悲台Day 1 本編・北海道編
-門倉-

第十一話 鳴くや霜夜

- なくやしもよ -

 木の芽時を迎える樹木が仄白い雨の沙羅越しに鬱蒼と霞んでいた。かと思えばけぶったような薄月が顔を出す。広漠とした夜空の下、凜とした白へ身を包む門倉看守部長は路端に座す歳若い軍人を見出した。  ここは最果ての地、網走監獄である。希望を萌す草木なき感情の荒野、囚人達は冷たい石像の彼方に繋がれて佳人を呼び起こす美しい牡丹も、滑らかな葉を太陽にてらてらと映す芳しい桜も届かぬ鉄の檻を毎日眺めている。看守ですらこれと言った楽しみはなく、荒武者相手に日がな一日を潰す門倉は腫れぼったい瞼を細めた。 「おいそこの軍人さん。この間コタンの盗人を捕まえた奴だろ。名前はなんだったかな……ああ、君島君島章介だ」 「どうして私を知っているんですか? 名乗らなかったのに」 「そりゃ俺は看守部長だし? ここには監獄があるし? 犯罪について詳しいのは当然」 「あー……」  間延びした返事が返る。北鎮部隊にすれば強盗の一人や二人捕まえたところで武勇伝にもならんのだろう。あまり吹聴してくれるな、と言った塩梅でその人は飯盒を開け、霧雨の中、握り飯に食い付いた。 「アイヌの村なんかで何してたんだ。兵隊さんが商売でもやってる訳?」 「飯屋から宿に帰ろうとしたら迷子になっちゃって。助けてもらったんですよ」  しかし門倉が今し方歩いて来た闇を見返れば枝分かれのない一本路が続いている。 「こんな場所のどこに迷う要素があるんだよ」 「うう、それは言わないでください……」  朗らかな軍人は図星を指されて項垂れた。戦争帰りで荒んだ兵士も多いのになかなか愛嬌がある人間だ。犯人収監の折りアイヌと相当親しく見えたが話しぶりでは網走に来て日が浅いのだろうと分析した。とは言え、こんなところで君島家の人間に会うとは思いも寄らず、門倉は狸にも似た傍若無人さで其れをとっくり眺め尽くした。  君島家、新天地で運良く花開いた旧士族の名も無き一家。  君島家、戊辰戦争に参加せず尻尾を巻いて逃げた腰抜け。  幕府に忠誠を誓った元同志達はかの名を聞くや散々な言い草で馬鹿にしていた。よしんば門倉の父親が正反対の意見を持っていたせいか、当の門倉はさして悪印象を持っていなかったが。 「お前、あの『君島』だろ。親御さん残念だったな」  北海道に住んで居れば顛末はいやでも小耳に挟む。膨大な遺産はどうなるのか、嫡子が居ないなら取り潰しか、浅見に満ちた市井は好き勝手に巷談したものだ。しかしまもなくして民草の詮索は止み――表立っては――真相は闇に葬られた。後に顧みると、当時はさほど気に留めなかったが、事態の収束が異様に速かったと気付いた者は数えるほどだったろう。  門倉は数奇な運命に巻き込まれた一家に哀悼の意を示しつつ肩章を視認した。第二十七聯隊。典獄が要注意と挙げていた部隊だ。さりげなく視線を戻しては乾いた唇を舐めて 「あんたより歳上の女の子居たよな。元気でやってる?」と話の接ぎ穂を探した。 「ええ、姉さんも息災です。けど独りで山奥に居るから心配で」 「そうか。今からでも電報送ってやったらいい。……ま、そうは言っても、兵隊さんは忙しいよな」  刺青囚人の探索で――などと口を滑らせはしまいが折しも犬童典獄から下された理不尽な命令を思い返した。第七師団が金塊集めを開始した、あの凶悪な津山も殺され捜索の手が伸びている、見つけ次第即刻殺せ。そんな内容だった。  しかし兵士を殺せなどいとも簡単に仰るが相手は職業軍人である。すったもんだしたところで勝てる気がしない。  ――いやあ、コレ無理でしょ。でかい刀背負っちゃってるぞ。  廃刀令が発令されたにも拘わらず大太刀を帯刀する若者に闊達な老人が重なった。あれほどの腕前を誇る人間はそうそう居るまいが用心に越したことはない。門倉が胃痛を耐えていると視線に気付いた上等兵がくしゃりと笑った。 「政府から帯刀許可は出ています」 「あーうん? それは良かったなー」  問題はそこじゃないんだけど? とも突っ込めず。どこか能天気な軍人に好感を抱いてしまったが、看守としてこの地へ留まった日月を思えば命令違反は凡てを水泡に帰す愚行である。仮初の忠誠心を見せ付けるため、門倉は飲みに誘う体で章介を人気ない廃屋へ誘い出した。葉叢の陰に部下が数人、ひとたび合図すれば奇襲は成るはずだ。門倉は号令となる大仰なくしゃみを落とした。  次の刹那――仰臥して霧らう夜空を見上げていたのは何故か門倉であり、彼は視界の端で頭上を掠める爆薬を肌で感じた。  爆風が視野を覆うや噎せ返るような煤けた臭いが辺りを支配する。君島章介に足払いされたお陰で難を逃れたのだと看守部長が心得るまで大した時間は要しなかった。それから情勢を把握せんと身を起こせば「そのまま伏せてて!」と章介の怒号が飛び交った。 「え? 待って、なんで俺が狙われてんの? 運が悪いにも程がねえ? ――って、あいつら」  息つく間もなく姿を現したのは鍛え抜かれた北鎮部隊だった。屈強な兵士らは、奇襲を狙った看守を悪業のもとに下していく。こんな状況で抗おうと言う気概は門倉にあるはずがなく。彼は諸手を挙げてあっけなく降参の意を示した。 「参った参った。何もしねぇから乱暴はやめてくれな」  ふと章介を見遣るとどういう訳かその人も狼狽しているようだった。どこか動きに精彩を欠く特務兵士は滑らかに門倉の隣に移動し、彼を庇う格好で同業者と対峙した。 「中尉殿の部下か。お前達、いつから彼の後を付けていた」 「ずっとです。典獄に怪しい動きがあったので僭越ながら鶴見中尉殿の命で護衛を兼ねて偵察をしておりました。向こうに仲間がまだ控えています。現場の判断は特務上等兵殿に任せるとのこと、どうぞご命令を」  なるほど、私も見張られてたって訳か。門倉は彼の唇がそう象ったのを見逃さなかった。 「分かった。許可するまで看守部長へ危害を加えないように。その銃も下ろしてあげて」  すかさずその人はこちらへ手を差し伸べ、 「手荒な真似をして申し訳ないです、門倉さん。しかし部下の話が正しければそちらも我々を狙っていたようですね。典獄の命令によるものですか?」 「ちっ。そうだ。俺だって危ない橋は渡りたくねえけど命令されたら仕方ないしな」 「あはは……。典獄に忠誠なんて、門倉さんの柄じゃない気もしますけど」 「嬉しいこと言ってくれるな。やっぱあんた嫌いじゃない。だけどもし俺がこう言ったらどうかな?」  ――ここまでが表の顔だ、って。  前触れなく林の奥で雷〈らい〉のごとき悲鳴が轟いた。茂みを掻き分けて転がり落ちる残党兵士。続けざま、矢継ぎ早に雄叫びが上がれば暇掛かる間にその場は昏倒する男達で埋め尽くされていった。  ややもして音が止み模糊とした暗がりから白髪の老人が出でると、朱奔る刀は闇に沈んで、犠牲者の呻吟だけが暮れなずむ雑木林に満ちていく。その人こそ門倉が真に忠誠を誓う御方、土方歳三である。第七師団の登場は予想外だったが、打ち合わせ通り章介を連れ出した旨を告げると、存じ寄らず眼力鋭い老人は 「ご苦労。息のある者は適当に縛っておけ」と部下を慰労した。  片や前後不覚のまま銃口を定めるは君島章介上等兵である。その兵士は門倉の呼びかけで珍客の正体に気付くと二人を代わる代わる見比べた。そして得物を降ろした時、冬の侘びしさを残す低い暗い雲が開け、柔らかな狭霧も止んでいた。 *  一房刷いたような衰えが肌を侵し、しかし何者も恐れぬひろびろとした精神が土方歳三の裡で天衣無縫に吠えていた。たしかな五感、狂気と紙一重に時代の流れを見据える瞳を見るに付け門倉は深い敬愛を抱いたものだ。齢七十にしてなお健脚な老人は廃屋の座敷へ立ち入り「君島章介。お前、中央の子飼いと言われていたらしいな」と柔和に語りかけた。 「まだそちらと繋がっているのだろう」 「誤解でございます。自分は既に中央と縁が切れています」 「あくまで白を切るか。まあ、どちらでも構わんよ」  畏まって佇立する章介を仰いで土方は目元の皺を深くした。 「なんとなれば、以後はこちらと組んで貰うぞ、章介。第七師団の情報を流せ」  すると章介は迫る夜の帳へマッチを擦り、ランプを灯しては人を食ったような面持ちを一寸歪めた。 「土方歳三殿。この身は明治政府、及び大日本帝国陸軍に忠誠を誓っている身です。中央政府と相対するあなたでは、どんな交渉も無意味かと存じますが」  一方の老翁は感興深く眼光を閃かせる。 「違うな。本来、貴様はこちらの人間だ。何より軍以上にもっと大切なものが在るだろう?」と深長に口角を上げた。章介は呆けた顔で小首を傾げたが、意図を飲み込むや否や口元を一文字に結んだ。だが函館戦争を生き抜いた新撰組副長にその手の気迫は通じない。老爺は、お前のような血気盛んな軍人が欲しいと喉を鳴らした。 「話を聞け。逆だ、こちらに付けば大切な姉貴を守ってやると言っているんだ」 「意図が分かりません。鬼の副長が金塊に関与せぬ一般人を助けて何の利益が?」  体の良い人質の間違いでは、とまで漏らせば、すかさず反論を受ける。 「ならば問おう。君島章介、今の彼女が第七師団の人質ではない、と胸を張って言えるか」 「それは……」  土方は断言した。私は彼女を決して贄にはしない。永きに渡る同胞だからと。その口振りから翁が君島家の秘密に関する情報を持つと察したのか、章介は老人に筋向かいて居直った。すると土方は交渉の余地有りとほくそ笑み、今からその理由を話そう、とさわ立つ水面に石を落とした。 「さて章介。お前が実家について知ったのは鶴見中尉に教えてもらった後か前か、どちらだろうな。どこぞの恩人に家族のことを聞いたと触れ回っているようだが、時に真実は複雑なものだ」  徐に老人は一通の封筒を差し出した。日付は君島家が病死するひと月前。先日、章介が監獄でしたためた書類と驚くほど筆跡が似ている。 「お前の実父へ宛てられた手紙だ。没収されんようある奴が隠していたのを、私が探し出した」 「どうやって手紙のことを……?」 「ふ。甘く見てもらっては困るな、童。お前が想像している以上に同志は居るのだ。手紙一つ探るくらいは訳ないさ」  諧謔を弄さず直条な応酬が続く。門倉の見立てでは、土方に章介を欺く気はなさそうだった。 「わざわざ中身を読み上げる必要はなかろう。如何にも、この手紙を書いたのはお前なのだから。だが門倉には一読の価値がある」  投げ捨てられた手紙に章介は見向きもしない。片や読めと勧められた門倉は好奇に駆られて拾い上げた。薄紙にライラックの香りが漂う。史桜と出会った頃、近くの女学校にも藤に似た薄紫の花がたわわに咲染めていたのを懐かしみながら包みを開くと、そこには、ある子供の切々とした願いが綴られていた。  ――父上、母上、私のことを憶えておいででしょうか。風の噂で体調を崩されたと伺いましたがお加減はいかがですか。兄弟や姉様は、ご無事なのですか。次の戦争が始まる前に一度で良いからお会いしたい。生まれた地に戻りあなた方と同じ朝焼けを眺めたい――  姉兄を慮り、再会を願う。親の顔も知らず里子に出されては盥回しにされた幼子の往時を偲べば思いの丈も納得も出来た。門倉が神妙に頷くと、大きく豊かな眼差しを持つ老人は白刃を掲げて、 「投函日付は戦前だ。思えらく君島章介は幼い頃から実家について聞き及んでいた。家族について詳しい情報も持っていた。戦時中に鶴見中尉から初めて生家の事情を聞いた、という貴様の言い分とは相容れない事実だ」と詰問した。であるなら何故章介は周囲を欺く必要があったか。土方の見識は以下のような物だった。  章介が恩師と呼ぶ鶴見中尉はかねてより君島家に興味を示していた。それを知っていた特務兵は戦いに紛れて近づき自らを隊へ引き抜くよう誘導したと。 「その話だと私は第七師団を欺く敵ということになりますね」 「ふん……敵にわざわざ秘密を探るよう唆す必要があるか、という顔だな。その答えも簡単だ。真実を暴けそうな人間を見つけ、機を見て奪い取れと命を受けているのだろう? だが同時にお前はそれを政府に対する牽制としても利用している。お前にとってはそれすらも真似事だろうが」  真似事と聞いて門倉は土方の言わんとすることを理解する。つまり端から君島家の情報をどこにも渡す気はないのだ。 「お前の目的は敵の懐に入り状況を律すること。悪意ある眼差しを姉から逸らすために。その証拠に鶴見中尉も中央も未だに有益な情報を掴んでいない」と、射るような独特の光が土方から迸った。新政府を倒さんと陰々に寝刃を合わす老人は壮健にして、歳降る柔軟さが色つや良い激情と手を取り合い、貴賎の別なく見る者の魂を熱に浮かした。生涯掛けて仕える門倉も例外では居られず、冷ややかな章介の魂が燃え盛る瞬間を見逃すまいと目を凝らした。 「最も、私とて人伝いに一家を知ったに過ぎん。お前に関することもあくまで推測の域を出ない。……だから章介や、少し昔話をしようじゃないか。名もなき士族が北海道で成功するまでの、な」  かくして土方は問う。維新すら乗り越えられなかった落ちぶれた一族がどうして地獄のような新天地で成功を収めることが可能だったのだろうと。 「考えてみたことはないか。影の薄い一族という肩書きへ甘んじた、その程度の郎党が、棲む水を変えただけで万事上手くいくものかと?」  賊軍に与しなかったから、というのは理由にならない。戊辰戦争に加担せず屯田兵となった一族は決して珍しくないのだ。だが、その中で頭角を現した者は思いの外少ない。ならば考察に値する答えはおのずと限られてくる。実力なき無名の士族――その前提こそまったくの偽りであると。  曰く君島家は相当の実力者だった。だが忌むべき日に備えて歴史はその事実を長年に渡り隠蔽し続けた。一家は偉人の影に潜み、新政府へ頭を垂れる屈辱に耐えながら目に見える仇を敵前へ差し出して味方をも欺き続けたのだ。 「我々が新政府との負け戦へ赴いていた時、君島家は血走る嗟嘆に耳を塞ぎ、未だ開墾されぬ苛酷な新天地へ先駆けて名乗りあげた。そして地域を興して来るべき日のために地盤を固める決意をしたのだ。確かにそれは仲間を見捨てたも同然であり、冷酷な所業かもしれない。だが戊辰戦争の裏では一族による孤独な戦いが続いていたのだ。尻尾を巻いて逃げた等とどうして責めることが出来る? 奇しくも、いまの我々は彼らが築いた恩恵を受ける身であるのに」  土方は来し方体験した戦争に想いを馳せて願い果たせず喪われた命へ憐憫を込めて密めいた。なればこそ君島家亡き後、その使命を一人背負い続ける君島史桜へ敬意を払っている。 「章介、よくよく考えることだ。お前の姉である史桜を真に守ることが出来る者は誰なのか。……差し当たっては、今の立場を柔軟に使え」  章介はただ黙って老人を窺っていた。だがその目には並々ならぬ色が皎々と輝いていた。その人は土方の憶測に一つとして応諾せず赤心あらわにしなかったが、行く末を見定めた表情は理性の礎に築かれたものであり、北へおとなった軍人の意志がなまなかなものではないと雄弁に物語っていた。  折に触れて門倉は思い出す。君島家の養女、史桜も透いた横貌へ旺んな炎を宿していたと。異なる血筋、異なる環境で離れ離れに育った家族は、畢竟、同じ場所へ帰結したのだ。だが章介本人も未だ秘密の片鱗を掴んでいない。察するに現在この地でそれを知るは土方歳三、君島家当主が手紙を託した人間、そして君島史桜だけのようだ。 「……で、土方さん。縛り上げた奴らどうしますか。典獄は俺の証言でなんとかなりますけど第七師団には怪しまれますよ」と門倉は声を潜めた。 「看守と相打ちと言う形で片付ける」 「ああ、なるほどね。そりゃいいッすねえ」  門倉としても此処でしくじれば役立たずの称号に箔が付くので否む理由はなかった。溌剌した老爺が門倉を一瞥すると、狸爺は意図を察して背を向けた。 「急所は勘弁してくださいよ。あなたほど丈夫じゃないんで」 「ふっ。狸が何を言うか」  背中の逃げ傷ほど己らしいものはない。そう自負するも痛いものは痛いのだ。やまやまながら彼が腹を括ると刹那に鋭い痛みが走り、崇拝者から与えられた刀傷の苦しみに脂汗がどっと噴き出した。 「痛ってェ!」 「男児たるもの耐えよ。後片付けをしたら我々もここを離れるぞ。門倉、お前は治療を受けて犬童に報告しろ」  歯を食いしばり素早く応急処置を施していく。心底案じている様子の章介に強がって見せ、虫の息の部下を抱えて足を踏み出すと、上等兵が途中まで支えてくれた。やがて命からがら救援を叫べば、別れ際、旧士族の志を継ぐべき若者へ「土方さんを信じろ。大丈夫だ」と混沌に身を投じる君島家の生き残りを勇気づけた。その傍ら、霜付く夜半に年若い部下の灯が薄れゆくのを感じ、血の涙を呑んで彼らの分まで生きようと肝を据えた。

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