悲台Day 0 本編前・馴初め編
史桜

第八話 偲べる此方

- しのべるこなた -

 小樽に再び冬枯れの季節が訪れようとしていた。未だ雪ならず、索漠と打ち付ける雨粒は霧がかるうちに着物の裾を濡らしていく。白い吐息を漏らせば店先に飾る盆栽が飛沫に抉られ、水気を吸った黒土の跳ね返る風情が目に付いた。雨脚はさほど強くない。だが冬将軍の忍び寄る季節である。史桜は芯を凍て付かせる寒気に暖を求め、馴れぬ路地を抜けてちょうど良い軒下へ滑り込んだ。  墓参りのあくる月、章介が寄越す電報に胸躍らせて街へ降りたが今日も届いていなかった。かと思えば洋傘を持たぬ時分に雨に降られる。この小夜嵐は一晩続くだろうと老人の立ち話が耳に入り仕方なく宿で一晩耐えることにした。だが考えることは皆同じ、どの店も早々と満室になり史桜は今夜の行き場に窮してしまった。  こんな時に不思議と顔が浮かぶのは鶴見中尉である。助けを求めればあの人はきっと手を差し伸べてくれる。その奥にどんな思惑が潜んでいようと彼が史桜を無碍に扱ったことは記憶の限り一度もない。彼女は思いあぐねて隊舎がある方角へ目を巡らせた。だがやっぱりやめようと謂う気になった。弱り切った頭で優れた策士と腹の読み合いに挑むほど軽率ではない。  屋根の傾斜を伝いしとどに流るる大粒が叙情的な心を濡らしていった。史桜とて与えられる温情がよもや純粋な誠意からではないと感付いている。あるいは、鶴見中尉という男は君島家が史桜へ託した「それ」を暴き出すためなら何だってするだろう。けれど史桜は添えられた手を振り払う気になれなかった。片や得体の知れぬ狂気に虞を抱きながら、仮面の下に埋もれた歪な真心へ知らん顔を通すには傍に居過ぎていたのだ。  ――姉さん、中尉殿は貴女を憎からず想っていますよ。  たまさか家族によって露呈された告白を思い出して史桜は心臓が跳ねた。わざわざ他人の口から言伝えるとは中尉も意地が悪い。とは言え甘やかな睦言を伝えられるのは初めてではなかった。その度事に史桜の養父、つまり章介の実父が娘を諭し、苦渋の表情を浮かべていたことも併せて思い出されるが。 「史桜。鶴見という男にはゆめゆめ気を付けるんだ。我らの秘密を漏らせばお払い箱にされるぞ。良いか、私たちが突然居なくなったらこう思いなさい。あの男が殺したのだ、と」  自然の摂理で土へ還ったという意味ならば幸いにも彼らは立派な病死と断定された。今の日本に生物兵器なぞ存在しないのは誰よりも史桜が理解していたから、家族の先立ちは人の手が及ばぬ世界の有り様だったと折り合いも付けられた。だがそれだけではない。鶴見が君島家を殺さなかった――いずれは殺したかもしれないが――ことは彼を避けるよう教わっていた少女の意識を大きく変化させ、畢竟、君島家は自らの死を以て中尉への猜疑心を払拭し、神降ろしのごとく彼の真心を具現化する結果となったのだ。  暮れ方に向けて夜嵐は強まるばかりだった。つんざく驟雨にほっそりした白樺の木肌が淡く浮かび上がって、遠い鼠色の海へ凛然と白の輪郭線を描いていく。返し波に照り映えるはずの黄昏はものものしく雷雲に覆われていたが、隊舎からあちら側は霧雨の中で晴れ渡り、雲間へ幾筋も光が垂れ込めていた。あれをなんと呼ぶか史桜は知っている。狐の嫁入りである。そしてその脇、街路へ一本だけ植わわったナナカマドの赤い実に史桜は馥郁たる夕映えを見出した。  その樹木は春に白花を咲かせ、盛んに実を結ぶ夏期を越し、熟れた化粧〈けわい〉を貫いては厳冬から春に掛けて瑞々しい恵みを施す。しかし常ならば食べ尽くされるはずの果実がなぜ冬まで生き残るのか。それもこれも毒があるからこそ。ナナカマドの実は冬に掛けて少しずつ毒気を抜き、最も厳しい季節まで耐え抜いて実りの申し子となるのだ。その身に宿した猛毒性と忍耐力――いかにも、君島家における鶴見の存在だった。  時をおかず背後で窓硝子が共振した。いよいよ一宿一飯の巣を探さねばならぬ。と史桜が意を決した時分、折に触れて坊主頭が懐へ飛び込んできた。 「ちっくしょー。さっきまで晴れてたじゃねーかよ! あ、ごめんねーお姉さん、隣いーい?」  歳は三十路を過ぎた辺りか。その横顔に堅気ならぬものを感じて一瞬警戒したが、口を開けば毒にも薬にもならなさそうな男である。史桜は屈託ない態度に相好崩して「どうぞ」とハンケチーフを手渡す。するとどうしたことか。うだつの上がらぬ男は胡乱げな目を輝かせるや、 「その美しい手拭いを俺に?! ああん、なんって心の綺麗な女性なんだ……。白石由竹です、俺と結婚してください!」と息を巻いた。 「えっと……お構いなく。お互いただの雨宿りですから」  面倒事の匂いを察知した史桜が何処吹く風で聞き流すと彼はますます語気を強め、 「そう! 雨の中偶然出会った二人、一つ屋根の下で育む愛! これこそ、運命だァ!!」と諸手を広げて気負い立つではないか。  前言撤回、やはり危ない人間だった。史桜は中尉から贈られたハンケチーフをするりと取り返して後退った。このまま相手をするには時間が押している。自分は宿を探さなくてはいけないからと、努めて平静に、人好きする笑顔でひらひらと手を振り機械染みた動きで踵を返すなり、必死の形相で肩口を掴まれた。 「待った待った! お姉さんに良い話あるからさァ! もうちょっと一緒にいよぉよー」 「えええ……」  どう見ても得体が知れない。極悪人ではなさそうだが、遊び人然とした風貌で告げられても碌な情報は期待出来なさそうだ。切り抜ける方法はないかと流し目で窺えば「あっ今俺のこと疑ったでしょ! でも絶対損はしないって!」と男は継ぎ接ぎだらけの半纏を見せびらかした。寒気の迫る季節に軽装すぎはしまいか。案の定男はくしゃみを放ち、太い鼻水を筋状に飛ばせば勢い余って史桜の胸元へ突っ込んだ。 「ぶえっくしょ! 寒ィ!」  そりゃそうだろう。史桜は真っ当な意見を飲み込み淡々と男をひっぺ剥がした。意外にも身体は温かく、一旦熱を与えられた身体は微かな隙間風にも身震いする。白石さんでしたっけ。そう声を掛けると鮮やかなウィンクが飛んで来た。あるがまま生きる者には鶴見中尉相手に鍛えた駆け引きも通じないらしい。警戒心を溶かす語り口に絆された彼女は食事の約束に肯い、手を引かれるまま軒下を飛び出した。 * 「はあ~暖まるぜえ……」  まもなく裏ぶれた定食屋に駆け込んだ史桜は改めて名乗り合い、大層不味いニシン蕎麦を食んでいた。出汁が抜けきっている。美味しい店は他にもあるのに、と訝しみながら、顔を隠し夜酒を煽る横柄な客層を一瞥した。奥まった立地と天候のせいか、客足は遠く、粗野な男達の根城となっている。閑古鳥の鳴く店で史桜は居心地の悪さを覚えて白石を急かした。 「もし、白石さん。さっきの良い話って何ですか」 「うんそれねー。ぜひ史桜ちゃんの耳に入れたい情報でさ」  白石は蕎麦の器から目離れもせず囁いた。 「あんた、見張られてるぜ。ずーっとな」  あ、今は撒いたから大丈夫。俺だってそんな危険は侵さないさ、と信憑性の薄い弁解が為される。 「実は俺、あんたのこと前から見てたんだ。最初は、綺麗なお姉さんだなー、独り身かなーって山小屋まで追い掛けて幸せな気分に浸ってたんだけど、どうにも周りをチョロチョロしてる野郎共が目に付いてね。すぐ教えてあげたかったのに、これがまった監視がきつくてさァ。偶然嵐で監視の目が逸れなきゃ史桜ちゃんに接触出来なかったよ。でもそれをやり遂げた俺ってば偉い子じゃん! ッピュウ!」  事も無げに長台詞を言い放ったがこの男も大概覗き魔である。一息で紡がれた告白に返す言葉なく坊主頭を睨め付ければ、何故か彼は上機嫌になった。 「ねえねえ、監視してる奴らがどこの誰か詳しく教えて欲しくない? 知りたいならこの唇に熱いチューをし……いだだだだっ。出来心でしたもう言いませんからァッ」  そこはかとなく怒りを込めて鼻を摘まんでやると涙目で飛び上がった。覗きの対価がこの程度で済むなら安いではないか。躊躇いなく罪状を打ち明ける男に頭痛がして、 「白石さん。勿体ぶらずに教えてくださると嬉しいです」と痛むこめかみを押さえた。 「分かった分かった。いよっ! 聞いて驚いちゃいな、相手は第七師団、第二十七聯隊だ。確かこの街にそいつら率いてる将校が居たよな? ずっと見張られてるし、とっとと逃げた方が良いんじゃねえの」  なんなら一緒に逃避行でもする? と手を握られればやんわりと絡まりを解く。逐一距離の近い男である。とは言え史桜は白石の情報に一飯以上の価値を認め感謝の意を述べた。聞けばこの白石という男、脱獄囚だ。軍人に見つかれば困った事態へ発展するのは想像に難くない。だのに時を見計らって危険を報せてくれたのだ。  史桜は口辺に大人びた微笑を浮かべて自然と華奢な頭を下げた。己の置かれた状況は、なるほど、芳しくない。中尉へ向けた眼差しも揺らぎ始めている。だが見知らぬ人間の気遣いは故郷の余塵を纏い彼女を奮い立たせた。 「逃避行はしません。でも……教えてくださって感謝しております。その話が本当なら、わたしと居ると白石さんも彼らに見つかる可能性が高いでしょうに」 「綺麗なお姉さんのためならいーってことよ。でもあんまり驚いてないな。想定内だったとか? なあ――史桜ちゃん一体何やったの。あんなに付きっきりで監視されてちゃさすがの俺も妬いちゃうよ?」 「さあ……。どうして監視されているのか見当も付きません」 「ほんとにい?」 「白石さんのような脱獄囚ならいざ知らず?」 「くーん……」  彼女は黙して語らぬだけだ。小柄な身体に隠した気骨も、生まれ育った世界の知恵も、養家に託された願いも。過ぎた知識を無意識の領域まで落とし込め、自ら掘り起こせないほど深くつづまやかに口を閉ざしているに過ぎない。  だが何も為さぬことこそ彼らにとって罪だった。史桜は鶴見なら監視程度やりかねないと自嘲したが、心を吹き抜けた一抹の喪失感は誤魔化せなかった。優しい月島軍曹、前山、谷垣、三島なども果たして加担しているのだろうか。しかし史桜は裡を焼く憤りに知らぬ存ぜぬを通すことに決めた。僅かな綻びとて中尉の手に掛かれば一つに集約され暴かれてしまうから。  白石は麺つゆを飲み干すと手の止まる史桜を窺って明るく振舞った。 「あのさ。俺ァ学はねえけど、人生の大半を監獄で過ごした分だけ、やばい奴や抜きん出てる奴を見分ける力はあるつもりよ。あんたも、相当食えない女だろ? だから安心しな、そんじょそこらの軍人共がどうこう出来るたぁ思わねーよ」  坊主頭は白い歯を仄暗い室内灯に滲ませる。それから「あーあ。金塊狙いの野郎共が見張ってるなら史桜ちゃんも一枚噛んでるんじゃないかと思ったけど。ハズレかあ。一緒に逃避行したかったなあ」と独りごちた。 「金塊って何のお話でしょうか」 「例の噂話知らない? アイヌの埋蔵金。史桜ちゃんを監視してる第七師団が追ってるって噂だぜ。ま、あくまで噂だけど、さ。実際のとこは知らねえが、ほら何てったか……そう、例の鶴見って将校!」 「そういえば。前に鶴見中尉殿が埋蔵金について仰ってた気がしますね」 「そうそう、その中尉の――ってあいつ?! 知り合いかよ!?」  友人だと答えれば、友は監視なんてしない、と白石の癖に最もな意見が返る。史桜は心外そうに坊主頭を見瞠った。それが切っ掛けだった。弦が絶たれたように、鶴見から感じていた温もりは凡て作り物だったのではないか、月島との交流も嘘だったのか、等とめどなく疑念が溢れ出て警鐘を鳴らし始めた。  ――またわたしは独りに戻るのだろうか。  久しく失念していた寂寞がありありと脳裏に蘇った。しかし彼女は徒にそれを憂いたことはなかった。この世界へ放り出された瞬間から一人だったのだ、そういうものだと受け入れる克己心があった。  ただ昔と違うのは章介の存在である。二人きりの家族で居てね。そう笑って寄り添った特務兵は鶴見を敬愛している。しかし飄々とした態度に隠す底意はどちら側に在るのか。史桜は独りであることを厭じはせぬが、章介を喪えば本物の孤独を知るのだろうと他人事に予感した。  固唾を飲む史桜を見て白石が「一寸休んだ方がいいかもね。そろそろ出よっか」と苦笑すれば、引き絞られた弓のような時間の緊張がたちまち融解していく。 「史桜ちゃん宿探してるんだっけ。俺は遊郭に移動すっから、空いた部屋を代わりに使いなよ」 「そんな。悪いです」 「いーって。遊郭代と、あと俺の分の宿代払っておいてくれれば……ねっ?」  この男、単純に路銀を渋ってるだけである。聞けば蕎麦代もないのだそうだ。奢るとはどの口が言ったのかと呆れたが、今夜は彼の配慮に救われた面もある。何となく解せなかったが、せめてものお礼にと二日分の飯代を握らせては「博打に使ったら全額返してくださいね、いいですか」と二重三重に釘を刺して別れた。  宿の暖簾をくぐると先駆けて白石が話を通してあったらしい。預かってるよ、と飴玉一つ。路銀は持たずとも菓子を死守するあたり実に彼らしい。遠からずまた縁があるだろう――そんな泡沫の再会を期待して廊下を進んで行くと、時あたかも、神秘的な美女とすれ違った。目元には唐紅、赤とも紫とも見分けの付かぬ、それでいて鮮やかな装束に身を包むアイヌの女は史桜の顔を認めるや、つと袂を引き、 「そこのお嬢さん、貴女を占わせてくださいませんか。私は占い師をしておりますが貴女を視るべきと結果が出ました」 「お気持ちは嬉しいですが今は持ち合わせが……」  白石に路銀を分けてしまったので明日の朝食分しか残っていない。だがインカラマッと名乗る女が、自分の問題だからお代は要らない、暇潰しと思って聞いてくれ、と丸め込むものだから史桜は再び絆されて部屋へ上げてしまった。白石が仔狸ならば彼女は狐か。今日は野分に紛れて化かしあい合戦でも催しているのかと一寸笑って襟を正した。その傍らで豊満なインカラマッは黒々した頭に何かの骨を乗せ無自我の世界へ没入していった。 「あなた……大きな隠し事がありますね。ああ、ご家族から託された物ですか。けれど一つじゃないようです。あなた自身にも秘密があると出ています」  史桜が嗜みよく耳を澄ませていることを認め、占い師は刺青に染まる唇を妖艶に歪めた。 「ご家族から託された物はとても不吉な影を落としています。その穢れはウェンカムイ〈悪い神〉によって生み出され、ピリカカムイ〈善い神〉によって還される。けれどウェンカムイは『穢れ』そのものではないと示しています」  カムイとなれずに彷徨う、力ある物の集合体。それが穢れの正体だと語る女。占いと縁遠い史桜は意味が分からず困惑したが、彼女はただ自分の言葉で告げているだけで、あながち見当外れなことを言ってる訳でもないのだろう、と懸念した。インカラマッは重ねて最後のお告げと宣言する。 「シラッキカムイはこうも告げています――『あなたは既にして死人である』と」  世間体に照らし合わせれば君島家は悲劇の一家だった。だが彼らを喪って初めて史桜は自分が拾われた意味を理解した。それは旧士族の誇りを脈々と受け継ぎ秘する花に殉ずること。そしていつか彼らが亡くなることを予期した何者かが、受け皿としてこの地へ導いたのだと。  そこに真実など要らない。史桜がこの世界で生きる役目を見出し納得した、それが凡てだ。だがあの日得た己の死が本物であったなら――ここに居る君島史桜はあらゆる営みから外れた、唯々諾々と秘密を守護するだけの亡者ではないのか? かつて端境にある浮橋を渡りこの世界へおとなった史桜は吹き荒れる嵐の音へ夥しい恐怖を乗せて文殻の行方を思った。 序章完結/一章へ続く

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