七師団が旅順先行隊に加勢してまもなくのことだ。今際の際に横たわる兵士から情報を収集している最中、私は奇妙な噂を聞いた。二○三高地に鬼がいる、と。幻覚だろうと医師は言ったが、一人また一人と同じような台詞を吐く者が現れ、噂話は如実に真実味を帯びてきた」 日本帝国陸軍兵士達が助けられたという情報を元に「味方」であると推測出来たのは不幸中の幸いだった。だから中尉は始めのうち、てっきり不死身と名高い例の兵士かと思っていたそうだ。さりとていざ問い詰めると鬼だか化け物だか分からぬ「それ」が実際に人を殺める姿を見た者はいなかった。ただ、その化け物は気付けば夥しい屍の傍へ寄り添っており、散り咲く返り血だけが所業を明らかにしていたのだと言う。 存在が確かでない以上は「鬼」とやらが担がれることもなく。ただただ奇っ怪な与太話として兵士達を気味悪がらせていた。そんな中、鶴見中尉はある答えを導き出していた――その者は実在する。だが鬼気迫る戦いぶりと賞賛される件の英雄とは別人である――と。 そうこうしている内に無為な戦いは苛烈を極め、瞬く間に第七師団の仲間は数を減らしていった。マキシム機関銃が野放図に放たれては前進も出来ない。かと言って攻撃の手を緩めて退けば爆弾を抱いた露兵に背後を付かれる。いかにして戦況を打開すべきか、と小隊の誰もが唇を噛んだ時だった。あかあかと沈んでいく戦場に「それ」が現れたのだ――。 「こらこら。鯉登少尉、君島上等兵、何を遊んでいる。月島もいい加減止めさせろ」 いやにはっきりとした中尉の声音が響いた。芳しく上品な語り口にうっとり意識を飛ばしていると慕情して止まぬご尊顔がぬっと現れる。釣り目がちの瞳は虚ろで、底知れぬ理知を宿していた。 「聞いてるのか鯉登。おい、誰かこの状況を説明しなさい。どうなんだ?」 鶴見中尉は唯一まともな説明が出来そうな月島を窺った。軍曹は無表情のまま、「順調に訓練されておりましたが、勝敗が決せず、鬼ごっこへ発展してしまいました。制止に入るのが遅くなりました。申し訳ございません」と告げ口し、鶴見中尉の麗しさに慣れきった素振りで姿勢を正した。 「そうか。元気が有り余っているのだな? ではそんなお前達にぴったりな任務がある。鯉登、君島、夕餉の後で二人とも部屋に来なさい」 「はっ!!」 「はい」 颯爽と踵を返す中尉殿の凜々しいこと。だが隣を見やれば敬礼もせずのらりと返事を落とす君島上等兵の姿があった。相も変わらず規律のなっていない部下である。鯉登は中央スパイ説を唱える部下を鼻で嗤っていたものだが、かくも無礼だと怒りが先立ち、真実ならば小気味よく斬り伏せてやるのにと歯痒く感じた。しかし同時に、こうも過ぎる。本当に間諜ならもっと上手く立ち振る舞うのではと。そう心へ落ちた時には素直な感想が口から零れ出ていた。 「君島上等兵。お前は中央のスパイには見えんなあ」 「鯉登少尉殿!」 苦渋に満ちた月島の静止が響く。だが少尉は駆け引きが得意ではない。なかんずくこの章介も同じ類いの人種だろう。だから探り合いは止して腹を割って話すことにした。その人は批判とも賞賛とも取れる評価を受けて楽しそうに喉を鳴らしていた。が、巧まずして人を食ったような態度は嘘のように消え、軍人然とした生真面目な面立ちへ変貌した。 「……真っ向からその話題を出されたのは鯉登少尉殿が初めてかと存じます。はい、その通りです。私の転属と中央政府は一切関係ありません」 「うん、そうだと思った。でも間者でなければ、わざわざ中央を捨ててまで何のメリットがあるのだ?」 「それはもちろん、中尉殿が姉を大切にしてくださるからです。その恩義へ報いるため此度のお誘いを受けました」 真に迫った口調は本心を吐露していた。だが極めてつづまやかな説明であるはずなのに、鯉登は余計に混乱した。 「中尉殿が? 誰を?」 「私の唯一の家族、姉の君島史桜を、です」 「ああ……会ったことはないが名くらいは小耳に挟んだことがあるな」 中尉殿が懸想してるだか、女のほうが懸想しているだか、それに類する話は確かに知っている。だが真偽も分からぬことだ。面白おかしく流布する者は無礼千万だと敬遠していたため、まさかここで聞くとは想像もしていなかった。しかし上等兵の様子では露ほど疑っておらぬ様子。中尉殿が心砕くなぞ余程いい女なのかと好奇に魅せられ、子細を知っていそうな軍曹へ問うと、相手は申し兼ねる風情で「何故私に訊くんです」と倦んじた。 「仲が良いそうじゃないか」 「他意はありませんよ。懇意にして頂いた知人の娘さんへ恩義を返しているだけです」 「知人の娘?」 月島が君島家と顔見知りだったとは初耳だ。この軍曹はなかなかどうして己の過去を語りたがらぬきらいがある。苦み走った面立ちは感情が剥がれ落ち滅多に笑うことをしないが、恩義という言葉を零した刹那に微かな安らぎを見い出した気がして、上司と部下は熱い視線を注いだ。 「もしかして。月島軍曹、私の実父と知り合いだったのですか」 「なんだなんだ、聞かせろ」 えてして若々しい二人に根負けした軍曹は秘め事あらわに、雨垂れのごとき昔日を語り始めた。 * 君島家は旧士族の成れの果てである。代々これと言った功績は見られないが、将軍に近しい者も少なくなく、大政奉還が成ると見る間に影が薄くなった。それゆえ屯田兵制度より前に早々と北へ逃れたという記録が残っている。しかし攘夷派ながら海外へ関心が強かった章介の実父は、屯田兵が募集されると札幌へ赴き、農学者達と親交を深めながら頭角を現して行った。 「始まりはロシア語通訳官の募集でした。とっくに退役されていた君島章介の実父殿、つまり君島家の御当主は、あの頃、農学校伝いで来日した外国人教師達の通訳を担っていました。一体どこで学んだのかは存じませんが、聞くところによると、北海道へ来た時は既に多言語を自在に操っていたそうです。そこで当時の鶴見少尉は、数少ない通訳団の一員としてロシアへ同行をお願いすることにしました」 当時の月島は身の上を嘆き荒んでいたが、君島上等兵の実父は優しく接してくれた。それが妙に心に残っていると軍曹は零す。さても中尉がいつから君島家の情報を持っていたか定かでなけれど、直接の関わりを持ったのはあの頃が初めてだろうと言い添えた。 「鶴見中尉ならもっと前から君島家の秘密とやらを嗅ぎ付けていた可能性はある。だが、あの時は大きな目的が別にあった。だから何を以て近づいたのか真相は分かりません」 「む。別の目的とは何だ? 月島ァ。この際だから全部話してしまえ」 「全く……中尉に怒られても知りませんよ。目的というのは諸外国とのパイプ作りです。君島家御当主が外国人教師や他の者と親しかったお話はしましたね? かの一家は何十年もそういった人間関係を築いて来たため、教師達が帰国した後も交流は続き、自然と太いパイプが出来ていました」 政府を通さぬ独自の交渉ルートを持つ人物。それが鶴見中尉から見た君島家の価値だった。とみに英米国と親しかった君島家は、引き入れた甲斐あって斬り込んだ情報も仕入れ易くなり、中尉は徐々に地盤を固めていった。その折りだ、一人の少女・史桜と出会ったのは。 傲慢でもなければ高飛車でもない、だのに決して頭を垂れぬ姿に隔絶した潔さを覚え、鶴見中尉は彼女と水入らずの交わりを求めた。しかし当時まだ女学校に通っていた妙齢の娘を慮ってか、父親は軍人との接触を好ましからざるものと見ていたようだ。 「当時はそれほど史桜さんにお会いする機会はなかった。ですが帰国した矢先に御当主及び君島一家がご病気で亡くなられると、鶴見中尉が後見人となって今に至ります」 目の前で欠伸を放つ君島章介はまだしも君島家に係らっておらぬ鯉登はこの話に手放しで肯うことは出来なかった。引く手数多な中尉が没落した旧士族の娘へ惚れ込むなど――ましてやそれを打算なく部下へ打ち明けるなど。あの方の懐の広さは心得るところではあるが、月島による昔話も、中尉殿が差した一手に過ぎないのではないか。想像力豊かな鯉登の脳裏には一旒の絹布のような猜疑心が波打ち始めた。やがてそれは口上を引き継いだ章介の一言で決定打へ変わることになる。 「中尉殿は姉を恐らく……いいえ、文字通り大切に扱ってくださっています。あの方の行為が今後も姉の身を守ることに繋がるならば私はどこまでも尽くしましょう」 迷いはない。利害が一致する限り、この路を行くと覚悟を決めた人間の目だった。 「まあ筋は通るな。ひとまずは間諜でないと認めてやる。だが、我々につけば史桜とやらが命を賭して守っている秘密も探ることになる。良いのか?」 「いいんです……旧幕府軍の遺物なんかのために姉さんが命を危険に晒す必要はない。そういった仕事は我々軍人の仕事です。ですが、もし……」 ――もし鶴見中尉が姉に……。 ふと言葉のきざはしが水嵩ゆたかに溢れ出した。鯉登はこれより先に紡がれる不敬を嗅ぎ分け、中尉を愚弄すれば叩き斬らんと愛刀へ手を伸ばした。ところが、少尉の予知した喧噪は直ぐに部下に阻まれ、 「待て、君島。それ以上聞けば、オレは造反の意思ありと報告しなければならなくなる。やっと会えた姉君に己の死体を見せたいなら止めないが、そうでなければ黙っていろ」と牽制を受けた。 「なんだ月島。やけに優しいじゃないか」 「だから別に他意はないと申し上げているでしょう。オレは、彼女にまた身内を失って欲しくないだけです」 喋り過ぎたと反省する上等兵を脇目に、鯉登は胸を撫で下ろした。薄雲広がる夏空の青は積雲立つ薩摩のそれより一等薄い。天日は遮られていて斜めにきった日差しが明暗豊かな境目を描いていく。空風は強く、乾いたつむじが四方を駆ければ冷ややかに汗を剥ぎ取っていった。本土ならば高山にのみ自生する植物達が楚々として、兵士共の威し合いに息を潜めているが、目路も遙かなこの水平線に彼らは何度赤を散らしただろう。どうした訳か鯉登は腹の裡で「この部下をいつか斬るかもしれない」と言う考えが頭をもたげたが、今この時は同胞と感応する喜びを燃え上がらせて黙過した。 蝉の音は未だ繁ではなく、物足りなさすら覚える北の夏に秋の風物詩が通り過ぎた。季節外れに飛び交う赤蜻蛉はこの地であれば珍しくもないが、彼らのように棲む水が変わってしまった時、順応して変化していくかそのまま息絶えるか、それこそ生死の境界となり得るだろう。蚊帳の外へ居るようで、つつがなく罠に適応し彼らを振り回す史桜という女に会ってみたいと鯉登の食指が疼いていた。
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