鍾愛point 0 System Down
-林藤-
第五話 アザミの花も
支部扱いとなった玉狛のトップに俺が配属されるより随分昔のことだ。界境防衛機関が発足してまもなく――と同時に頼りがいのある先輩がボーダーを抜ける少し前、忍田へ妹が産まれた。年の離れた妹は兄と同じ黒檀色の御櫛、瞳は陽光に淡くさんざめき、器量良しな娘が産まれた。と月よ星よと褒めそやしたものだ――というかそう言わないと忍田が怒った、面倒くさいやつめ――未だ独身だった俺もよく遊んでやった記憶がある。 そんな兄妹は道行く年下男子から大量のぼんち揚を譲り受け、仲良く山分け作業を続けている。それを尻目に、俺は手伝うわけでもなく、土産として購入したベリータルトの一角をフォークで突き崩した。 「うん、美味いな」 「待て林藤。先にぼんち挙げを処理しよう」 「おー。俺は遠慮するよ。家族で仲良く分ければいい」 「食べたくないだけではないのか……? 史桜がおなかを壊したら困るだろう。林藤も持ち帰ってもらいたい」 宵の口まであと少し、脈略もなく忍田家へ襲来した俺を快く厚遇した史桜と、団欒の時間を邪魔されてむくれる男を相手に片頬が引きつる。どうしてこう、兄貴という生物は余計な心配事ばかりするのか。本部で配れば事済むじゃねえか、と反論すると、「貰い物だもん」ときっちり自分達で処理せんと意気込む妹へ、忍田譲りの生真面目さを垣間見た。まったく……その割に俺を巻き込む気満々なのが遺憾である。 忍田史桜が近界に攫われて数年。そして、三門市へ生還して更に何年か経つ。初めこそ兄へ遠慮していた彼女もすっかり「忍田真史の妹」が板に付いている。翻って兄貴も心の整理が付いたのだろう。大人びた、いや、人格が変わったようにさえ思える妹に混乱することも減った。他人のそら似では済まされぬ失踪少女へ生き写しの彼女――その姿を具に観察して、多少雰囲気が変わったのは致し方ないことだ。と俺は旬物で着飾った焼き菓子を気怠げに口へと運んだ。 「そうは言ってもなあ。せっかく俺が一時間並んで買って来たのに、誰も食わないんじゃ勿体ないだろ」 折良く忍田妹と視線が絡まる。俺は間抜けな顔のまま固まること数秒、一寸遅ければ胃液に溶けていたそれを、紳士的かつ大胆に差し出した。 「って訳で。ほら史桜、口開けてみろ。あーん」 「え」 「……林藤」 こういう時の二人は息がぴったりだ。かねがね呆けた、いや失礼、冷静な妹はつれなくぼんち揚げを咥えたまま、宙に浮く三つ叉を見詰めている。その背後では青筋立った猛虎がかよわい俺へ睨みを利かせているのだ。 ああ優しくない。俺に、優しくない。武闘派の兄貴とオペレーター派の妹、そこかしこと相違点の目立つ彼らだったが、この一点で忍田兄妹は非常に似通っていた。もっとも沈黙を武器とする史桜の場合、孤月旋風を放ったり怒声を浴びせたりしないので穏やかさが滲み出ている。兄貴と二人暮らしを続ける少女は際立った才能に欠けれど俺や最上さんにとっても可愛い妹同然だった。 「ほれほれ。小南イチオシだぞ。食わないのか?」 「本当? コナミちゃんの?」 「小南の名前で釣るな、林藤」 忍田家からあわや摘み出され掛け忍田兄貴と水面下の攻防を繰り広げていると、史桜がぼんち揚げを配分し、綺麗に口を留めた一袋をこちらへ寄越した。涼しい顔してないでちっとは兄貴を止めたらどうだ。そう思いきや打って変わって上機嫌にタルトを取り出す彼女。己の取り分をいそいそと死守、これは美味しい、果物の産地がああだこうだと頬を綻ばせる姿はどこにでもいそうな少女に見えた。 ……いいや、語弊があったな。訂正しよう。事実そうだったと。 彼女は生い立ち以外、往々にして平凡であった。そんな彼女がどうして近界へ攫われ、そして無事に帰還出来たのか。偶然の名を騙る不可視の意思が少女を生かしたとしか思えない。 「あ、これとても美味しい。今日は林藤さんが来てくれて良かった。ありがとうございます」 「へえ。そりゃ口直し出来て良かったって意味か。それともぼんち揚げを押しつけることが出来て良かったって意味か?」 「あはは。両方って言ったら怒ります?」 そこは適当に「夕飯ご一緒出来て嬉しかったから」とか世辞言っとけばいいものを。この兄あればこの妹あり。俺は愉快げに喉を鳴らし「これに懲りたらもうぼんち揚げなんてもらってくるなよ」と食器を片付けた。 「それがな……箱で届いたんだ」 「箱?! すごい小学生もいたもんだな。並大抵じゃないぼんち揚げ愛を感じるぞ」 どこのどいつだよ、こんな大量に煎餅もどきを買い込むのは。夕飯のカレーライスとぼんち揚げ、生クリームの香りが一緒くたに混ざり、無気味な不協和音を練り上げていく。胸焼けする臭いに渋面した兄貴はベランダの窓を開けて暮れなずむ夕焼けを招き入れた。気がつけば東の空は疾うに帳が落ち、西側へ向かって紺碧が流れ出でていた。 血濡れた空、逢魔ヶ時は黄泉の扉が開くという逸話がある。つい「門の開きそうな空模様だな」と独りごちると、忍田真史は微かに瞠目してすぐさま硝子戸を閉めた。そうして手持ちぶさたに忍田真史のトリガーと戯れる少女へ――逆立ちしたって発動出来るはずがないのに――危険だと叱るのだ。まったく過保護なことだ。ボーダー最強の虎が聞いて呆れるぞ。けれどそれらは凡て、内へ秘めた惧れの裏返しだと俺は知っていた。 そうだ、あの時もこんな雲居だった。忍田史桜が姿を消したあの日は。俺は地平線の彼方から忍び寄る濃紺に、幼稚園の迎えが遅くなったと走り去る忍田真史の姿を思い描いた。その直後である。手を繋ぎ帰路を急ぐ二人の頭上へ、やにわに門〈ゲート〉が発生したのは。 トリオン兵が出現するかと思いきや、辺りは深閑として、真っ黒な洞穴が大口開けているばかりだったと当事者は語る。その代わり妹の身体が強い力で異空間へ引き寄せられ瞬く間に姿を消したのだ。束の間、門の向こうに紅く煌めく無数の点が見えた――ボーダー調査書にはそう記載されている。それがなんの光だったのか未だに不明だ。 それからと言うものの忍田真史は血を吐く思いで妹の行方を探った。結果はご存じの通り、徒労に終わり胸を裂く後悔へ苛まれるだけだったが。だから史桜の兄は決してあの日を忘れまい。トリガーという力を有しながらたった一人の肉親さえ護れなかった屈辱の日を。 そして遠征隊が発見するまでの間に史桜がどこの国へ攫われ何をしていたか。多様な憶測が飛び交っているものの、本人の記憶がない以上迷宮入りである。蓋し、トリオンを失っただけ、現在は後遺症もなく五体満足で三門市ライフを送っている少女と再会出来た忍田真史は幸運な男と称えたい。 「ああそうだ。史桜、明日午後は防衛任務がある。私は遅くなるから、放課後は直接、玉狛の本部へ来るといい」 「私は一人でも大丈夫だよ」 「だめだ。ボーダーの隊員と一緒にいなさい」 「……はあい。了解です、忍田隊長」 彼女は時折、親しみを込めて兄貴をこう呼ぶ。遠征艇で隊員がそう呼んでいたのを気に入ったらしい。技術班から借りた小難しい文字が並ぶ紙束を広げ、性懲りもなく兄貴のトリガーをいじくる史桜を置いて、俺は虎を隣の部屋へ引っ張り込んだ。 「学校のほうは順調か?」 「問題ない。外国へ行っていた、ということで話を通してある」 「言い得て妙だな。まあ近界からの生還者だなんて口が裂けても言えないだろう。仮にボーダーが公の存在であったとしても、上は機密扱いにしたはずだぜ」 史桜の事情は、ボーダー職員、それも上層部の一部やごく親しい人間しか知らない。只ならず完全な姿で「還ってきた」人間は珍しいからだ。もしか調べが付かないだけで他にもいるのかもしれないが、生還者が存在したとして彼らの攫われていった場所が「近界」と知る人間はごく稀だろう。だからこそ史桜の生い立ちは隠さねばならない。なぜって? 俺達の手が回らなくなるだ。 想像してみてくれ。行方不明者がいたとして、失踪者が近界で生きているかもしれないと遺族が知る。近界へ行くことが出来るのは俺達だけだから、畢竟、市民はボーダーへ依頼するだろう。知り合いを連れ帰って欲しいと。だが俺達は無理だと断わる。星の数ほどもある近界国からたった一人を連れ帰るなんて現在の技術じゃ不可能だからな。 しかし史桜の存在が明らかになったらどうだ。生還者がいるじゃないか、どうして我々の願いは聞いてくれないんだ、お前らは肉親を優先するのかと市民は悲鳴を上げるに違いない。そうなれば防衛任務どころではなくなる。彼女は運が良かっただけなのだ――本当にあの子が「忍田史桜」その人ならば。 忍田史桜――彼女ははじめ君島史桜と名乗っていたが、俺はあながち妄言ではないと思っている。俺だけではない、彼女の兄も心の底では分かっていよう。「君島史桜」とは、近界へ攫われた少女が孤独に耐えられず創り出した玉響の幻想ではなく、実在した人間であると。彼女がこちら側の人間なのか、見知らぬ近界を生きる近界人だったのかは不詳である。だが幼児期の忍田史桜と現在の忍田史桜に人格乖離が見受けられる所以は、おそらくそれが原因だ。 されど君島史桜と忍田史桜はまったくの別人でもない気がする。頬染めて緩む口元を押さえる微かな仕草、誰かが困っていると余計な言葉を発さず手を差し出す隠れた気立ての良さ。それらはまさしく何年か前に行方を眩ませたあの少女の気質である。 とどのつまり二人の根本は同じなのだ。忍田真史が上層部相手へ楯突いたのも肉親の直感でそれを感じ取ったからに相違ない。人格は異なれど、同一の存在だと。だから必死に「取り戻そう」とした。来し方の過ちを繰り返さぬために、二度とあの悔恨を味わってなるものかと沈黙の内に叫んでいたのだ。 俺達が平静を装ってリビングへ戻ると史桜はこちらを打ち見、すぐに紙面へ視線を落とした。何を話していたかさやかに見抜いた気配だった。けれど史桜は己が置かれた立場を心得てもいた。中学へ上がってまもない子供にしては飲み込みが早すぎるほどに。俺は忍田史桜が、いやこの場合は君島史桜と呼ぶべきか、さだめて友達とおままごとのような遊びへ興ずる精神年齢でなかったことは保証出来た。 さても眉根を顰めて書類と睨めっこするその子は何をしているのか。ここのところずっとああやって没頭している、と兄の溜息ひとつ。俺達二人が肩越しに覗き込むと、彼女はアタッカー顔負けの反射速度で手元を覆い隠した。 「なんだ。私達に見せられない物なのか」 「も……最上さんとの秘密なので……」 「最上さんだって?」 言葉少なに狼狽する史桜の口から思いも寄らぬ人物の名が飛び出る。最上さんは俺達の先輩に当たる人物だ。指令とほぼ対等に在る男の指示ならば危惧することもなかろうが、一層関心を掻き立てられるというもの。 「あの人と一緒に何を企んでるんだー? このお転婆娘め」 オペレーター試運転へ参加しているとは言え、限りなく一般人に近い彼女が最上さんと何かを企むなど却ってきな臭い。だが、誰よりも口うるさく追求しそうな忍田真史が、このときばかりは戦闘中に見せる柔軟さを発揮した。 「そうか……最上さんの発案か。念のために聞くが危険なことではないんだな?」 「うん、大丈夫。絶対に大丈夫」 細首を縦に目尻を細める少女は羽化前の蛹か。雑踏に咲く白菊、小振りであっても艶やかな唐草に埋もれず、燦々と注ぐ冷たい朝露の中で一際眩い野花はいずれ美しく咲き誇ろう。俺は、上層部から誠に彼女を守っているのは、忍田真史でも俺でもなく最上さんなのだと嗅ぎ分けた。 「分かった。なら問い詰めるのは最上さんの許可が下りるまで待とう。……でも危険だと思ったらすぐ止めさせる。約束だ」 「おい忍田。口うるさい兄貴は嫌われるぞ」 俺は呆れ返って拭き終わったばかりの眼鏡を掛け直した。肉親が絡むと人は平静でいられぬものらしい。一歩引いて物を見ることが出来る最上さんが味方で良かった。そう胸を撫で下ろす俺を流し見、出し抜けに、沈着を装っていた少女が噴き出した。 「おい。史桜もあまり兄貴を甘やかすなよ。将来大変なことになるぞ」 「あー……甘やかされてるのは私のほうじゃ?」 笑いの渦に呑まれる中で忍田だけが話題に乗り遅れていた。しかし俺は史桜の行動に思いがけず心が躍った。史桜がさように何かへ熱中するのは、翻せばこの居場所へ善く善く馴染んだ証である。だから俺は、このまま皆、史桜が生還者である事実など忘却してしまえば良いとも思った。空白の一年間――それこそが彼女と俺達を引き裂く鎖鎌だと予感していたから。
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