悲台Day 1 本編・北海道編
-尾形-

第十話 月宿るらむ

- つきやどるらむ -

 二、三日ほど前のことである。植民地戦争で成り上がった元イギリス帝国海軍の船長、要するに士爵某が来航するとの報告が上がるや、和田大尉は面倒事を鶴見中尉へ押し付けて逃げた。貴族にもなれぬ成金野郎が何の用だとぼやいたのは野間。わざわざ小樽なんぞに来なくて良いのにと恨み節を連ねたのは二階堂兄弟。そして玉井伍長へ「ナイトって夜のことですかね?」と問う岡田を背に、尾形百之助は億劫そうに弾薬を確認した。  ――刺青人皮とおべんちゃら、一体どちらが大事なのやら。  されど鶴見隊の暗躍には元手となるものが必要だ。かの英国紳士とやらはその為の金づるらしい。大方、君島家の海運外交網を引き継いだ相手なのだろうが金髭の下に皮肉った笑みを浮かべる男は健康そのもの。日に焼けた肌は士官学校を出たばかりの薩摩隼人を彷彿とさせた。  その隣、付き従うように傅くはドレス姿の女である。尾形百之助はこの時初めて女の洋装という物に相まみえた気がした。付言するとドレスそのものを見るのは初めてではない。本土時代も将校の奥方相手や舞踏館で腐るほど眺めて居た。しかし君島史桜のドレス姿は堂に入ったもので、本人の造りは普通であるはずなのに、一廻り大きいイギリス人と差し向かいても遜色ない物腰は際立って華やかな一方、只ならず女を画に填め込ませていた。  くびれを包み込むコルセット、見苦しいほど締め上げた下腹部を隠すよう肩に羽織るジャケットが柔やかなドレスの甘みを中和する。何年か前中央で流行っていた大きなバッスルは取れ全体的に整然とした容であった。史桜は右手で裾をたくしあげ、上半身だけを少し捻り、波路渡る春霞に煽られた御髪を空いた手で押さえていた。  黒々としたその目が路地裏へ潜む尾形一行を認めたかどうか定かではない。だが横顔に宿る恥じらいは何処へと成りを潜め、毅然と佇む後ろ姿は果敢に戦場を駆けた異母弟を思わせた。伍長が鶴見中尉へ合図を送ると上司は「見張りを続けろ」と鋭い一瞥をくれる。ただ闇雲に金を落とし、近代化の遅れた和人を蔑み、現地女を品定めする――そんな人間でも上手く操れば使い途はあるものだ。鶴見は紳士に握手を求め、 「サー・ジョン・コンラッド。何かあれば遠慮無くお申し付けください。我々はいつでもあなたの出資を歓迎しておりますぞ」と艶に肩を抱いた。それを史桜が格式張った口調で補足すれば男は涎を垂らさんばかりに落ち窪んだ瞳を輝かせる。相対すべき男には目もくれず、白い指先へ熱い接吻、口疾な外国語が続くので、女は気もそぞろだった。 「いえ、わたしはまだそのような予定は――」 「史桜君。彼はなんと? 小さくて聞き取れなかったのだが」 「大したことではありません。お別れの挨拶を、と仰っています」 「そうか。ではご機嫌よう、コンラッド閣下。また近いうちに」 「God be with you.」  鶴見中尉が馬車へ送り届けると不意に名残惜しげな腕が伸びた。史桜の腰へやんわりと手を回す金髭男は、薄地の綿モスリンをたっぷりとあしらい幾重にも重なった透いたひだを潮風にひらめかせては往生際悪く何かを囁いた。だが次の瞬間、鶴見中尉の手によって彼女が取り戻され「さっさと出せ」と荒々しく扉が閉じられれば喜劇染みた滑稽さだけが余韻に残った。 「連れていかれるかと……助かりました」 「あれでジェントルマンを名乗るとは大した厚顔さだな。全大陸のご婦人をあの調子で口説いて回っているのだろう。……しかしレディ・君島、彼にどんな睦言を囁かれたのかね。君を助け出したこの紳士に、褒美としてこっそりと教えてはくれないか」 「鶴見中尉殿、どうしてもお知りになりたいなら当ててくださいな。何だと思います?」 「こらこら、問い返すとは悪い子だ。そうだな――婚約の申し出か、ただの軟派か。ああその顔は前者だな」 「ご想像にお任せ致します」  和気藹々としたやり取りにたちまちやる気が削がれる。あの女も女だ。接待の仕事を任されたとは言え下衆に頭を垂れるとは何事だ。尾形には決して見せぬ一面に、自分が蔑ろにされた気にさえなる。ナイト爵の馬車を追って、伍長、野間、岡田が離脱すると、見分けの付かぬ兄弟二人と自分だけがその場に居座った。 「チッ」 「尾形上等兵、舌打ち聞こえちゃいますよ」 「知るか。あんな馴れ合い見せ付けられるために毎度こき使われてちゃ堪ったもんじゃねえ」  二階堂のどちらかが苦言を呈したが一刀両断する。途端に兄弟は額を突き合わせて 「でも、三島なんて史桜さんの洋装を見て喜んでたよな。なあ浩平」 「ああ洋平。彼女、ドレスのほうが違和感ない」 「うるせえぞ黙ってろ。中尉に聞こえるだろうが」  洋装姿の史桜には断崖へそよぐ薫風のように隔絶と自然体が同居していた。初めて見る姿であるはずなのにそれこそが本性であると錯覚する。親しんだ環境の成せる技か、彼女の精神がそうさせているのか、いっそ此方のほうが清々しいくらいだ。冷徹とも呼べる均整の取れた尾形の中へ、力尽くで従属させ得ぬ苛立ちと未知の知覚に対する拒絶が染み出していった。 「……頃合いだ。戻るぞ。あっちは玉井伍長達に任せればいい」  せいぜい互いに良い関係を結んでくれ。しかし去り際、尾形がその場を離れる直前に意識を澄ませるとこんな会話が耳に留まった。 「史桜君、ご協力感謝するよ。あの手の男には美しいご婦人の同席が効くのでね」 「相手役に選んでくださったこと光栄に思います。煌びやかさという面では中尉殿に敵いませんがお役に立てて何よりです」 「はっはっはっ。あの男にすれば私は顔面に傷を負った醜い将校に過ぎない。これで万事上手くいけば凡て貴女の功績でしょう」  ――いけしゃあしゃあとよく言うぜ。  中尉は別のネタを掴んでいる。それを使い裏で金髭男を揺するに違いない。尾形は呆れ返って潜伏場所を離れた。翻った白い外套は残雪に融け入り狙撃兵と世界の境界を曖昧にしていく。若いそら身の熱情も他者に向ける慮りも見出さぬその心は、僅かな瑕瑾すら許さぬ、ある意味で完璧な代物だった。だのにあの女の前に立つと夢にまで見た一場の祝福さえたちまち掻き消えて空っぽの自分を突き付けられるようだ。そのせいか隙間へ漂う微かな感覚、未だその水鏡に名はないが、孤高を守る清らかな史桜を認めるにつけ「らしくない」征服欲が湧いて出るのだ。  兵舎へ戻った三人は上官を出迎えんとする軍曹と合流した。ややもして背後に車輪の音、馬の闊歩。中尉達が乗り込んでいる馬車が停止する。遠回りして散策をしていたのか、月島に手を取られて降り立つ史桜へそれと分かる程度に眉根を持ち上げれば彼女は一寸身構えた。 「ありがとうございます、月島さん、二階堂さん。……と、尾形さん。いらっしゃったんですか」 「白々しいですね、史桜さん。私達の仲ではありませんか。また下の名前を呼んでくだされば良いのに」  わざわざ皆の前で揶揄すれば史桜は苦々しげな面持ちで 「結果が目に見えているので致しません」  つまり、毒を吐かれるのが分かっていると。語気を強めた彼女を物珍しく見遣る上官を後目に「私を弄んだのですか? 淑女は引く手あまたで大変ですね」と反応を窺ったが、死神は意気地の悪い笑みを浮かべるだけで「尾形百之助上等兵。史桜君が見知らぬ男に口説かれていたことに嫉妬し、八つ当たりするのは感心しないぞ」と威に満ちた戯れが落とされた。 「ぶっはァ!」  二階堂兄弟が堪える気もなく噴出せば、戒めるように軍曹が大きな咳払いを鳴らした。そんな同僚達を睥睨し「言い掛かりも甚だしい」と喉から出掛かる。しかし、それはここに居る誰もが――蓋し中尉本人が最も――あり得ないと理解していること。下手に取り繕えば却って墓穴を掘るかもしれず尾形は「失礼致しました」と無感情に敬礼した。 「うははは、これは傑作だ! 笑わずに居られるなんて軍曹こそどんな神経してるんです。なあそう思うだろ浩平」 「本当にな。尾形上等兵でも中尉殿には敵わないな、洋平。うははは!」 「二階堂、いい加減にしないか」 「構いやしませんよ軍曹。それより一等卒共……。明日の射撃訓練、死に物狂いで逃げてみせろよ?」 「お、尾形上等兵、それどういう意味ですか?」  お前達は仲が良いな、宜しい宜しい、と頷くは鶴見中尉である。確信犯はなんとやらだ。尾形は明日の訓練で誤射するかもしれないと宣言して部下を恐怖のどん底へ突き落とした。  さもありなん、上官を挑発したのは自分だ。やり返されたのは致し方あるまい。しかし問題は史桜である。小刻みに震える肩、腹を捩って涙を拭く姿を見るに付け無性にこの手で黙らせたくなる。いつまで笑っているのだ、と尾形が蔑んだ視線を投げると、物言いたげな史桜の瞳は気分を害すでもなく、きらりと潤って童のごとき純粋さに輝いた。  やがて解散となり二階堂は報告を、軍曹は中尉と執務室へ姿を消す。尾形は立ち止まって一考してから帰り支度をする史桜へ声を掛けた。 「史桜嬢様はよほど撃たれたいと見える」 「そんな怒らないでください。……ごめんなさい。尾形さんって意外に楽しい方だなと思って」  生真面目を装うも目は笑っている。のみならず過去の会話で切り返すとは転んでもただで起きぬ女らしい。どうやら末っ子と出会ってから史桜は喜怒哀楽が瞭らかになったようだ。否、元から豊かな感性を持っては居るが固く閉ざしていたと言うべきか。この変化すら見透かして君島章介を利用したとすれば鶴見中尉はやはり只者ではない。感情を読みやすくなったのは操るに良い兆候だと尾形は先の出来事を水に流し、白い日傘を奪い取った。 「雨も降っていないのに傘とは優雅なことですね。お荷物お持ち致しましょうか、レディ」 「その呼び方は勘弁してください。お恥ずかしい……」 「ははっ。良い気味ではありませんか」  洋装に日傘は付き物、淑女達は大衆に品ある面立ちを晒さず神秘性を保つものだ。 「にしても、ドレス姿のあんたとは槍でも降るのか。鶴見中尉殿から贈られたものだろう? 史桜殿は誠に良いご身分で羨ましい限りだな」  不躾に爪先まで品定めすると史桜は召し物のひだを手繰り寄せて、国外の人間と面会する時は肌を見せる訳にいかないのだと渋面した。こういった仕事の時は洋装を心がけているらしい。そう説明する史桜は言葉を続けて、 「この綺羅衣はアメリカ人の旧友から頂きました。あちらでは流行遅れだとかで処分する予定だったものです」  何でもかんでも中尉殿に結びつけないでください、と口の減らない女である。なるほど、海の向こうから持ってくるとなればそれなりに手間と時間が掛かる。文明開化に馴染んだ上流階級か独自の交渉網がある身分でなくば文字通り手は届くまい。はだける着物が淫らと幾ら非難されようと民草は和装を着続けるしかないという訳だ。  すぐる春の白昼に未だ咲かぬまろやかな花の香が漂っていった。その頭上、いかにも怜悧な空色は異母弟を射貫いた鉛玉に似ていたが、同時に史桜の裡へ閃く白刃とも重なった。 * 「――ところで尾形さん。なぜわたしの家にいらっしゃるのです?」 「月島は良くて俺が駄目な理由があるのか」 「特にはありませんが……」  どうせ、お前とはそこまで親しくない、と訝しんでいるのだろう。言い得て妙だ。尾形自身もそんな事これっぽちも思っていない。彼は一寸思案し、ならば親しくなれば問題ないのだと得心した。 「飽きたんだよ。くだらねえ監視に」 「はい?」  今日の監視は尾形が担当である。谷垣が来るまであと数時間、誰にも見つかるまい。 「暦は春と言えど外はまだ冬だ。こんなクソ寒い中、一刻も座って監視なんかしてられるか。戦地じゃあるめぇしよ」 「つまり……尾形さんは温まりたいんですね。ええ、それならどうぞどうぞ」 「違えよ。話聞いてたかあんた」  半分違って半分合っている。それでも見当はずれな回答は意図的だろう。今までの発言とてどこまで真意か分からぬものだ。俺を相手にして肝の据わった女だと何度目かの嘆息を漏らした。だが物騒な話にも動転せぬところを見るに監視の件は知っていたと考えるべきだ。尾形は瞼を下ろし、衣擦れに耳を澄ましては火の爆ぜる音に精神統一すると、 「なあ史桜さんよ。あの日、誰があんたを監視をしていたと思う?」と唐突に斬り込んだ。 「御託はいい。知ってんだろ、鶴見中尉が君島家を探っていること」  ひたと見据えて目を逸らさぬ女。分からないなら理解し易くしてやるよ、と出し抜けに組み敷くと、背部を強かに打ち付けた彼女が小さく呻いた。そのまま加減せずコルセットを膝で押さえ付け細い顎下へ手早く銃口を突きつける。 「あんたには残念だったが、あの嵐の日、監視を任されていたのは俺だった。まさかこの眼から逃れられると思っては居るまい?」  だとしたら随分と舐められたもんだ。尾形がそう紡げば呼び覚まされたであろう半年前の出来事。潮が引くように色醒む女へ尾形は溜飲が下がった。 「あんたが監視から逃れたのはあの日が初めてだったな。それまでは知っている素振りすら見せなかったのに。けど、少しして発見すると、あんたはある男と密会していた――それも脱獄囚と。飯代、宿代まで払ってたのを見るに良い情報でも教えてもらったか。さしずめ俺達があんたを監視しているってとこだな?」  観念したのか、史桜は「白石さんに危害を加えないで」と声を絞り出した。自分の命より囚人の命乞いをするなど何を考えているのやら。しかし緊張が漲り浅い息を繰り返す女に戦意喪失と見た尾形は、凶器をそのままに、傍らへ膝を付いた。 「無理な相談だな。あいつは刺青の囚人だ。俺を止めたところでいずれ誰かが殺して皮を剥ぐぞ」  罪人が一人減ったくらいで困る人間なぞ果たして居るだろうか。 「誰が生きるべきか、死ぬべきかを決めるのは俺じゃない。死ぬ時は死ぬ。それだけだ」  史桜は、なぜその話を自分にするか分からないと言った面差しだった。尾形はふいと目を逸らし、一方通行なまま長広舌を奮っていく。言っただろう、退屈な仕事に飽きたと。しかし中尉に付き従う限り監視任務は続けなけりゃならん。それならいっそ打ち明けてしまったほうが仕事が楽というものだ――。しかし間を置かず尾形は自分の言葉へ反駁した。 「だが、俺が独断で動いていることを中尉に告げ口すれば殺す。家族の章介に話しても両方殺す。あんたが君島家の秘密を持ってる重要人物だ? 生かしておかないと秘密が失われてしまう? はっ、そんなもの俺の知ったこっちゃねえよ。中身も定かじゃねえもんに命を掛ける気は無い」  俺にとって要点は一つだけ。利用価値があるかないかだ。と冷たい眼差しが突き刺さる。 「……尾形さんは、わたしにその価値があると?」 「癪だが鶴見の誑しに堕ちなかった人間は数える程しか知らんもんでな」  横臥する女を冷淡に見下せば黒曜石へ虚ろな男が映っていた。こんな状況ですら屈せぬ瞳を通して自分の姿を認めれば空しい身体でも朧月へ手が届く気がした。その目は一つの宇宙であり、理知を越えた世界の輝きに満ち溢れていたのだ。史桜の指尖が尾形の瞼へ触れて、こめかみから目尻、頬骨、顎に掛けて爪が辿る。その手が男の指尖へ辿り着くと、彼女は細く息を吐き出した。 「そうですか……お話は概ね分かりました。安心してくださいな、尾形さんを密告する気なんてありません。ですが同時にわたしには守るべきものもあります。だから――わたしは、誰の言いなりにもならない」  でも、と謳うように続く。 「百之助さんが助けを求めているならお力を貸すことは出来ます」  柔和な声が耳朶を打てば思い掛けず鳩尾の痺れが蘇った。相も変わらず杳とした女である。だからこそ中尉も掴み兼ねているのだろうが、しかし裏切られる予感はなかった。尾形は三十年式歩兵銃を外し、それほど言うなら期待してやっても良いかとほくそ笑んだ。 「ああ……。史桜。序に一つだけ教えておいてやるよ。君島章介に関わるなら用心しろ。旅順で共に戦った俺に言わせりゃ、あんなの人間とは呼ばねえな」  身を起こす女の傍らで引鉄に力を篭める。だがその弾が彼女を貫くイメージは不思議と湧き起こらない。この時尾形の脳裏にあったのはただ、幼き頃に銃身を透かして見た暁の光と、彼女に潜む星の瞬きだった。

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