悲台Day 1 本編・北海道編
-杉元-
第九話 雲の何処に
- くものいずこに -
小国に過ぎぬ日本が列強へ勝利し世界を震撼させてからおよそ一年半、君島家が互いに出会ってから二度目の春が睡たい微笑みを浮かべていた。アメリカではいよいよ日本排斥の気風が強まり、渡米を願う者にとっては忌むべき時代へと変貌しつつある。かくして杉元佐一もまたその流れに翻弄される一人であった。 杉元は一向に現れぬ砂金を疎んじて天を仰いだ。棚引く雲脚は、あるいは清流、あるいは花々へと少しずつ姿を変えて日輪の隣を流れていく。陽光は既に叢林の真上に昇り短く伸びた半身の影を水面へ落としていた。金襴なる光を浴びると手の及ばぬ大自然へ敬虔とも落胆とも似つかぬ嘆息が胸の裡で密めく。跳ねた滴が不意に痺れるような覚醒をもたらすや、突如として揺り板へ大きな亀裂が入り音を立てて真っ二つに割れてしまった。 「おいィィ! この板、壊れ物じゃねえか!」 「天はあんたの味方しないねえ」 「オッサンも黙って見てないで手伝ってくれよ」 「悪いね。今の俺ァ酒飲んで焚き火に当たってるのが好きなのさ」 人のことを貧乏だなんだと言いながら当人も正体不明な男である。剽軽に出張った歯は口の中でいきいきと輝き、右も左も分からぬ若者を導く言葉を野放図に発するも、折に触れて貪欲に光る瞬間があった。杉元はそれを見逃さず油断なく後頭部へ意識を置いた。 「仕方ねえな。さっき見掛けた山小屋で道具借りてくるか。タライ程度ならあるだろ」 「あそこに行く気なのかい、杉元さん」 「なんだよ。文句あんのか」 代替案を零すなり、酔いの回った壮年男がくつくつと喉を鳴らした。 「いンやあ。でも気ィ付けな。あそこに住むのはそりゃあ良い女だけどな、死に見初められてるって専らの噂だぜ?」 「まーた与太話が始まったよ」 まあ聞けよ、と酔っ払いは笑った。欠片も興がらぬ杉元へ熱弁を奮い始める。酒が入るといつにもまして饒舌になる男だが、常時酔っているだけ、情報源としては些か頼りない。余計な法螺を覚えても疲れるだけだ。杉元がそう無視を決め込むと背中越しに鬱蒼とした語り口が届いた。 「むかーしの話さ。北海道の開拓団には高名な一家が居たんだとさ。実子はもちろん全員が農学校卒の学士。こんなど田舎じゃ村長の娘や軍閥の娘しか通えないってのに、養女まで女学校にあたるミッションスクールを卒業させたと来た。本土出身の杉元さんでも、これだけで如何に影響力の強い一家だったか分かるってもんだろう?」 知識と教養のあった士族くずれが新天地へ移り住んだことで真価を発揮した。突き詰めればそれだけのことだった。だが士族として名を残さず、賊軍にも加担しなかったからこそ彼らの功績は素直に認められたのだ。翻って、戊辰戦争を戦い抜いた猛者にすれば彼らは腰抜け同然であり躍進を快く思わぬ輩も存在したと言う。 「そのせいかねえ。ある時、たった一人の養女と、籍を残したまま里子に出された末っ子を遺して、全員がおっちんじまった。病の進行が早すぎるだとか、旧士族の恨み辛みが募って殺されちまっただとか、当時は色んな憶測が飛び交って大変な騒ぎになったもんだっけ」 有力一家の突然死なぞ他殺の線を勘繰るのが常套である。しかし種痘を義務づけられてるとは言えワクチン効果は五年程度。アイヌでなくとも疱瘡に罹って死ぬことはままある事例で、天然痘による病死と断定されたのも極自然な成り行きだった。まもなくして一家共倒れの噂が北海道全域に伝わるとついに最果てへ囚われた罪人達まで知るところとなった。 顛末を知るや人々は口を揃えてこう囁いたものだ。彼らの移り香は嗅いではいけない、遺し子に触れてもいけない――その言葉通り人々は一家にまつわる凡てを恐れ遠ざけた。ちょうど杉元家が村八分にされた時のように。しかし語り部は嘯く、彼らが心から恐れたのは病魔などではなかったと。 「……はっ。疱瘡が怖くてその子を避けたんじゃないって? 病気以上に恐ろしいものがあるのかよ」 杉元の知る「彼ら」は病を恐れて差別をした。形而上学的な世界を飛び越え、さしずめ人智の及ばぬ呪いが杉元家を象って殺意を向けているとでも言いたげに。されど宜なるかな、そう感じていたのは外野だけではない。あの時の杉元は自分が梅子を殺す凶器となり愛しい首元へ刃を突きつけている錯覚に呑まれていた。だから病以上に恐るる物があると聞いてにわかに意識が明瞭とした。 若者は見返って神妙に耳を傾ける。お気に入りの関心を引いたことで酔っ払いは笑みを深くし、ややもして一升瓶を煽った。 「そうさ。やつらは天然痘そのものを恐れたんじゃない。『巻き添え』を恐れたのさ。仮にあの一家が旧士族時代の恨み辛みで殺されたとする。なら生き残った子供達もいずれは生かしておきたかないはずだ。片や、一家は外国人と仲が良かった。暗殺だ他殺だと下手に突ついて、海の向こうで発言力のある外国人学者を刺激したくなかったのさ。だからさね。巻き添えを恐れた軍部は碌な捜査もせず病死として穏便に済ませちまった」 後ろ暗い噂のある軍部のことだ、決定的な証拠を隠匿した可能性も否めない。今となっては真の死因が何だったのか分からずじまいである。実際に死体を確認したのは数人の兵士だけだったのだから。そう言い締めて男は歯の根の合わぬ身体を大仰に震わせた。 「で。その話に出て来た養女である一人娘が、今あの山小屋に住んでるのか」 「そう言うこった。その女がまた奇っ怪でよ。器量は悪くない、箱入り娘にしては強かだと中々粒揃いだもんで、とある将校が厚く目を掛けてるんだけどな? とんと嫁にも行かないと来た。しかもな……」 ここからが話の佳境だぜぇ、と男は声を低めた。 「冬になる前の話だ。俺がクソ不味い定食屋で隠れて酒を引っ掛けてるとその娘が入ってきた。噂通り小綺麗で賢しらそうな娘だったが、問題はそこじゃねえ。同行していた男だよ。ちょっとした裏の者でな、情報に聡い奴なんだが、そいつ曰く、その娘は兵隊さんに監視されているらしいってぇ話じゃねえか」 「はあーあ。随分と大風呂敷を広げたな。どこからどこまでが作り話だか、まったく……」 途端に胡散臭い話になった。あんたそういう話だけはうまいよな。と杉元は岸辺から上がり睨め付ける。時間を無駄にした気分だ。しかしそんな若者の反応に男は肩を竦めてぼやくのだ。 「驚いたね、杉元さん。ここまで聞いといて信じないのかい。ま、どう捉えようと勝手だけどよ。少なくとも一家の話は街で一寸聞き込みすればすぐに裏の取れる話だぜ」 一人娘が何に関わってるか知らねえが、あんたも下手なことしないほうが身のためだぜ。と忠告する男の顔は実に真剣そのものだった。 「……それは向こうの出方次第だな」 大人しくしていれば怪我をさせる積もりはない。ただ、差別を乗り越えて平然と暮らす人間の心理には大いに感興を唆られた。独りで辛かっただろうか。避けられて悲しかっただろうか。それでも今あんたは幸せなのか――彼女の目を真っ直ぐ見て問うてみたいと柄にもなく過ぎった。 * 山小屋は歩いて四半刻ほどの距離にあった。古びては居るが大所帯でも住めそうな大型の平屋だ。屋根に積もる雪は斜交いにして、長く放置されたか、押し雪崩れて地面と直に接していた。女手では雪降ろしも一苦労なのだろう。体裁ばかり整えた大邸宅よりよっぽど良いと戸口に立てば、変わった玄関飾りが釣り下がって、不思議と豆のような香りが鼻腔をくすぐった。その折である。目の前で引き戸が勢いよく開き件の女が姿を現した。彼女は貌を伏せて杉元に気付かない。と思えば要領の得ない言葉を漫然と機織るではないか。 「よし、お土産は持った。久しぶりだからコタンへの道覚えてるかな……こんな時スマホがあれば――あ」 「あ」 耳覚えのない単語に色を失っていると彼女と視線が絡まった。縷々と謎めいた言葉を紡いでいたその人は一拍置いて、小さく仰け反るなり袂の奥へ優しげな貌を隠してしまう。刹那に覗き見たそれは含羞に染まり忸怩たる思いを滲ませていた。杉元はなぜか彼女の最もあらわで官能的な部分、触れてはいけない部分を暴き、隠された肉の裡を弁えず撫ぜた感覚に陥って全身が粟立った。跳ねては打ち返す動悸に目眩を覚えて彼もまた口を噤むと水を打ったように辺りが静まりかえった。 「あのう。どういったご用件でこちらに……」 沈黙を最初に破ったのは女だった。緊張に上気する頬は柔肌をいっそう健やかに見せ四方四方へ生の彩りを放つ。切れ長の瞳は時折愁いを帯びはするが身の上を嘆く薄幸さはなく、日向の中で溌剌と迸っていた。杉元は宵待草のような恋々とした女を想像していたため、芯のあるまなじりに射貫かれて狼狽した。 「え。あ、ああ! 砂金取りの篩が壊れたから代わりになる道具を借りようと寄ったんだ。驚かせて悪い」 「そうだったんですか。わたしこそ支度に夢中で気付きませんでした、とんだご無礼をいたしました」 少し歪曲した板ですね、直ぐに探してきます、と来し方戻らんとする女の腕を間髪を入れず掴んだのは杉元である。 「いいや、出掛ける途中だったんだろ? 忘れて良いよ。迷惑にはなりたくない」 だが女はと言うと、言い含む体で目尻を垂らし、 「困られてる方が優先ですよ」と囚われた手を取りそのまま中へ誘い込んだ。立ち振る舞いはどこか艶めいてる。だのに杉元が抱く印象は機微の細やかさと人の良さだけである。どれだけ痛みを知ればこれほど真摯な瞳を持てるのか。いや、生来の強さだろうか、と杉元は言葉を失った。か弱そうなのにすくりと伸びた背筋が幼馴染みに重なって、この人も大概一筋縄ではいかないなと我知らず口角が上がってしまう。杉元が話の内に壊れた篩いを差し出すや、史桜と名乗った女は「似た物が納屋にあったかもしれません」と嬉々として手を叩いた。 「探して来る間に鍋でも如何ですか。他の方へ出した残り物ですけど」 「いやいやそこまでしてくれなくても」 「お腹の虫はそうは仰ってませんけども」 「あ~……すまない、本当は腹減ってたんだ。ご馳走になります!!」 小気味よい足音を立てながら鍋を火に、食器を並べて、裏口へ駆けていく背中へ杉元は居たたまれずに声を掛けた。 「ねえ史桜さんさぁ! 俺が言うのもなんだけど、こうやって見知らぬ男を易々と家にあげちゃ危ないよ!」 くぐもった笑い声が楽しげに家の中を駆け抜ければ「家族とお歳が近かったのでつい気が緩みました」などと軽くいなされた。どうも掴めない人だ。しかし史桜が噂通りの人物ならば、その家族やらは里子に出されていた末っ子だろうかと舌鼓を打った。遠ざかっていった女が足取り軽く戻って来ると、 「ありました。実家にあって、どうやって使うのか分からず取っておいたのです。砂金掘りに使えるのですね」 「そうそうコレっぽい板。借りていいの?」 「杉元さんに差し上げます。わたしが持ってても意味のないものですから」 史桜はほつれた黒髪を掬って白百合のごとき小首を傾げた。口振りから察するに金には困っていないらしい。どんな生活をしているのかと部屋を見渡せば分厚い本や器具が並んでいた。立って手に取れば所狭しと並ぶ文字は外国語である。付箋に亜米利加と綴られているのを見るに英語なのか。物見高かった米国という単語に色めき立ち、杉元はついぞ魅入った。 「史桜さんは学者さんなのかい」 すると彼女は面はゆく微かに口元を緩めて 「とんでもありません。陸軍の将校様から少し翻訳のお仕事を頂いているだけです。なにぶん、人手不足とのことで」 「へー。俺なんて読めない日本語もあるのにな」 大学校を出た将校、こと海軍ならば何カ国語でも流暢に話せよう。しかし陸軍下士官となれば必ずしも全員が外国語へ精通している訳ではない。将校や軍の手間を省きつつ外国人へ依頼する賃金もケチるとは北鎮部隊はなかなか吝嗇家であるようだ。もし十二分に金が入れば彼女を通訳に連れて行くのも一興だな。杉元はそう企み、女性を隅々まで知ろうとした。 ご家族ってご兄弟や姉妹さん? ええ、最近実家に戻って参りました。 でも今は一緒に住んでないの? はい、陸軍第七師団のお仕事で網走に居りまして。 そっか、つかぬ事訊くけど亜米利加の医者って会ったことある? もちろんです、西洋医学は進んでますので北海道にも度々招かれておりますよ。 そんな会話が蕩々と続く。それからまた家族の話に戻って、 「網走へ赴任して以来、電報が一度届いたきりですが、上司にあたる将校様へお尋ねしたところ息災だそうで。単に筆無精なのでしょうね」 まだ若いが良くできる子だ。優しくて部下からも好かれていると惚気話が滑らかに続いた。しかしその唇は、会えなくて寂しいのだと言葉少なに物語っていた。それが妙に可哀想で杉元は行きがかりに聞き込みしてみようかと申し出た。 「砂金が見つかるんなら網走でもどこでも行くつもりだ。ものはついでだろ。見つけたら声掛けとくし、頼まれておいて悪いことはないさ。だからその人の特徴教えてよ」 「杉元さん……。お気遣い痛み入ります。特徴、ですか。そうですねえ……細身で、兵士にしては少し伸ばされた髪。それから、ああ、そうそう、軍刀の代わりに大太刀を持っています」 「ふんふん。細身、丸刈りじゃない髪に大太刀か。分かりやすそうな奴だな。俺の知り合いにもちょうど……ん? いや、あれ?」 性格はどんなだとせっつくと、 「朗らかで誰とでも公平に接する子です。でも同僚の方には、飄々として、よく迷子になっていると聞きます」 「はーん……」 どこかで聞いたことのある特徴が並んでいく。顧みれば、戦後に「あいつ」も北へ行くと言い残していなかったか。杉元は軍帽の鍔に触れて緊張走った。 「史桜さん。俺たぶん大事なこと忘れてたわ。あんたの苗字聞いていい?」 「そういえば。ご紹介が遅れました、君島と申します」 「うんうん。やっぱりねぇ。そうだよねぇ」 その人間、知り合いどころか戦友である。マキシム銃の嵐を駆け抜け、息をするよう雁首を斬り落とし、人とは思えぬ膂力を見せ付けては戦場を凍り付かせたあの兵士だ。杉元が蛮勇なる鬼神ならば章介の戦いぶりはまるで一炊の夢――殺意なく戦場に立つ不気味な軍人だったと蘇る。彼は武者震いを抑えて、自分が元第一師団であること、章介は戦友であることを打ち明けた。 「戦友や家族って呼べるやつはみんな死んじまったけど、あいつのことはそう呼んで差し障りないだろうな。何度も助けられたし、俺も同じくらい助けた。会えばすぐ分かるさ」 助けたのは主に道案内に関して、であるが。とは言え喧嘩別れをしてから一切連絡を取っていない。しかしその件は喜びに破顔する史桜には黙っていよう。と、軍帽を目深に被り白い嘘の看破を防いだ。 「ま、あいつなら大丈夫だよ。まず死なない。章介は戦地にいる時も本隊に向かって突っ込んで行った後ふらっと消えてさ。あんな奴でもとうとう死にやがったかと哀れんでたら、二日後に涼しい顔で現れたんだ」 「そ、そうなんですか」 家族をよく知る友人の一言で史桜も詮方なしと心得たようだった。それからである。驚いたことに、杉元は「あいつの姉さんなら俺にとっても似たようなもんだ。気安く頼ってくれよ」と口走っていた。 「ではあなたもこの家を自宅と思ってお使いください。不思議ですね……あの子にも同じようなことを言われたんです。章介と杉元さん、いえ佐一さんは少し似ているのかも」 「ええ~? 俺とあいつがぁ?」 希薄な靄に包まれた山麓の、萌葱から桃、薄紅掛かった白を纏って微笑むこの人に、また会おうと意思表示したようなものだった。杉元は自分の行動に閉口したがたまさか何かが腑に落ちた。日露戦争中のことだ。章介はある時期から急に君島を名乗り始めたが君島史桜という人間を知るほど戦友の想いが身体へ染み入る気がした。 ――あいつはいつもそうだった。神の赦しにも似た確固たる居場所を探していた。 同時に杉元は理解する。史桜さん、あんたは今幸せなのか――この問い掛けに意味はなかったのだと。人生という過酷な戦場でかく在らんと微笑み、雲間の彼方に潜むであろう天の所在を指し示すその人は、居場所を作り出す人であれど、求める人ではないのだ。人殺しでも罵らず、道を外れれば導いて、剥き出しの自分をあるがまま受け入れてくれる史桜さんのような相手に俺も出会えたら。そんな心ざまを自覚しつつ杉元は彼女の人生へ深い畏敬の念を込めて黙礼した。
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