悲台Day 0 本編前・馴初め編
章介

第七話 打過ぐ彼方

- うちすぐかなた -

 翌々月のことである。鬼ごっこに興じた君島上等兵と鯉登少尉は旭川と網走、遠く離れた新任地への道すがら、墓参りのため札幌を訪れる君島史桜に付き添っていた。路を跨がって紅と橙が黄昏に融ける。朱を引いた唇のように瑞々しい葉叢は散り重なり、農学校の広大な敷地にたわわな金色を連ねていた。腹の虫を空かせた章介が背〈そびら〉を返して梢に腕を伸ばせば、少尉の顔に銀杏が幾つか降り落ちた。 「銀杏美味しそうだなあ。これ知ってます少尉? 秋の味覚なんですよ!」 「んなこと知っておるわ。拾い食いとは品のないやつめ。……はあ。なぜ私までこんなことに」 「またその話。ちょっとした観光だと思えば息抜きになりませんか」 「馬鹿を言え。私はこの後旭川で鶴見中尉と離ればなれなんだぞ。のんきに楽しんで居られるか!」  旭川など鉄道を使えば目と鼻の先だ。一日で着く距離でしょう、自分なんて網走ですよ、とワガママな若将校を非難すると、未来の指揮官は猿叫を上げて破れかぶれに秋菊を一房投げた。白から紫、赤紫の細かい花弁が君島家の墓に褪せた悲しみを添えていく。鯉登が通りがかりに摘んだそれは近々北アメリカから帰化した植物であるらしいが、死人を想う閑寂の中、茎を差し交わし群生する塩梅は絹糸を織り巡らした優美な着物を彷彿とさせる。外地からおとない、和に馴染み、一層の美を以て羽ばたく――章介はまるで姉のようだと思った。  章介はプロテスタント系外国人墓地の隅で寄る辺なく佇む両親の墓を無言で見詰めた。本来ならば日本人墓地に入るはずだったが、死体どころか実家にさえ近付きたがらぬ和人に代わり、友人だったアメリカ人がひっそりと埋葬したそうだ。英語で刻まれた墓標をなぞりながら、諾々と国へ奉仕し開拓に尽力した貢献者の末路はまさに軍人の縮図だと鯉登が独りごちたのが聞こえた。  二十余年越しの再会となる章介は墓影を心に貪り馳せる。声は知らない。顔も憶えていない。有るのは君島章介という名前だけ。曰く、君島家は開拓団の中で高名であっただけに彼らを襲った惨劇は瞬く間に町中へ伝わった。それに伴い役人は辺り一帯を封鎖し兵士に死体を焼かせて家を取り潰してしまった。その後風評を払拭せんとホテル業が始まったようだが、鉄道旅の最中、経緯を知った鯉登少尉は腹蔵ない雑感をぶつけた。 「種痘があるこの時代に天然痘で死ぬとは悲劇だな。免疫のないアイヌが罹るなら分かるが。なあ史桜君島家はよほど身体が弱い一家だったのか?」 「分かりません。養女であるわたしは血のつながりはありませんでしたから。けれどもし家系的なものでしたら、同じ血縁の章介も虚弱体質であり得るはずですが」 「じゃ違うな。君島は体力だけの馬鹿だし」 「あのー……暴言聞こえたのは気のせいですか、少尉?」 「気のせいだ。私は真実を述べたまでだからな」 「いや言ってます言ってます」  江戸時代に種痘が発見された折り、国は「最も恐ろしい死の代行者」を撲滅するため定期的な接種を命じた。君島家だけがその義務を怠っていたとは思いがたく、一家全員の効果が切れていたとも考えにくい。秘していた懸念を無邪気に掘り返された史桜が漠々たる不安に俯いていたのが印象的だった。  耐えがたかったであろう姉の孤独に章介が心寄せていると少尉がてらわずに口を開く。 「中央は君島家について何か掴んでいるのか? 旧士族の秘密とやらは史桜が口を割らない限り誰も知らないらしいじゃないか」 「ぶっ」  こんな路上で核心に触れて来るものだから、章介は手元を誤って少尉に打ち水を掛けてしまった。 「うわ! 貴様、情けない声を出しおって。濡れたじゃないか、どうしてくれる!」 「いやだって、鯉登少尉殿がこんなとこで機密情報を訊いてくるものですから」 「だからって水を掛けるな!」 「わざとじゃありませんよ!」  怒り心頭に上司が軍刀を振り回せば香水の薫りが友禅菊を賑わす。雑木の向こうで立ち話をする姉を見遣りながら章介は「中央の持つ情報は我々と同程度でしょうね」と声を潜めた。 「殆ど何も知らんということか。だがお前なら何か情報を持っているのだろう?」 「お恥ずかしながら……生家とはいえ私も同じような状態なのです」  章介君島家存命の折り遠く本土に暮らしていた。だから章介がみなまで断言出来ることと言えば「秘密を知っている可能性が高いのは君島家の生き残り」という事実のみだ。しかしながら政府が秘密の存在を知っているのは厄介な状況だ。厳しい見解に柳眉を寄せた鯉登は――鶴見中尉ほどの分析官なら自力で嗅ぎ付ける可能性はあれど――中央はどこから仕入れたのかと部下に首を傾げた。  その言葉に上等兵がふと口を閉ざす。それから人目を憚って「中央の情報源はイギリスだそうです」と囁けば鯉登は色を失った。 「ロシアでもアメリカでもなく、イギリスだと? ブラックジョークにも程があるぞ」 「残念ながらこればかりは冗談ではありません」  ぶすと唇を尖らせる鯉登。熟考するように目が泳ぎ――それから彼は、ハ、と息を飲んだ。 「おい君島。それが判明したのって、先日、中尉殿が依頼していた……」 「はい。あの調査結果によって、ですね」  数ヶ月前の冬、少尉の留守中にささやかな事件が起きた。君島家の娘が強盗に狙われたのだ。男達は史桜がただの養女だと分かるや踵を返した。が、それは裏を返せば「君島家の血縁を求め、かの家だと目星をつけて行動に及んだ」とも取れる。元より指名手配されていた犯人は月島軍曹と前山以下に処理されたものの、直前の行動へ違和感を覚えた中尉がよくよく身元を洗ってみると驚くべき事実が判明した。彼らは幕末時代に海を渡った二世やその思想を受け継ぐ者達だったのだ。  散り散りなる思いが涼やかなしじまに吸い込まれていけば二人の軍人は事態の根深さへ口を噤ぐ。詰まるところ、こういうことだ。現在アメリカが我が国へ敵対心を持ち始めているように、大日本帝国を盾にせんと目論み盟約を結んだ某国が今もなお味方で有り得るか甚だ疑問であると。だが幸か不幸か名目上は未だ同盟国だ。その国が中央へ助太刀をしているとなればロシアやドイツを始めとする諸外国を牽制するための動きと見るべきだ。のみならず、虎視眈々と強奪を狙う情勢を見るに、君島家の秘密とやらが概ね軍備強化や戦争に関連する代物だという中尉の分析に実体が宿る。その上で章介は「ですが」と反駁した。 「転属前に少し中央に探りを入れてみたのです。すると彼らはこの件から手を引きたがっているようでした。まるで臭い物に蓋をしたがっているような……。だのに諸外国が旧士族の秘密とやらに目を付けてしまった。それが切っ掛けとなって中央は外から圧力を掛けられ、動かざるを得なくなった、と言うのが真実でしょう」  案外、自国よりも諸外国の方が真実を知っているのかもしれない。それは君島家が海外とのパイプを持っていた話からも頷ける気がした。となれば諸外国を牽制するために中央を動かす。中央を牽制するために第七師団を動かし、そして、第七師団を牽制するに我ら第二十七聯隊及び鶴見以下が動くべきだと風雲急を告げる事態に章介は呟いた。なぜか? 姉の命を脅かすには「在る」という可能性だけで十分だったからだ。  さても中尉はどれほどこの件に執着しているか。金塊のような直接的な価値も、秘密の内容も分からない以上、如何ほど労力を割くべきか判じ難いのが正直な意見だろう。みなの裡を代表するかのように少尉は「これだけ我々が苦労しているんだ。本当に秘密とやらが存在すれば良いが」と懸念が胸にこたえた様子だった。  少し経つと渦中の女性が戻ってきた。足下を彩る秋菊がこもごも萼を翻し、花弁を散らしては女を追い縋っていた。この人は自分の置かれた状況を存じている。あるいは、知らずとも崖へ飛び込み志士の魂を帯刀して殉ずる覚悟なのだろう。そして命潰えた暁には清々しく微笑むのかもしれないと強い畏怖の念に襲われた。 「お待たせしました。音之進さん、章介。……あら、何かあったんですか。お顔が暗いですよ」  漸く戻って来た史桜へ鯉登はなおざりに不平を漏らした。 「遅いぞ。君島なんて腹が減って銀杏を生で食おうとしていた」 「まあ、ごめんなさい。それが泊まる予定の宿が変更になってしまって。馴染みの方に事情を伺っていたんです」 「宿が? どういうことだ、史桜」 「実は……」  名前で呼び合う二人は出会ってまだ数日足らずである。拾い食いは品がないだとか文句を言っていた癖、旅館で調理して頂きましょうか、美味しいですよ、と史桜が提案すると無邪気に喜んでいる。育ちゆえの不遜は玉に瑕だが、この薩摩隼人を嫌いになれる人間は居るのだろうかと章介は童のような純粋さに心惹かれ耳をそばだてていた。 *  病魔が発覚してから章介の生家は取り壊され洋風なホテルに生まれ変わっていた。それ以降、史桜は墓参りの度に宿を取っていたものだが、急遽改装が始まって泊まれないのだと言う。その話を路傍の人に伺った三人は、確認するのも手間だと言う理由から、ほどなくして小綺麗な旅館へ落ち着いた。  大部屋に案内されると目も綾な食事が通される。墓参りの家族と全く無関係な少尉という奇妙な組み合わせは鶴見中尉の温情がなければ実現しなかったに相違ないが、史桜は酒の注ぎ際そっと末っ子の耳朶に吐息を寄せ、昔日を悼むべき日にかくも麗らかな一日を過ごせたのは鯉登少尉が持つ光に依るものだと笑った。 「なんだなんだ。二人で内緒話をしおってからに。二階堂兄弟みたいだぞ」 「大した話じゃないんです。鯉登少尉殿が奮発しすぎて路銀が残っているか心配だと話していただけでした」と章介が誤魔化せば「余計な心配だ」と太い眉の下から睨め付けられてしまった。  下手な物は食べられないと小遣いから色を足し、少尉が上等な部屋を選んだのには、恐らく姉への気遣いがあるのだろう。だが少尉のことだ。矜持に関わることをわざわざ自ら告げることはしまい。注がれた酒がとみに強かったのか、次第に酔いが回り始めて今にも眠りに落ちそうな若将校は美味い刺身に頬を緩め、ゆくりなく新たな疑問を落とした。 「ああ……そうだ君島上等兵、ずっと訊きたいと思っていたんだが」 「なんでしょう。鯉登少尉殿は訊きたいことが沢山お有りのようですが」 「ふん。あることないこと陰口叩かれるよりは良いだろう」  鯉登少尉が誰を思い浮かべているか章介はさやかに想像出来たが、その名を出せば機嫌を損ねること、小耳に挟んだところあながち間違った内容でもなかったことを考慮して 「仰るとおりです。だからこそ私は、堂々とお訊きになろうとする鯉登少尉殿を信頼したいと思っております」と心からの敬意ともども慎み深く胸の裡へ押し留めた。 「うんうん……ん? そうなのか? いや……今何の話をしていたか……」 「ふふっ」  打てば響くやり取りに堪らずと喉を鳴らす史桜。最初こそ少尉は姉を警戒していたが、鶴見中尉に対する賞賛が容よい唇から紡がれるや意気投合してしまった。目線を変えてみれば二人はお似合いにも見える。しかし彼女にすれば弟が増えたような感覚なのだろう。いずれにせよ味方が増えるのは良いことだと章介は忍び笑いを零し、その傍ら、洗練された花やぐ面立ちに水牛のような逞しさを放って少尉が鋭く問うた。 「上等兵、貴様はなぜ君島と名乗っているのだ?」  里子としてどこかの家に居たならその名を貰うのが常である。しかも章介が戦争直前まで借り暮らしをしていたのは血統の良い軍人一家。そのまま養子縁組をしてしまえば鯉登と同等、あるいはやや下の優良血統種と扱われていたかもしれない。だのに章介は生家を選んだのだ。姉の眼差しが真摯な物に変わると章介は箸を置いて、余計な感情が漏れ出ぬよう瞼を伏せた。 「お二方はご存じでしょうが私は生まれて直ぐ本土へ里子に出されました。籍は実家に残っておりましたが、行く先々で親戚が死に、育て手が立て続けに居なくなることで、幼い頃から各地を転々と盥回しにされたんです。成人するまで里親は定まらず、後ろ盾がないままでは自力で生家にも帰れない。次はどこへやられるのかと不安に思う生活が続いておりました」  戦場へ送られる頃には己が何者なのか分からなくなっていた、と語る上等兵に、里子と縁遠い鯉登は感興をそそられていた。 「そんな時です。鶴見中尉と出会いました。あの人は親しい姉さんのため、かねてより君島家の末っ子を探しており、第一師団にそれらしき人物が居ると調べあげていたそうです」  刹那に姉の顔色が翳った気がする。だが旅の疲れが溜まっているのだろうと、茶を勧め、また続ける。 「それで、私がなぜ生家を選んだか、という話ですが……この話についてお伝えするには、まず鶴見中尉といつどこで出会ったかお話しなければなりません。私が中尉殿に拾って頂いた――というより、仲間とはぐれて彼の隊へ紛れ込んでしまった――のは、まったくの偶然でした。場所は旅順の二○三高地です。仲間を守る為に単身突撃したは良いものの、戦火が激しく帰り道を見失った私は、二晩ほど第七師団の方々と共に過ごしました。その時に生家の話を教えて貰ったんです。北海道へ落ちぶれた旧士族・君島家の話を」 「……なあ貴様、その迷子癖を直さないとそのうち本当に除隊させられるぞ」  正体をなくしつつある癖に突っ込みだけは的確に入れる鯉登。その薩摩男子すら酔わせるウォッカに章介は手を付けない。  君島上等兵は片眉を釣り上げて一寸笑った。だが姉が続きを催促するものだから口触りは滑らかだ。淡々とした語り口は変わらず、しかしどこか怨ずる様子で中尉との会話を咀嚼した。 「鶴見中尉殿は、姉さんに会わせてやる、だから彼の隊へ来いと仰いました。しかし正直どんな顔して会えばいいか分からなかったんです。姉さんだっていきなり知らない人間が訪ねてきたら怖いでしょう? だから、その時は断わってしまいました。でも、単身特務をこなしているうち、こんな考えが形を為して来たんです」  ――自分を取り戻すには原点に帰るべきだ。すなわち生家を知る姉こそが道を失った者の標であり、未来を指し示す灯ではないか、と。  自我の拠り所を未だ見つけられぬ者にとって「生まれ故郷」とは唯一無二の動かぬ存在であり、乾いた地をたちまち潤す際やかな象徴であった。それは一種の通過儀礼ないし成長期に自己を得られなかった人間が間際に見出した糧だった。だからその人は告げる、たった一人生き残り、家を守ってくれた貴女はかけがえのない宝物であり、己が生きる意味だと。 「なるほど、な」  酔った少尉が覚束なげに軍刀を抜き縄模様の入った柄へつれづれに指をめぐらした。そして何かを思案するように「聞けてよかった」と呟くが早いが否か盛大に机へ突っ伏し寝入ってしまった。残された姉は憑かれたように呆然としていたが、大きな音で我に返ると、穢れなき指尖で家族へ触れ、 「わたしが標になれるなら喜んで。……もう大丈夫ですよ。そのまま、あなたの信じる途を突き進んで」と咲き初めた。  それが二人の決別を示唆する言葉だと気付いているのか。蓋し路は違えど抱く想いは同じなのだと理解するまでさほど時間は要しなかったろう。折に触れて章介は一つの閃きを得る。旧士族の秘密とやらは彼女そのものに宿っているのではないか。闇に短い息を連ねて潜むそれは、真っ黒な影絵に魅入る愚か者達が血肉を争い、月明かりに正体を垣間見た瞬間、音もなく崩れ去るのではないか――と。

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